エピローグ 春の心

1.美咲-6

「え~っ、麻綾、目の前で濃厚なキスをされて、それで何にもなしなのおっ」
 夏井さんの事件が解決した後の週末、もう行きつけになった下北沢の居酒屋で、玉澤先生が目覚めた後の一連のいきさつを聞いた美咲の最初の発言はそれだった。
 私としては、玉澤先生の謎解きというか、熱三電機の電子メール偽造を立証したその論証を誇らしく思い、そこでのろけるつもりだったのだけど。
「そう。見事なまでに何事もなかったかのように対応してるの。玉澤先生も、六条さんも。六条さんが少しは気まずい思いをして遠慮するかななんて思ったけど、全然よ。相変わらず『たまピ~』って、甘やかな声で呼びかけていちゃついたり、玉澤先生の肩を揉んだりしてる」
「だって、いきなり抱きついて一方的に唇を奪ったんでしょ。許せなくない?」
「そういう気持ちがないわけじゃないけど」
(でもね、私は、意識不明の玉澤先生の唇を奪って、そりゃもちろん人工呼吸だという言い訳はできるし、自分にもそう言い聞かせてはいたけど、どこかドキドキしながら楽しんでたところもあって…美咲には言えないけど。だから、六条さんの行為をストレートに非難しにくい気持ちもあるんだ)
「それなのに、麻綾が玉澤先生に、六条さんの気持ちを代弁した挙げ句に、その後も何事もなかったように対応してあげてくださいって、あんた、どこまでお人好しなの?」
「ええぇっと…でも六条さんにいなくなられると、困るのよ。事務員としての仕事はきちんとできるし、玉澤先生への忠誠心も高いし…」
(それも事実だけど、もしキスしたことで六条さんが気まずくなって事務所にいられなくなったとしたら、後々、もしも、もしもだけど…私が玉澤先生と同じことになったとき、私もそうなっちゃうということに…六条さんが問題なく勤め続けられるのなら、私も…)
「麻綾、なんだかさっきから、別のこと考えてない?」
「え、そ、そうかな…」
(美咲、私はやっぱり計算高い、腹黒い女かな?美咲に本音を話して聞いてみたい気もするのだけど、ちょっと恥ずかしい)
「ところで、六条さんの容疑は本当に晴れたの?麻綾の話では、玉澤先生が襲われた夜に麻綾が電話したとき、背後で駅のアナウンスが聞こえたのに、六条さんは自宅にいたって言い張ったんでしょ」
「あぁ、それはね、六条さんはうちで夫も出張して一人なので、レンタルビデオ屋で大量にドラマのDVDを借りてきて見ていた最中で、たまたまドラマのクライマックスが駅での別れのシーンだったらしいの。で、クライマックスに電話がかかってきて、今いいところなのにと思って電話に出たから、最初機嫌が悪い対応をしたんだって。それに、私自分の側のことを忘れてたけど、救急車の中からかけたから、電話に出るなり背景音でサイレンが鳴っていて、そりゃあ警戒するでしょって。言われてみたらその通りだわ」
「なんだ、そうするとライバルを追い落とす絶好のチャンスも活かせなくて、当分、事務所内三角関係が続くわけか」
「うん。でも、それはそれで刺激があって楽しいよ。どちらにしたって、私は私、六条さんと比べるんじゃなくて、私が玉澤先生といい関係になれて楽しめればそれでいいって思うの」
「ふ~ん。麻綾って大人なんだね。見直したよ」
(いや、そんな立派なもんじゃないんだけど…)
 六条さんを、炭鉱のカナリアのような、毒見役のような役回りに用いたことに、わずかながらに後ろめたさを覚える私は、美咲の意外なまっすぐさに戸惑う。少し前まで、美咲の方が私よりしたたかな女だと思っていたのに。まっすぐに玉澤先生を思う、純情なはずの私は、いつの間にか良く言えばたくましく、悪く言えばずる賢くなっているみたい。
「美咲、初詣で引いたおみくじの恋愛運、覚えてる?」
「麻綾が引いた『大凶』、『恋敵に注意』だったよね」
「うん。そっちを覚えてるんだ。あの日、美咲が私のことを祈ってから引いてくれた『大吉』のおみくじの方は覚えてない?」
「『争事』の方がよくなかったから、そこはあんまり見なかったなぁ」
 私はショルダーバッグから、折りたたんで持ち歩いているおみくじを引っ張り出した。
「麻綾、持ってたんだ。信心ないって言ってるくせに」
「ふふふ、美咲が私のために引いてくれたって言うし、気に入ったから」
 そこには『恋愛』『この人となら幸福あり』と記されていた。

2.サクラ

「サクラ、やっぱりいいですねぇ」
 翌週の初め、午前中の裁判期日を終えた私たちは、事務所にほど近い戸山公園のベンチに座り、寄り添いながら、散りゆくサクラを眺めていた。春の暖かい日差しを浴びて、私はほのぼのとした気分だった。つい先日までは、サクラのことなど目にも入らなかったし、今年のサクラを玉澤先生とともに見ることもできないかもとうち沈んでいたことなど、もう遠い昔のことのようだ。
 玉澤先生は、頭や言葉はすっかり回復したが、足の動きが少しまだぎこちなく、ときどきよろける。私は、それを不憫に思いつつ、玉澤先生が出かけるときはほぼいつも付き添って、手を引いたり肩を貸したりする。ありていに言えば、それを口実にいつも体を密着させて、手をつなぎ、いちゃついている。今の状態が、私には、うれしい。玉澤先生は、自分の体の動きがままならないことを情けなく思い恥じていたが、今では年をとればどうせそうなるものと折り合っているようだ。最初の頃はよろける度に私に「済まない」と言っていたが、私が「こうやってくっついていられることを私は楽しんでいます」と言い、さらには「今度『済まない』って言ったら、六条さんみたいに『もう、これ以上しゃべらせない』って唇を塞ぎますよ」って宣言したら、何も言わなくなった。今では、体を寄せる度に私が微笑む(第三者の目からは『ニヤけている』と見えるかも)のに合わせ、玉澤先生も微笑んでくれるようになっている。
「ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ、だなぁ」
「紀友則、ですね。でも先生、サクラは散ってもまた来年咲きます。サクラにとっては花が散ることは実をつけるために必要なことで、人間が感傷的になるような哀しいことじゃないんですよ。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。サクラが散るのに感傷的になるよりも、サクラを楽しみ、今そのときどきを楽しみましょうよ」
「狩野さん、深いね。時々私よりも人生経験がありそうなことを言う」
「今回の件で、一生かかっても味わえないかも知れないほどに、絶望も地獄も見ましたから」
「済ま…」
 玉澤先生の鼻の頭にくっつくほど顔を近づけ、『それ以上言ったら唇を塞ぐぞ』と目で言う私の顔を目前にして、玉澤先生は言いよどんだ。
「先生、ゆっくりと温泉旅行、しませんか。温泉で、一日中、ただぼ~っと過ごすの」
「えっ」
「先生の体と、それから心を癒やすのに、今をゆっくりと楽しみましょう。酒田でもいいですけど、六条さんが夏休みに行った温泉宿、すごくよかったそうですよ」
「でも、休みが…」
「先生の4月後半の日程、ガラガラですよ。ふつうなら4月後半に入るはずの期日をすべて私が5月後半に飛ばしちゃいましたから。全部私が入れたから、ごまかせないですよ。できたら1週間くらい行きたいけど、2泊3日くらいでも妥協しますよ。2人でしっぽり、何もしないで脱力してくつろぎましょ」
「狩野さんと2人で?」
「先生が、私と六条さんに挟まれて寝るのに耐えられるのなら3人でもいいですよ。でも、六条さんも一緒だと事務所を閉めないといけないし、それから…私、先生と2人なら、こうやってくっついていちゃつければ完全に満足で、それ以上求めないですけど、六条さんが一緒だったら張り合って要求がエスカレートするかも」
 玉澤先生が苦笑いして、柔らかな日差しの下で舞い落ちるサクラの花びらを見る。
「温泉旅行か…それもいいかな」
 サクラがあってもなくても、玉澤先生が側にいれば、私にとって、春の心は実にのどかだ。

(完)

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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