第8章 翌日

1.状況

 結局、夜が明けても、玉澤先生の意識は戻らなかった。
 私は、玉澤先生を、娘さんと、昨夜は親の介護のために実家にいて今朝方駆けつけた妻に任せ、病院を出て、いったん部屋に戻り、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。少し眠った後、シャワーを浴び、以前六条さんに私は休日はモノトーンのラフな格好をしていると説明したことを思いだして、無地の黒っぽい服に着替えて、昼過ぎに事務所に行った。
「玉澤くんの様子はどう?」
 事務所では、このたびの事態に対応し今後のことを相談するために休日出勤した六条さんが待っていた。
「少なくとも午前7時時点では、意識は戻っていませんでした。変化があったら娘さんから連絡が来ることになっていますが、その後連絡はありません」
「そう…」
 六条さんは眠れていないようで、目の下にクマができていた。さすがの六条さんも、今日は、年齢不明の美魔女ではいられず、年相応に見える。そう思って、私は、自分がなんと意地悪なのかと気がつく。今の私はきっと、実年齢よりひとまわりかふたまわり老けて見えるだろうに。
 今日の六条さんは、オフホワイトのタートルネックのカットソーの上に山吹色のカーディガンを羽織り、胸には絡み合う木の枝のモチーフのブローチをしている。ボトムはらくだ色のスカートだ。日頃寒色系の暗めの服を着て魔女っぽい雰囲気を漂わせている六条さんには珍しい。こんな明るい色の服も持ってたんだ。しかし、春らしくフェミニンな装いは、やつれた表情には似合っていない。それにこんな日にこんな明るい色は…と考えて、いや考え違いをしているのは、黒いモノトーンの服に着替えてきた私の方だと気づく。六条さんは、不幸なことを考えていると不幸を引き寄せてしまう、今日を悲しい日にしたくない、させるものかと思って、あえてふだんは着ない暖色系の装いで出勤したのだ。それに、六条さんのコーディネートは護摩焚きを連想させる。彼女なりの平癒祈願なのだろう。

「午前中、警察が来て、事務所の外回りの写真を撮ったり調べていたわ。私は、事務所の中は昨日の午後5時に私が帰ったときと変化はないし、なくなったものもないと答えておいたけど。実際、その通りだから」
 ため息をついた六条さんは、淡々と報告した。
「警察、ですか。六条さん、通報したんですか?私は警察には全然連絡しませんでしたけど」
「私もしてないわ。本当は通報すべきなんだろうけど、玉澤くんは警察は好きじゃないから、なんだか、玉澤くんだったら通報しないかなと思ってしまって」
「じゃあ、どうして警察が?」
「たぶん、救急隊が通報したんじゃない?頭から血を流して倒れてたんでしょ?見るからに犯罪だと判断したんじゃないの」
「そうすると、報道は?」
「私が把握できた限りでは、新聞の朝刊の紙面には載ってないけど、ネットのニュースでは一番早いもので午前5時頃から、テレビのニュースでは午前6時から出てる。新聞は紙面では今日の夕刊でしょうね」
「えぇっ、テレビまでですか」
「弁護士が事務所の前で頭を殴られて意識不明の重体、だからね。ふつうに考えれば事件関係者の犯行と予想されるし、報道価値は高いと評価されるんじゃない?それに玉澤くんは業界でも名が知られているし、解雇された労働者のために企業と闘う弁護士ということで記者受けもいいと思うから、扱いが大きくなるんじゃないかな」
「内容は?」
「事実関係は、どこの社も、『22日午後11時20分過ぎに弁護士の玉澤達也さん(59歳)が、東京都新宿区大久保の弁護士事務所の前で頭から血を流して倒れているところを発見された。玉澤さんは意識不明の重体。警察は玉澤さんが何者かに頭部を強打されたものと見て慎重に捜査している』って、そこまでは判で押したように同じ。それに社によって、玉澤くんがどういう弁護士かってところがついていたりする。たぶん、通信社の配信記事で、それに玉澤くんのことを知ってる記者がいるところは若干の追加をしたというところでしょ」

「さぁ、まず事実関係を確認させて。狩野さんが発見したとき、玉澤くんはどういう状態だったの?」
「事務所のドアの前で仰向けに倒れていました。頭の下の床に血がたまっていました。その状態で頭の傷は見えませんでしたが、頭から血を流していることは一目でわかりました。」
「ドアの鍵は?」
「キーケースごと刺さったままでした。錠はかかっていました。救急隊について行くとき、私が鍵を抜いてポケットに入れて、病院で娘さんに渡しました」

「そうすると、犯人は、ドアを開けようと思えば開けられたということね」
「そうですね」
 六条さんは、腕組みをして、考え込んだ。
「でも、犯人はドアを開けて事務所に入ろうとはしなかった」
「どうしてわかるんです?」
 六条さんは、私をチラリと見て、少しためらった。
「いいわ。見せてあげる。一緒に見ましょう」
 私は六条さんの手招きに従い、六条さんのデスクの横に椅子を置き、六条さんのパソコンのモニターを睨んだ。
「これが昨日の夜の録画。見て。今、玉澤くんがパソコンを切って、立ち上がり、部屋の電灯を消して出て行く」
(六条さん、カメラで監視してるだけじゃなくて、録画も残してるんだ…)
 玉澤先生がカメラの視野から出たあと、電灯が消されて暗くなり、そのあと画面がやや明るくなり、また暗くなった。
「わかる?玉澤くんがドアを開けて閉めたあと、画面は暗いままなの。犯人が玉澤くんを襲ったあと、ドアを開けたら、カメラはそっちには向いていないから犯人は見えないけど、画面が明るくなるはず」
「確かに。でも、犯人が事務所の前の電灯を消してからドアを開けたらどうです?」
「狩野さん、事務所前の階段の踊り場にある窓の外にケバケバしい電飾看板があるの知ってる?事務所の前の電灯を消したら、今度はその電飾看板の点滅する光が入るの」
「どうしてその電飾看板の光がそっちを向いてないカメラで判別できるってわかるんです?玉澤先生が事務所の前の電灯を消してからまたドアを開けたりするんですか」
「玉澤くんはそんなことしないから、私も気づかなかったんだけど、狩野さんが教えてくれたのよ」
「えっ、私?」
「これが、狩野さんが去年の11月10日の深夜に事務所に忍び込んだときの録画。ほら、ここ、事務所前の電灯が消えた状態で、狩野さんが事務所前の電灯をつけずに事務所のドアを開けたところ。画面が薄く点滅してるでしょ」
 その後画面は、私が事務所内にだれもいないことを確認してから電灯をつけたため明るくなり、まもなくカメラのことなど知らない今日と同じ黒装束の私が視野に現れ、玉澤先生のパソコンの電源を入れた。
「電話が鳴って慌てふためくところまで見たい?」
「いいえ、けっこうです」
 むくれた私に、六条さんは、今日初めて笑顔を見せて、停止ボタンを押した。小憎たらしいが、私は、私のおかげで六条さんが笑えたことに、少し気を取り直した。玉澤先生が襲われて以来、打ちひしがれ沈みきった私たちには、少しでも、笑いが必要だ。それが私にとっては自虐的なものであったとしても。
「そうすると、犯人は事務所の中のものにはまったく関心がなかったということですね」
「そう。そもそもドアが開けられていないから確認するまでもないとも思ったけど、念のため、朝一番で何かなくなっているものがないか探してみた。でも、私が把握できた限りでは、何もなくなってなかったの」
「わかりました。六条さん、その録画ですが、玉澤先生が事務所を出る前の映像はどこからありますか」
「どこからって、遡って1週間分あるわよ。それを超えたところで容量オーバーになるので、必要なところは別に残して保存してるけど、そこで保存しないと上書きされて消えていくの」
「そこまで遡らなくていいですけど、22日に事務所を出る前、玉澤先生の行動に何か変わったところはありませんでしたか」
「特に感じなかったけど、一緒に見てみる?」
 六条さんは、玉澤先生が事務所を出る30分前からの映像を再生した。玉澤先生は、いつも事務所にいるときと同じく、自分の机に向かい、事件記録をめくり、パソコンに向かっていた。カメラの方を向くことは一度もなかった。玉澤先生は、カメラの存在にまったく気づいていないようだし、そんなこと疑ったこともないのだろう。別に恥ずかしい姿をしているわけではないけれども、お風呂に入っているところやトイレにいるところを観察しているわけでもないけれども、無防備な様子の玉澤先生を、今は私も一緒になって覗き見していることに、私は良心の疼きを感じた。
「今、玉澤先生が事務所を出る5分前ですよね。ここで電話してますけど、相手はだれなんでしょう」
 私は、監視カメラ映像の玉澤先生を指さした。
「電話会社に資料請求すればわかるけど、2週間くらいかかるわね。最後にかけた電話なら、リダイヤルでわかるはずだけど」
「やってみますか」
 私と六条さんは、緊張しながら頷きあった。
 ピポパ…プルルルル・・・
 リダイヤルボタンを押すと、番号が表示された。この番号は…どこだったか、私が思い出す前に電話が取られた。
「帝都法律事務所、穂積の係です。どちら様でしょうか」
「あ…すみません。玉澤達也法律事務所の者です。かけ間違えました」
「玉澤先生の事務所ですか。いつも穂積がお世話になっています。穂積は本日は出勤しない予定となっておりますが、穂積に何か伝言しましょうか」
「今はそれどころじゃ…あ、いえ、かけ間違いですので、けっこうです。ご容赦ください」
 ふう…玉澤先生が襲われる前に最後にかけた電話の相手は穂積先生?穂積先生は日本でも有数の使用者側の事務所の幹部弁護士で、玉澤先生とは敵方のはず。襲撃事件に何か関係があるのか、私はこの情報の価値を計りかねた。

2.ビデオ

「玉澤くんは、穂積先生に電話をかけて話をして、その電話が終わって2分後にパソコンの電源を切り、身支度をして事務所を出た。そして事務所の前で襲われて頭から血を流して倒れ、犯人は、玉澤くんがドアに鍵を刺したままだったのに、事務所のドアを開けることなく、鍵も置いたまま、事務所からも玉澤くんからも物を盗らずにそのまま逃げ去った。玉澤くんから何も盗らなかったかは、完璧には確認できないから、たぶんだけど。これまでにわかった手がかりはここまでね。狩野さん、他に何かわかる?」
 六条さんのまとめを聞き、まだその意味を計り兼ねながら、私は、六条さんとの共闘を試みた。
「実は、まだだれにも言っていないんですが、倒れていた玉澤先生の上着のポケットに、このUSBメモリーが入っていたんです」
「狩野さん、玉澤くんの持ち物検査したの?」
「いや、他のポケットは見てないんですが、人工呼吸するとき、ちゃんと呼気が肺に入っているか確認するために胸の方を見るじゃないですか。ちょうどその目線の先にポケットがあって、そのポケットが四角い形に膨らんでいたので、あぁUSBメモリーが入っていると」
「さっきの鍵のことといい、警察が知ったら激怒するわよ。現場保全をなんと心得るかって。まぁ、鍵はそのままにされたら不用心でしかたないけど」
「でも玉澤先生が持っていたUSBメモリーだから、守秘義務の関係も考えると、そのまま警察に渡すわけにも…」
「まぁ、中身次第よね」
「そう、私も病院から帰って少し寝て起きたらすぐここに来たので、まだ中身は見てないんです。六条さんも一緒に見ませんか」
「ええ、見せてもらうわ」
 私は、USBメモリーをパソコンに挿し、念のためにウィルスチェックをかけた。中身は動画ファイルが3本だ。
 最初の動画ファイルをクリックして、私は度肝を抜かれた。


 ビデオは、1人の男性の局部のアップで始まっていた。音声はない。やがてもう1人の男性の尻が大写しになり、2人の男の腰周りだけが画面内でうごめき、2人の男が性交を始めた。
 私はまったく予想していない展開に肝を潰し、画面から目を背けた。今の私には、男性の裸、というか局部の映像は、関心がない(玉澤先生を除く(笑)。仮に玉澤先生のだとしても、こういう映像は見たいとは…えっと、これがもし玉澤先生の映像だったら?いや、見たいかどうかとは別次元で、気になる。
 でも、こういう映像にどういう反応をしていいかと思うと、恥ずかしい。男性にこういうビデオを見せられて、困っている様子を見られるということになったら、今どきそんなセクハラは到底許されない。しまったなぁ、六条さんにどう思われただろう、と六条さんの方を見たら、私の様子などまったく気にもかけずにしっかり凝視していた。さすが50代の人妻は強いってか。
「大丈夫よ。映っている男の人は、玉澤くんじゃない。ついでに言うと私の夫でもないわね」
 私が六条さんを呆然と見つめていることに気づいた六条さんが微笑んだ。
「わ、私も、玉澤先生じゃないかなんて全然考えても見ませんでしたけど、でも、六条さん、こんな腰周りしか映っていない、声もないビデオでどうして玉澤先生じゃないって断言できるんです?」
「私とたまピ~はホットにつながっているのよ。なぁんてね」
「ホントにまぐわってるとか交わってるとか言わないでくださいよ」
「心がつながってるって言ってるの。つながってるとまぐわってるじゃ全然違うよ。聞き間違い?それとも意図的な意訳?」
 六条さんは会心の笑みを見せた。六条さんに笑ってもらえるなら私が多少の犠牲を払ってもいいとさっき考えたのは、撤回する。調子に乗りすぎだ。
「忘れたの?玉澤くんの左のたま…にはほくろがあるの。子どもの頃に見たっきりだけど、それは変わってないでしょ。この動画の2人にはそれがない。1人目はすぐにわかった。2人目がなかなかそこが映らないから見続けていたんだけど、さっきわかった」
 そうだった。小学2年生のとき、水泳のために海パンに穿き替える玉澤先生を見とがめた同級生がほくろを見つけてみんなの前に曝したという、『ほほえましい』エピソードを私も思い出した。
「あとの2本も確認しようか。念のため。狩野さん、もう悶々とするのいやでしょ」
(六条さんは、私が、映っている男がもし玉澤先生だったらどうしようって思案してたのを横目で睨んでお見通しってわけ?)
「やっぱり、玉澤くんじゃないよ。狩野さん、ホッとした?それとも、残念だった?」
 それから約30分かけて、六条さんは残り2本のやはり同種の男2人の腰周りだけが映っている動画を再生し、最後にのびをしながら、言った。
「六条さん、映っているのが玉澤先生でないことはわかりましたけど、玉澤先生は、どうしてこんなゲイの性交のビデオばかり入ったUSBメモリーを持っていたんでしょう」
「狩野さんは、玉澤くんが実はゲイじゃないかって疑ってるの?」
「そういえば、玉澤先生の携帯のアドレス帳もほとんど男性ばかりでしたし」
「狩野さん、玉澤くんが倒れたのをいいことに携帯まで覗いたの?」
「それは、救急車で運ばれたことをご家族や六条さんには知らせなきゃと思って、私、電話番号もわからないから…」
「それで、ついでにアドレス帳全部確認するのは、嫉妬深すぎ。それじゃぁ、今カノになれたとしても、あきれられるよ」
 私は、ぐうの音も出ずにうつむいて、奥歯を噛みしめた。
「アドレス帳の件は、私たちには奥さんを除けばライバルはいないって、朗報だと前向きに考えた方がいいんじゃない?ところで、この動画ファイルをこのUSBメモリーに落としたのは玉澤くんじゃないわね」
「どうしてわかるんです」
 六条さんがさらりと言った『私たち』にはという言葉は私の耳にざらついたが、会話がすでにその先に行っていたので、私はそこは聞き流すことにした。
「ファイルのプロパティで作成日時と更新日時を見ると、どれも、玉澤くんはその時刻に狩野さんと一緒に裁判所か弁護士会にいたはずよ。ノートパソコンを持ち歩きもしない、スマホも持たない玉澤くんが、出先で動画ファイルをダウンロードしたりUSBメモリーにコピーできるはずがないでしょ」
 六条さんは、パソコンの画面と、玉澤先生のスケジュールを記録した六条さんの控えの手帳を見比べながら言った。
「そうすると、このUSBメモリーは」
「誰かが作成して玉澤くんに渡した。でも、だれが、何のために…狩野さんは、玉澤くんがやっていた事件で、これが何かの立証に関係しそうなものを思い当たる?」
「ゲイのハードコアビデオが証拠、ですか?」
「昔、玉澤くんが、アダルトビデオ店がわいせつ物販売目的所持で立件された刑事事件をやったことがあるけど、でも、玉澤くん、もう10年以上、刑事事件は受けていないから…」
「六条さんは、仕事のためだと思います?趣味のためじゃなくて」
「狩野さんは、玉澤くんが自分の趣味でわいせつビデオを他人から譲り受けたと思うの?今どき、もしそういうものが欲しいならネットで自分で探した方が、好みのものを簡単に見つけられるとは思わない?」
「う~ん、私の負けです。玉澤先生のこと、心の底から信頼してるんですね、六条さん。羨ましいな。疑いを持った私が恥ずかしい」
「あら、今日はずいぶんと素直なのね。心の底から信頼しているっていうのはちょっとしっくりこないな。もし玉澤くんがゲイだとしても、それで私の玉澤くんに対する評価が変わるわけじゃない。人間としての敬意の面だけじゃなくて、男として好きということも。玉澤くんが女としての私に興味を持てないのなら、それは少し悲しいけどね。その仮定の話と別に、ただ事実としてね、玉澤くんはゲイじゃないと判断しているだけ。長い付き合いだから、それはわかる。ほぼ確信しているということよ。狩野さんが玉澤くんがゲイのハードコアポルノを趣味で楽しんでいると疑ったとか携帯のアドレス帳をしらみつぶしにチェックしたなんていうことは、玉澤くんが復帰したときの報告でも黙っておいてあげる。でも、何についても疑いを持つのは、弁護士には必要な資質だと思うよ」
 六条さんはさらりとした笑顔を見せた。しかし、『復帰したときの報告でも』と言うときの口元のこわばりを私は見逃さなかった。六条さんも、『復帰したとき』が来るのか心配で、『復帰できたら』とは言いたくないのだ。私も、そこでは少し目を潤ませていたのだけど。

3.素太刑事

「お邪魔します。六条さんには先ほどご挨拶させていただきましたね。あなたが狩野さんですか」
 事務所のドアを開けて、30代前半と思われるベリーショートの女性が、40代と思われるごつい男を連れて入ってきた。
「狩野麻綾です」
「新宿警察署捜査1課の素太伐実です。こちらは同じく新宿警察署捜査1課の祟木刑事。玉澤さんの事件を担当しています」
 私が名乗ると、若い方の刑事が、名刺を出して自己紹介した。
「捜査1課って、玉澤先生は、死んでません」
「捜査1課は殺人事件だけじゃなくて、暴力系の事件はひととおり担当しています。玉澤さんの件は、今のところ、殺人未遂か傷害かということで、どちらにしても捜査1課の担当になります」
「そうなんですか。よろしくお願いします」
「さっそくですが、玉澤さんに恨みを持つ人物の心当たりはありますか」
 私の頭に、熱三電機の代理人の蟻蔵先生の憎々しげな顔が思い浮かんだが、あの事件では追い詰められているのは私たちで、むしろ恨んでいるのはこちらかも知れない。相手が恨んでいるということなら上見さんの件で面目を潰されている会良草先生とか、茅豆さんの件で厳しく追及されている高森先生とか…でも弁護士が事件で負けそうだからといって実力行使をするとは思えないし…
「弁護士ですから、敵対する人物はたくさんいますけど、玉澤先生はフェアプレイを重視して実践していますし、あまり恨みを買うことはないと思うんですけど」
「そうですか。その辺はよく考えていただいて、おいおい聞かせてください。狩野さんには、第一発見者として発見時の状況と、日頃玉澤さんとともに仕事をしている関係で、玉澤さんに恨みを持つ人の心当たりについてお話を伺いたいですし、六条さんにも玉澤さんの周囲での不審なものや動き、事務所の様子で気がついたことなどをお聞きしたいと思っていますので、近々ご来署いただきたいと思います。ところで、本日は、事件現場付近の遺留指紋の照合のために、お手数ですが、指紋の提供をお願いします」
 私たちが、しかたなく同意すると、素太刑事は室外に控えていたらしい、鑑識課の人を呼んで、私たちの指紋と掌紋を採取した。
 事情聴取は新宿署で行うこととされ、六条さんは明日の日曜日、私は明後日月曜日の夕方と決まった。私たちがそろう事務所ではなく、警察署で個別に聞きたいというところが、おどろおどろしい感じがする。後ろに控えていた祟木刑事は無口なのか、最後までひと言もしゃべらなかった。これもまた不気味だ。警察というのは、そういうものかも知れないけれど。 

第9章 苦境 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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