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「アイ・イン・ザ・スカイ」(映画)を題材に法を考える

問題提起

 映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」(Eye in the Sky :2015年、イギリス:日本では2016年12月23日公開)では、ケニヤのナイロビの過激派「アル・シャバブ」支配地域内の家屋に国際指名手配中の幹部らが集結し、付近に送り込まれたスパイが家屋内に飛ばした盗撮ビデオカメラ映像によって自爆テロの準備をして出撃が近づいていることが判明したという状況の下、20000フィート上空を飛ぶヘルファイアミサイル2基を搭載したドローン(無人機)からその家屋を映したクリアな映像を見ながら、イギリス軍統合司令部、内閣、ドローンを操縦するアメリカ軍基地(ネバダ州)の3者を結んで、作戦が議論されます。
 当初は、特殊部隊が家屋に突撃して指名手配犯らを捕獲する作戦でしたが、最重要対象者の確認ができないうちに移動されて過激派支配地域内の家屋に移られたため、捕獲作戦は犠牲が大きくなりすぎると判断されました。軍人は殺害への作戦変更を主張し、政治家は上の許可を求めるべきだと自らの責任を回避し、法律顧問は法的な正当性がないと述べ、議論が紛糾します。最終的にアメリカの国務長官が爆撃を許可すると言ったことで爆撃の準備に入りますが、その最中にその家屋の前で少女がパンを売り始め、爆撃をすれば少女が死亡する確率が65~75%と計算されます。
 この状態で、対象を殺害したい軍部と、法的正当性に疑問を持つ法律顧問の間で、自爆テロにより失われるかもしれない「80人の命」と1人の少女の命をめぐり、爆撃を実行するかどうかのせめぎあいが始まります。

 

自爆テロを目前にして法は何を求めているか

 たぶんふつうの法的な考えでは、少なくとも私の感覚では、自爆テロを準備して敢行しようとしている人物は、爆発物を持って公道に出たところで爆発物所持の現行犯として、過激派の幹部は国際指名手配されているというのですから当然に逮捕令状が出ているはずなので令状により、いずれも逮捕はできるでしょうし、それで起訴・刑事裁判と進むべきで、裁判なしで殺害することは法的には許されません。
 そのような答に対しては、生ぬるい、悪をなそうとする者に対しては厳しく当たるべきであり罪なき者を危険にさらすべきではないなどの意見があるでしょう。今どきはそういうふうに言いたがる人が、多数を占めそうな気がします。
 しかし、自爆テロを防ぐためにテロリストを殺害してよいという考え方は、国家権力の行使をテロリストの自爆テロと同次元に引き下げ、貶めるものです。国家権力の行使は、それが国家権力であるがゆえに(その理由が国民の信託によるものであるからか、権力が巨大であるからかは置いても)謙抑的な行使が求められ、また正義を具現するために行使されるべきであり、適正手続を守って行われるべきですし、権力を行使する者には一定の矜持(ノブレス・オブリージュ)が求められます。テロリストが悪を行うのだから、国家も同様に目には目をでいいというのは、子どもの喧嘩レベルの議論でしょう。ブッシュが「対テロ戦争」などと言い出してから、アメリカという国は、そのレベルで議論するように成り果ててしまいました。その「同盟国」も、そのレベルに落ちる国が多いようです。床屋談義であればともかく、権力を行使する人物がそのレベルでいることに、私は、戦慄を覚えます。 

 

「80人の命」と1人の命の二者択一は本当か

 この作品では、自爆テロで失われるかもしれない80人の命を守るために1人の少女を犠牲にしてもテロリストを爆撃すべきか、という問いが度々投げかけられています。
 この種の「究極の選択」を迫りたがる多くの作品同様、この「二者択一」には疑問があります。
 そもそも「80人の命」自体、もともと人混みで自爆テロを敢行したらそれくらい犠牲者が出るかもしれないというさしたる根拠のない推測ですし、自爆テロが成功するかどうかには多数の不確定要素があります。
 この作品の事例に基づいてより具体的に言えば、イギリス軍幹部らは長時間にわたり上空からの監視を続けて議論しているわけですから、まずは捕獲作戦のために待機させている特殊部隊を過激派支配地域の外側に移動させて待機させておくべきで、自爆テロの行為者が移動を始めればそれを上空から監視を続け、支配地域を出たところで捕獲(逮捕)する、そこで抵抗すれば初めて射殺等の対応をするというのが本筋でしょう。自爆テロを続ける過激派を捕獲する作戦に従事する特殊部隊は、対爆弾用の装備もしているはずですし。イギリス軍幹部は過激派は人混みで自爆テロをすると繰り返し主張していますが、過激派が自分たちの支配地域で自爆テロをすることは考えられませんから、自爆テロの実行犯が支配地域からそうでない地域の人口密集地帯までの間の非居住地帯を通る場面が当然にあるはずです。その程度の冷静な判断もできないようなら、まず軍の作戦を指揮する資格はないでしょう。
 私には、イギリス軍幹部が爆撃による殺害にこだわるのは、自分が最重要対象者の存在確認に手間取って、その間に過激派支配地域に移動されて、捕獲作戦には軍の犠牲が大きくなってしまったという、自己の失策を糊塗するためにも、軍の犠牲を払わなくてよい殺害に切り替えたいという動機、6年間探し求めてきた最重要対象者の存在をようやく把握したことから逃がすリスクを最小限にするため捕獲より殺害にしたいという動機があったものと見えます。自爆テロが迫っているというのは、軍幹部にとってはむしろ殺害に切り替えるための口実に過ぎなかったように思えます(終盤での2回目の爆撃指示を見ると、その感を強くします)。
 このように他の可能性を十分に検討することなく、すぐに二者択一であるかのような議論に持ち込むことは、何かを守るためにはこうするしかないという決めつけで、「防衛」の名の下での先制攻撃(実質的には侵略行為・犯罪行為)を正当化する手法へとつながる危険をはらんでいます。

 

 感情的な反応ではなく、法に基づいた思考をするとともに、事実関係をよく検討して、誰かが言う主張とその枠組みを丸呑みにせず、見落としがないか、他の解決方法がないかをていねいに検討する、そういう作業が法律実務家には求められているのだと、私は思います。
 人々が、あるいは当事者が、感情的になっているようなケースほど、そういう冷静な対応が必要だと思います。

 

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2016年12月25日

ジャン=バルジャンのケースを題材に刑事弁護を考える

どうして悪い人を弁護するのですか

 これは弁護士にとって答えることがとても難しい質問です。後で具体例を挙げて詳しく説明しますが、あえて一言で言えば、真実を明らかにしたりそれを評価して適切な刑罰を判断することは簡単ではなくて、人間が正しい判断に近づくためには、訴える側の専門家(検察官)とともに訴えられた側の専門家(弁護人)が必要だということを人間は歴史の中で教訓として学んだのだということです。

 

 この質問に対して、訴えられた人(被告人)が犯人かどうかはわからないというのが、多くの弁護士の答です。確かに訴えられた人が「自分は無実だ」と言っている事件ではそういうことになります。
 しかし、実際に弁護士として受ける事件では、訴えられた人が「確かにやった」と自分で言っていることの方が多いのが実情です。

 

 訴えられた人が現実に犯罪を犯している場合でも、事件に関する様々な事実関係や訴えられた人に関する様々な事実が、刑罰を決めるために重要な役割を果たします。例えば、同じ殺人でも、被害者から悪口を言われてかっとなって殺してしまったような場合懲役8年とか10年とかいうことが多い(いや、「かつては多かった」というべきでしょうね。最近は量刑相場がどんどん厳しくなっていますから)のですが、お金を取るために殺したような場合は死刑や無期懲役(厳密には終身刑ではありませんが終身刑に近いもの)になることが多いのです。
 こういう事実は黙っていても裁判に出てくるわけではなくて、証拠書類や証人の証言という形で裁判所に出さなければなりません。このようにして事実を裁判に出すことを立証といいますが、こういう事実の立証や出てきた事実をどう評価するかということが、実際の裁判ではとても重要なのです。
 その事実の立証や評価のために、検察官も弁護人も一所懸命に活動するのです。

 

 抽象的に言ってもわかりにくいので、具体例で見ていきましょう。
 ここでは題材として、みなさんがたぶん一度はどこかで読んだことがある「ああ無情」( レ・ミゼラブル Les Miserables )のジャン=バルジャンが2度目の裁判を受けた時のケースを用います。
 次の段落で「ああ無情」の中から関係しそうな事実を要約し、その事実が裁判で立証されているとした場合に、検察官がどのような意見を述べ、弁護人がどのような意見を述べるかを試しにやってみます。もちろん、実際の裁判ならもっと細かく事実が立証されますから、検察官や弁護人の意見ももっと詳しくなりますし、法律用語が使われます。ここでは、比較的短く、わかりやすい言い回しでやってみました。
 次の段落のケースを読んだ段階でみなさんならジャン=バルジャンの犯罪をどう評価するでしょうか。それはその次の検察官の意見を読んだ後どう影響されるでしょうか。弁護人の意見を読んだ後どう影響されるでしょうか。検察官と弁護人の意見をどちらも読んだ後で考えることは最初にケースを読んだ時と同じでしょうか。

 

事件の内容:ジャン=バルジャンのケース

 ジャン=バルジャンは植木職人でしたが、25歳の時、姉と7人の子(ジャン=バルジャンにはおいとめいに当たる)のめんどうを見なければならなくなりました。1795年暮れ、冬は仕事がなく、子どもたちに食べさせるパンも買えなくなって、パン屋のガラス戸をたたき割りパン1切れを盗もうとして捕まりました。この罪と禁猟区で狩りをしたことであわせて5年の刑を宣告されました。その後4回脱獄をして捕まり、そのたびに刑が延びて1815年10月に19年ぶりに刑務所を出ました。
 しかし、たどり着いた町ではジャン=バルジャン(このとき46歳)の出所が知れ渡っていて、宿屋も泊めてくれません。3軒で断られた末、ミリエル司教(75歳)の館を訪ねました。ミリエル司教は、ジャン=バルジャンの話を聞いて事情を知りましたが、3人で食事のするのに銀の食器6人分を並べてジャン=バルジャンと食事を共にし、司教館の礼拝所に泊めることにしました。司教館の礼拝所に出入りするには司教の寝室を通らなければなりませんでした。
 ジャン=バルジャンは、その夜午前3時過ぎ、先のとがった鉄の燭台を持って鍵のかかっていない司教の寝室に入りました。ドアを開ける時金具の音が響き、ジャン=バルジャンはビックリして立ちつくしましたが、誰も起きてきませんでした。その後ジャン=バルジャンは司教の枕元の鍵のかかっていない戸棚から銀の食器6枚と銀のスプーン1本を盗み、窓から部屋を出て庭を突っ切り、塀を乗り越えて逃げました。
 ジャン=バルジャンは、すぐに憲兵に捕まり、銀の食器はミリエル司教にもらったと言い訳したためミリエル司教のところに連れてこられました。ミリエル司教は、ジャン=バルジャンの姿を見るとすぐに、銀の食器と一緒に銀の燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのかと言いました。ミリエル司教の言葉を聞いて憲兵はジャン=バルジャンを放しました。驚くジャン=バルジャンにミリエル司教は、この食器を正直な人間になるために役立たせるようにと伝えました。
 その日の夕方、ジャン=バルジャンは野原で物思いにふけっていました。そこへ10歳くらいの少年プチ=ジェルベが銀貨や銅貨を放り投げて手の甲で受けながら歩いてきました。プチ=ジェルベの受けとめそこねた銀貨が1枚、ジャン=バルジャンの足元に転がってきました。ジャン=バルジャンはその銀貨を踏みつけました。プチ=ジェルベはジャン=バルジャンに銀貨を返すように言い、ジャン=バルジャンが黙っているので襟をつかんで揺すぶったり足をどかそうとしました。ジャン=バルジャンはまだ考え込んでいましたが、少年がしつこいので、さっさと消えろと大声で怒鳴りました。これを聞いてプチ=ジェルベは怖くなって逃げ出しました。プチ=ジェルベが逃げた後、ジャン=バルジャンはプチ=ジェルベの銀貨を返そうと追いかけましたが、プチ=ジェルベを見つけることはできませんでした。
 その後、ジャン=バルジャンは改心してマドレーヌと名を改め、一所懸命に働き、貧しい人々を助け、モントルイユの市長に選ばれました。市長になってからも貧しい人々を助け続けていましたが、ジャン=バルジャンを追い続けるジャベール警部が1823年2月に別人をジャン=バルジャンと間違えて逮捕して裁判が行われることになりました。ジャン=バルジャンは、別人がジャン=バルジャンと間違えられて終身刑の求刑を受けるのを見て耐えきれずに、自分がジャン=バルジャンだと名乗り、逮捕され、1823年7月に裁判が行われることになりました。

 

論告:検察官の意見

 ジャン=バルジャンは、たびたび罪を犯して19年間も刑務所にいて、社会に戻るまでに十分に反省して心を改めなければならなかったのです。ところがジャン=バルジャンは刑務所を出てわずか数日のうちに立て続けに2件もの犯罪を繰り返したのです。しかもその犯罪は、つつましく生活している75歳の老人から高価な銀の食器を奪い、10歳の少年からなけなしの銀貨を奪ったものです。ジャン=バルジャンの犯罪は、自分より弱い老人や年少者から貴重な財産を奪ったという極めて卑怯なものです。被害者ミリエル司教はジャン=バルジャンの事情を聞いて救いの手をさしのべたところを恩をあだで返されました。それにもかかわらずミリエル司教がかばってくれたのですから、少なくともそこで改心すべきであったのに、なんとジャン=バルジャンはその日のうちにさらに犯罪を重ねたのです。ジャン=バルジャンは2度にわたってミリエル司教を裏切って犯罪を犯したのです。その第2の犯罪の被害者プチ=ジェルベもたまたま通りがかっただけで何の落ち度もないのに被害にあったものです。
 ミリエル司教に対する犯罪は、極めて悪質なものです。ジャン=バルジャンは深夜に司教が寝ている部屋に忍び込み銀の食器を奪いました。途中ドアを開ける時に音を立てても、ジャン=バルジャンは逃げ出すことなく、犯罪を実行を続けました。これはジャン=バルジャンが強い意志を持って犯罪を犯したことを示しています。そしてジャン=バルジャンはその際に先のとがった鉄の燭台を持っていきました。いったい何のためでしょうか。もしも途中で司教が目覚めたら司教を殺すためとしか考えられません。たまたま司教が目覚めなかったので無事に終わりましたが、ジャン=バルジャンの犯罪は、強盗殺人にもなりかねないとても危険なものでした。たとえ司教が個人的には許しても、このような危険な犯罪は、社会を守るためには、見過ごしたり軽く評価してはいけません。
 ジャン=バルジャンは、犯罪を重ねた後、名を変え、世間を欺いてきました。今は市長になっていますが、その間ずっと市民を騙してきたのです。犯罪の後によいことをしたからといって、それで罪が軽くなるものではありません。
 ジャン=バルジャンの犯罪がとても危険なものである上に、全く落ち度のない弱い者を狙った悪質なものであること、ジャン=バルジャンには悔い改める機会がたくさんあったのに自分で反省することなく犯罪を重ねたことを考えると、ジャン=バルジャンの罪は極めて重いと考えるべきです。

 

最終弁論:弁護人の意見

 ジャン=バルジャンが現実に犯した罪を冷静に見れば、現実の被害は小さなものです。ミリエル司教から盗んだ銀の食器は確かに高価なものでしたが、ミリエル司教はそれをジャン=バルジャンにあげたと言っており、被害者自身が被害はないと述べています。プチ=ジェルベの銀貨も本人が空中に放り投げて遊んでいたことからわかるようにプチ=ジェルベにとってそれほどのお金ではありませんでした。それ以前のジャン=バルジャンが19年間も刑務所に入れられた犯罪も、実際の被害は、ガラスを割ったことと若干の獣の肉だけです。検察官は、そして世間の人々はジャン=バルジャンを大罪人のように言っていますが、ジャン=バルジャンがこれまで1度として人を傷つけたことがないことに注意してください。
 検察官は悪質な犯罪だと言いましたが、ジャン=バルジャンの犯した罪はどれも計画したものではなく、その場の思いつきでつい犯してしまったものです。ミリエル司教については、刑務所を出ても犯罪者であるということが知れ渡って宿屋にさえ泊めてもらえず、今後どうやって生活したらいいか見通しが立たない追いつめられた気持ちになっていた時に、ミリエル司教が3人での食事に6人分の銀の食器を並べたのを深夜に思い出して、行ってしまったものです。検察官は強盗殺人にもなりかねないと言いましたが、もしミリエル司教が目覚めたとしても、ジャン=バルジャンは言葉で脅すことはあってもミリエル司教を傷つけることはなかったはずです。これまで1度も人を傷つけたことのないジャン=バルジャンが突然そのようなことをするとは思えません。プチ=ジェルベについては、ジャン=バルジャンが積極的に狙ったのではなく、ジャン=バルジャンが考え事をしていたところに足元に銀貨が転がってきたのです。ジャン=バルジャンがしたのはただその銀貨を踏んだこととあっちへ行けと怒鳴ったことだけです。
 確かに、ジャン=バルジャンはミリエル司教に許された時に立ち直るべきでした。しかし、小さな罪とその後の脱獄のために19年もの間刑務所に入れられ、人の温かさというものに触れることができず、人を信じられなくなっていたジャン=バルジャンにとって立ち直ることはそんなに簡単なことではありませんでした。ジャン=バルジャンはその時、ミリエル司教に許されたことに驚いてとまどっていたのです。かき乱された気持ちでプチ=ジェルベに対する犯罪を犯してしまったのは、まさにジャン=バルジャンの弱さでした。しかし、それは多くの人間が持つ弱さでもありますし、しかもそれは一瞬のことでした。ジャン=バルジャンはプチ=ジェルベが立ち去ってすぐに誤りに気づき銀貨を返そうとしてプチ=ジェルベを探しました。プチ=ジェルベを見つけられなかったので銀貨は返せませんでしたが、その銀貨をジャン=バルジャンは今もなお大切に残しています。
 そこからジャン=バルジャンは本当に反省し立ち直ったのです。その後7年間、ジャン=バルジャンは本当に立派に生きてきました。一所懸命に働き、貧しい人々を助けて、今では市長になっています。この裁判もジャン=バルジャンが自ら名乗り出たために行われていることに注意してください。ジャン=バルジャンは無実の別人に終身刑が求められているのを聞いて、その人のために自ら名乗り出たのです。名乗り出れば終身刑になる危険があるのに名乗り出ることは、どれほどの勇気がいることでしょう。ジャン=バルジャンはそれほどまでに十分に立派に立ち直っているのです。
 貧しい人々を助けて一所懸命に働き、市長になっているジャン=バルジャンは、刑務所に入れなければ社会を守れないほど危険でしょうか。被害者自身が許している犯罪と被害者自身が空中に放り投げていた程度の銀貨しか実害がなかった犯罪は、その後7年間も何一つ犯罪を犯さず立派に生きてきたジャン=バルジャンを刑務所に入れなければならないほど重大でしょうか。ここでジャン=バルジャンを刑務所に入れることこそ、ミリエル司教の気持ちを無にしてしまうのではないでしょうか。

 

結論は?

 みなさんはジャン=バルジャンに対してどうするのがよいと考えますか。

 検察官の意見を読んだ後は、たぶん、相当重い処罰が必要だと感じたのではないでしょうか。弁護人の意見と合わせて読むことで、最初には気づかなかったことも見えてきたのではないでしょうか。もし弁護人がいなかったら、みなさんはジャン=バルジャンに今考えているのと同じ判断をできたでしょうか。
 私は、別に検察官の意見が間違っていると言うつもりはありません。検察官の意見も弁護人の意見も1つの真実なのです。その両方を見た上で判断することで、より真実に迫った深みのある判断ができるということを言いたいのです。

 ところでジャン=バルジャンはどうなるのか気になるかも知れませんね。「ああ無情」ではジャン=バルジャンは少しも自己弁護をせず、検察官が巧妙な弁論でジャン=バルジャンが盗賊団の一員だったとしたことから死刑の判決を受けましたが、上訴せず、その後恩赦で減刑されて無期懲役とされました(弁護人の活動についてはまったく触れられていません)。
 今の日本ならどうでしょうか。このケースと同じく犯罪後7年たってからの判決ならば、執行猶予(すぐに刑務所には入れず、一定の期間犯罪を犯さなければ刑が取り消され刑務所に入らなくて済む制度)が可能ですし、おそらく執行猶予になるでしょう。起訴される前に弁護士が付いていれば検察官と交渉して起訴猶予(起訴しないこと)にできるかも知れません。しかし、もしジャン=バルジャンが犯罪を犯してすぐに捕まっていれば、刑務所を出てすぐのことですので法律上執行猶予は不可能です。裁判所は同じ種類の罪を再度犯した時は前の事件の判決より重くすることが多いので、弁護活動がよほどうまくいかないと5年を超える懲役になる可能性もあります。

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2016年11月02日

「出訴期限」(S.トゥロー)を題材に法解釈を考える

はじめに

 一般の人々の多くは、法律が定めていることは明確なはずで、誰が判断しても同じ結論になるはずだし、そうでなければおかしいという考えを持っているように思います。
 しかし、法律の規定を、現実の事件に当てはめる場合、必ずしもそうではないことがあります。そういったとき、法律実務家は何を考え、どのように対処するか、スコット・トゥローのリーガルサスペンス「出訴期限」(日本語版は2013年7月30日発行、原書は2006年)を題材に説明してみたいと思います。

 

事件の内容

 1999年7月、当時15歳だったミンディ・デボイアーは、地元の高校の男子アイスホッケー・チームが開いたホーム・パーティに出かけ、ウォーノヴィッツからもらったラム酒とマリファナで意識を失った。これを見たウォーノヴィッツはチームメイト3人を呼び入れ、意識を失っているミンディを全員で犯し、その場面をすべてビデオ撮影した(11~12ページ)。ビデオには手足をだらりと投げ出しまったく身動きしないミンディが腰から下は剥き出しにされ片方の脚を肘掛けに乗せられた状態で、性器を見せ合って馬鹿騒ぎをする4人の男たちに暴力的に突き込むだけの性行為を受ける様子が映っていた(57ページ)。ビデオにはウォーノヴィッツがミンディの身体に婦人科的な視診を行った部分もあった(19ページ)。ビデオは、ウォーノヴィッツが仲間たちに向かって、ミンディを部屋から出せと指示し、「絶対にしゃべるなよ」と警告するところで終わっていた(12ページ)。
 翌朝午前5時頃に意識を取り戻したミンディは、前夜自分の身に何が起こったのかよくわからなかった。セックスは未経験だがまったく知識がないわけではなく、何か乱暴なことをされたのはわかった。また、スカートが後ろ前になっていることにも気づいた。だが、昨夜遅くなってからのことは何一つ記憶がなかった。一番の親友と話すうち、ひょっとしたらレイプされたのではないか、という気がしてきた。だが、ミンディはまだ15歳で、大人をこの話に巻き込むのは気が進まなかったし、昨夜の外出先を白状するのもいやだった。彼女は自分なりにその傷を癒し、誰にも話さずに通した。(12~13ページ)
 時がたつにつれてウォーノヴィッツは大胆になり、カレッジのクラブの仲間にそのビデオを見せるようになった。そのビデオを見た新入生の中にデボイアー家とつきあいがある学生がおり、警察に話した。警察がビデオを押収し、ミンディがビデオを確認した後直ちに手続が採られ、2003年1月14日、ウォーノヴィッツら4人が起訴された。(13ページ)

 

法律の規定

 さて、この州では、犯行後3年を過ぎてからの重罪の公訴提起は禁じられています(13ページ)。
 ただし、被告人が隠蔽行為を行った場合には、その行為が犯罪の発覚を妨げた期間、出訴の期限は猶予されるとされています(111ページ)。
 また、被害者が未成年の場合、18歳の誕生日から1年後までは犯罪を届けることが認められると定められています(58ページ)。

 

問題の所在

 この事件の内容を読むと、おそらく大方の人は、ウォーノヴィッツら4人は当然起訴されるべきであり、有罪判決が言い渡されるべきと考えると思います。
 犯行の一部始終はビデオに記録されており、ウォーノヴィッツら4人が犯罪を犯していないという余地はありません(このビデオが被害者ミンディの撮影許可を受けていないことを理由に違法な撮影物であるから証拠とできないというコール裁判官の主張(52~54ページ等)は、ここまで来ると一般の方々は付いていけないでしょうから、ここでは議論の対象にしません)。
 内容の悪質さと証拠の明確性からして、これが起訴されないとしたら正義に反すると、多くの人が考えると思います。
 しかし、この法律の規定を単純に適用するとすれば、犯行から起訴まで3年6か月が経過していますから、出訴期限を守っていない起訴は違法となります。ウォーノヴィッツら4人が、積極的に「隠蔽行為」を行ったと言えるかどうかには、疑問がありそうです。そして、2003年1月14日には、ミンディは19歳3か月でした(58ページ)。

 

裁判官たちの苦悩

 コール裁判官は、「そもそも出訴の期限というのは、時の経過とともに記憶が薄れ、証拠が散逸していくことに対する懸念から発生したものなのだ。今回は、犯罪を記録したビデオがあるのだから、その点を心配する必要はない」と主張しました(17ページ)。このように、法律の規定の目的と言いますか、そのような規定が定められた理由(法律家の業界では「立法趣旨(りっぽうしゅし)」などと言われます)から説き起こして、その趣旨に沿わない時は例外として適用されないという主張は、よく行われますし、それが説得力を持つ場面もあります。しかし、立法の動機や経緯がその通りであったとしても、規定の文言をまったく無視するわけにもいきません。このような主張は、規定の文言上微妙なケースや、特定の類型では全事件でその規定の適用を排除した方が正義にかなうという価値判断がなされるような場合でないと、裁判実務では通りにくいところです。この事件でのコール裁判官の主張を認めれば、出訴期限を超えた起訴が適法か違法かは事件の中身に立ち入って判断することになり、検察はイチかバチか起訴してみるということが可能になり、法律の適用はかなり不安定になってしまいます。日本の公訴時効の規定についても同じ議論がありうるわけですが、このような主張が裁判で認められることはまずないと言ってよいでしょう。
 1審の裁判官は、「ミンディの年齢と経験を考慮すると、被告人たちがうまく隠したから、被害を届けられなかった」と判断しました(58ページ)。メイソン裁判官のミンディはレイプされたのかも知れないと気づいてはいたが、それを口外していないということならば、どうして被告人たちが犯行を隠していたことになるのかという疑問(58ページ)について、ミンディが幼かったという事情があるので、それに乗じたということで、犯行を隠したものと評価したわけです。これは、この法律の例外規定の、「隠蔽」と「未成年」という要素を考慮して、未成年要素があることで、「隠蔽」の解釈を拡げようとしたものと考えられます。
 しかし、これについては、弁護人から、未成年を理由とする出訴期限の延長は19歳の誕生日までと法律で明確に定められていると反論され、コール裁判官もその主張は認めざるを得ないと述べます(58ページ)。ここでは、例外規定自体が明確に定められており、未成年を理由とする出訴期限延長は法律が考慮した上でそれを19歳の誕生日までと規定しているのであるから、未成年を理由とするそれ以上の出訴期限延長は法律の規定にも法の趣旨にも反するというわけです。これは、法律の規定の解釈としては、説得力のある主張と言えます。
 また、1審の裁判官の法解釈に対しては、メイソン裁判官からもしビデオが犯行から4年後ではなく40年後に公開されたらどうするという問題提起がなされます(114ページ)。犯行直後に「レイプされたかも知れない」と気づいても、当時幼すぎたゆえに警察に被害届を出すほど事情を理解できなかったとして、ビデオを見て初めて犯行を知った、ビデオを隠蔽することが犯行を隠蔽することだと解釈してしまえば、ビデオが被害者の目に触れるまで出訴期間はいくらでも延長されることになります。これは、その法解釈がどこまで波及するかを考えたときに、明らかに不当な結論を導きうる場合には、やはり実務上はその法解釈は採用しにくいという考慮です。

 

裁判官たちの選択

 これらの議論を経て、控訴審でのメイソン裁判長は、被害者の年齢と経験を考慮すると、被告人らの隠蔽策によって被害者は警察に確かな届出をするに必要な根拠を奪われたという1審の裁判官の判断を支持し、その理由として、被害者の年齢・経験を考慮に入れることなくしては被告人たちの隠蔽策が犯罪の発覚を妨げたか否かの判断を行うことはできない、被告人たちは被害者の年齢とその幼さが犯行の隠蔽に極めて有利に作用するであろうことを十分に理解していた、被害者はビデオを見た時にトラウマを負い現実的には犯行はその時に完結したというべきである、隠蔽による出訴期限の延長の規定が定められた動機には発覚した時に初めてその悪が感じ取れる犯罪にも法の効力を及ぼそうという考えが含まれていたと考える、犯行から3年10か月後の訴追は公正さを甚だしく欠くものではなく連邦裁判所の出訴期限が5年であるなど他の法域では容認される範囲内であるということを挙げました(257~259ページ)。
 1審の裁判官の法解釈の問題点を、隠蔽策が犯罪の発覚を妨げたか否かという評価のためには被害者の年齢・経験も考慮せざるを得ないという実務的な事情でカバーした上で、被告人も被害者の幼さを知っていたのだからそう解しても不当ではない、意識を失っている間のレイプの被害が実感されるのはレイプの事実を目の当たりにした時でありそれを知らせないことも隠蔽策であり犯罪の発覚を妨げていると評価する余地がある、3年を超えた期間も少しであり、他の州などでは本件程度の期間は出訴期限内の場合もあるということから実質的に見て不当ではないと、補強し、無限に拡張するものではないことも示しています。

 

まとめ

 このように、法律実務家は、法律の規定の文言を単純に適用すると不当な結論に至ると考えるときには、具体的な事件での妥当な結論を導きつつ、法律の規定の解釈としてその解釈が他のケースで不当な結論を導かないように一定の範囲に限定し、法解釈としてそれらしい根拠があり、実質的にも妥当であり不当ではないという理由付けができる法解釈を導き出すべく、悩むことになるのです。

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2016年11月01日

「テロ」( F.v.シーラッハ)を題材に刑事裁判を考える

問題提起

 「テロ」(TERROR : Ferdinand von Schirach 2015年:東京創元社 2016年)は、ベルリン発ミュンヘン行きの164人の乗客を乗せた航空機がハイジャックされテロリストは7万人の観客が観戦中のサッカースタジアムに墜落させると機長に通告し空軍機が飛行進路妨害をしても警告射撃をしても反応しなかったため空軍機パイロットの少佐が「いま、撃墜しなければ数万人が死ぬ」と叫び航空機を撃墜したという事件について、被告人は有罪か無罪かを問うています。事実関係はまったく争いがなく、作品(戯曲)中の審理では、航空安全指揮・命令センターの将校、被害者(乗客)の遺族、被告人への尋問がなされただけで検察官の論告と弁護人の最終弁論のみで判決に至っています。論点は実質的にはただ一つ、7万人の命を救うために164人を殺害することは許されるか(違法か適法か)です。
 この問題提起は、検察官が論告でカントを引用しているように、極めて観念的です。弁護士である作者がこのような観念的な問題提起に終始することに、私は若干の違和感を持ちますが、それはあとで問題にすることにして、法律問題についての世間でのイメージはそういうものと考えて進めましょう。

 

「7万人の命を救うために164人を殺害していいか」の命題をどう考えるか

 7万人の命を救うためには164人を殺害するしかないということを大前提として捉える限り、撃墜行為を違法だということには抵抗があります。と言って、撃墜により164人が死んでいるのにそれを適法だということにも抵抗があるというのが、ふつうの人の感覚であり、価値観でしょう。その相反する心情を2者択一で答えろという問題提起に困ってしまうわけです。この作品でも、有罪と無罪の2つの判決が並べられています。
 法律家としての私は、こういう観念的な議論を、少佐の行為は刑事法上は違法とは言えない(人を殺害したのだから「違法」ではあるが、より多くの人の命を救うためにやむを得ない行為なので例外的に違法性がないと評価される:法律家業界の言葉では、「緊急避難」として「違法性が阻却される」)、民事法上は違法性が残る、というように思考上処理することになります。業界外の人は、法的な評価は「違法か適法かの2つに1つ」と考えるのがふつうですが、刑事罰は最終的な手段なので刑事罰を科す行為は違法性がかなり高い行為である必要があり、法律の世界での「違法性」には段階があると考えるのです。刑事法上「違法でない」ということが、胸を張って適法だとか、英雄的行為だと言えるということを意味するわけではないのです。民事上は違法性は残るので遺族は損害賠償請求は可能ということになりますが、少佐が賠償責任を負うというのは酷に思え、日本の現行法でも公務員の職務上の行為については公務員個人に損害賠償請求はできず、国が代わりに支払うという制度になっていて、この場合そうした処理が適切と考えられます。日本の法律では、刑法第37条が「緊急避難」という違法阻却事由を定めていて、民法上は(緊急避難という名称の規定はありますが刑法とは違う規定で)責任がない他人への加害を正当化する規定はないので、現行法に沿って考えると私が述べた考えがすんなりと結論付けられますが、ドイツの刑法では、無関係な人を救うための緊急避難の規定はないそうです(日本の刑法はドイツ法を受け継いだもののはずなので、ちょっとびっくりしましたが)から、解釈上の技巧を要することになります。でも、何らかの技巧的な解釈をしても、そう考えるのが、法律家レベルでは適切じゃないかと私は思います。

 

裁判で法律実務家は何を考えるか

 私の眼には、「7万人の命を救うためには164人が搭乗する航空機を撃墜するしかない」という設定自体が、実務家の感覚として疑問に思えます。第1に、7万人の観客がいるスタジアムに航空機が墜落して7万人が死ぬでしょうか。直感ですが、死者は数百人レベル、かなり多く見積もっても数千人までだろうと思います。高層ビルが倒壊した9.11テロと違い、スタジアム全体が崩壊することは考えられませんし、燃料の爆発・炎上を考えても国内便でもありそれほど大量の燃料を搭載しているとは思えません。第2に「コックピットに私服の男が見える」「男は機長と副操縦士のあいだに立っている」(32ページ)という状況からすると、テロリストは1人で、機長と操縦士を殺さずにいて、自分で操縦しているわけでもないようです。それなら、テロリストが目的どおりにスタジアムに航空機を墜落させられるか自体がかなり危ういのではないでしょうか。9.11テロでは、テロリストがパイロットを殺害して自ら操縦したからWTCのビルに激突できたのです。テロリストのいうことを聞いても聞かなくても確実に死ぬのならパイロットはテロリストに全面協力してスタジアムに墜落させるでしょうか。こうなると、7万人の観客か164人の乗客かの2者択一という問題設定自体が疑わしくなり、この裁判の争点は、「7万人の命を救うために164人を殺害(航空機を撃墜)してよいか」という観念的な問題ではなく、スタジアムの観客の命を救うために「やむを得ない行為」だったのかという事実認定と法的評価の方にあるのではないかと思えてきます。

 もちろん、本館で映画「ハドソン川の奇跡」の感想として書いたように、後知恵の机上の空論で、こういうことができたはずだというのは許されるべきでないと思いますし、事実認定であれ法的評価であれ、どちらがよいかと迷うような微妙なケースは、そもそも刑事裁判としては処罰すべきでないと思いますが。

 

 現実の裁判では、マスメディアの好きな単純化された2者択一ではなく、より具体的な事実に基づいたさまざまな問題点が出てきます。そういう問題点をていねいに拾い上げ検討してその事案に妥当な結論を導いていくことが、法律実務家には大切なことなのです。

 

 このサイトのブログの2016年11月2日の記事で、シーラッハの試みとある意味で似ているかと思いますが、「ああ無情 : Les Misérables 」のジャン=バルジャンのケースを用いて、刑事弁護が必要なわけを説明しています。

 よろしければそちらもご覧ください。→ジャン=バルジャンのケースを題材に刑事弁護を考える

 

 

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  • 「テロ」(F.v.シーラッハ)を題材に刑事裁判を考える:庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

 

2016年10月31日

モバイル新館オープン

 私のサイトが、Googleの検索結果で「ページがモバイルフレンドリーではありません」と表示されるようになったのを知った2016年8月に衝撃を受け(例えば「民事裁判」のキーワードで当時は裁判所の公式サイトと1位を争っていたのですが、このキーワードで上位表示されるサイトでは100位まで見ても、こう書かれているのは私のサイトだけ!)、このモバイル新館の作成に入り、雌伏2か月…ようやく最初に予定したページの原稿が書きあがり、オープンに漕ぎ付けました。どの程度の頻度で更新できるかは、怪しいところですが、ぼちぼちやっていきます。

2016年10月26日