第7章 襲撃

1.昏倒

 私の目の前で、玉澤先生が、頭から血を流して仰向けに倒れている。
 この章を、このように書き始めなければならないことは、私にとっては、ママンが死んだよりも、目覚めたら自分が一匹の巨大な毒虫になっていたよりも、メメクラゲに左腕を噛まれたよりも、衝撃的で悲しい。しかし、起きてしまった事実を無視して物語を進めるわけにはいかない。
 私の119番通報を受けた救急隊が駆けつけてくるまで、あとどれくらいかかるのだろう。
(どうしよう。どうしたらいい?)
 心臓は動いている。しかし玉澤先生は息をしていない。
 こういうときは…まず気道を確保、だ。額を押し下げて顎を引き上げる。そして、人工呼吸だ。やっぱり、マウス・トゥ・マウスだよね、当然。覚悟を決めて、というか一瞬胸をときめかせてしまった自分に、そんな場合か、玉澤先生の命がかかってるんだぞと喝を入れて、玉澤先生の口に唇を当てようとした私の前で、玉澤先生の自発呼吸が再開した。頭部を強打したショックで舌が落ち込んで気道を塞いで呼吸が止まっていただけのようだ。私は、ホッとしつつ、呼吸停止が続いていたことや再開した呼吸が弱まっては困ると、自分で理屈を付けて、そのまま玉澤先生の口に唇を合わせ、人工呼吸を続けた。こうしている途中で玉澤先生の意識が回復して目と目が合うといいなと想像をめぐらせながら。
 しかし、心臓は無事に動き続け、呼吸も弱まることなく続いていたけれども、玉澤先生の意識は回復しなかった。
 救急隊が駆けつけ、私は顔を上げ、玉澤先生を救急隊に引き渡した。
「あなたが通報者の方ですか」
「狩野麻綾です」
 救急隊について救急車に同乗し、私は、救急隊の質問に応対した。
「頭部のけがの原因はわかりますか」
「わかりません。私が見つけたときには血を流して倒れていました」
「呼吸停止ということですが、どれくらいの時間呼吸停止していたかわかりますか」
「それは重要な情報ですか」
「もしわかれば非常に重要な情報です」
「はっきりとはわかりませんが、7~8分ほどだと思います」
「7~8分ですか…」
 救急隊員の顔が暗くなった。
「かなり、深刻な事態なんでしょうか」
「いえ…辛い話になるかもしれませんが、頭の傷の方が脳に大きな損傷を与えていない場合でも、7~8分の呼吸停止後の救命確率は、呼吸停止だけであれば一般的には75%くらいといわれています。しかし、心臓も停止していると5分で救命確率は50%、心肺停止で7~8分なら命を救える可能性はかなり小さくなってしまいます。心臓は停止しなかったとはっきり言えますか」
「心臓は、停止はしませんでした」
「本当にそうなら、頭の傷の程度次第ですが、命は救える可能性の方が高いとは言えますが…いや、あなたを責めてるんじゃないですよ。7~8分後でも呼吸が再開されて救える可能性が高くなったのですから」
 25%。命さえ救えない可能性がそんなにあることを聞き、話の途中で顔面が崩壊するかと思うほど涙があふれて止まらなくなった私を、救急隊員は気遣って話の向きを変えた。私自身、玉澤先生の呼吸再開までに7~8分をかけてしまったことに激しい後悔を感じ、内心で自分を責めていた。一方で、しかたないだろ、これ以上は無理だったよという自分の声があったが、他方でもう少しやれたんじゃないかという自分の声もまた、脳裏に響いていた。

2.連絡

 関係者に連絡しようとして、私は、玉澤先生の家族の電話番号も、それを知っていると見られる六条さんの電話番号さえ知らないことに気づいて愕然とした。玉澤先生の胸ポケットの携帯を救急隊員にお願いして取り出してもらい、私は、さてパスワードはと、思案しながら画面を見て驚いた。玉澤先生はスマホを嫌って今だにガラケーを使っているが、なんと画面のロックさえしていない。オフタイムに呼び出されることを極端に嫌っている玉澤先生は、携帯の番号もメアドもほとんど人に教えずにいる。電話帳を確認しても、業務上の関係者、それも私や六条さんなどの私が知っているごく一部の業務上の関係者を除いて、女性の名前は2人しか登録されていなかった。1人は私も名前を聞いている娘だから、もう1人が妻なのだろう。
 いや、名前だけだと妻じゃないかも知れないし、と自分に言い訳して、私は、娘さんに電話して状況を説明し、救急隊員から今向かっている病院名を聞いて、娘さんに伝えた。続いて、私は、少し迷ってから、六条さんに電話した。電話への六条さんの最初の反応から、オフタイムに玉澤先生から電話をすることはほとんどない様子が確認できて、私はちょっとホッとした。いや、そんなこといっている場合じゃないんだけど、何かそういう別のことをしたり考えたりしていないと気が狂いそうだった。

3.宙

 病院に着き、救急隊が玉澤先生をICUに搬送すると、病院にとって用済みとなった私は、廊下の長椅子に座り、しばらく震えながら泣いていたが、いつのまにかそのまま眠り込んでいた。衝撃ですっかり忘れていたが、私は、相当程度お酒を飲んでいた。ふと思えば、人工呼吸って、酒気を帯びた呼気を吹き込んでよかったんだろうか。いや、そんなことにかまっていられる状態ではなかったとは思うが。
「あの…狩野さんですか」
 目覚めた私に横から声がかけられた。いつのまにか長椅子の隣に私と同年配、たぶん私より少し若い女性が座っていた。
「玉澤宙です。父を助けていただいてありがとうございました」
「あっ、すみません。私寝ちゃってましたね。玉澤先生は、今…」
 私は、慌てて立ち上がり、お辞儀をしようとしてふらついた。
「父は、まだICUです」
 娘さんが口を引き結び、目を潤ませた。
「すみません。もっと早ければ…私、お酒なんて飲んでて…今日飲みに行かなければもっと早く…」
 涙がこみ上げて、私は言葉に詰まった。
「何を言うんですか。仕事が終わって飲みに行ってどこが悪いんですか。狩野さんが見つけてくれてなかったら父は死んでいたんでしょう。狩野さんは父の命の恩人です。今のところ…」
 キリッとして気丈に涙をこらえていた娘さんだが、『今のところ』のその先に思いが及んだのだろう、そのあとは言葉が出なかった。
 私は、しゃくり上げた娘さんをそっとハグして背中をさすった。娘さんは、「狩野さん、ありがとう」といって私を抱きしめた。私もそれで少し気持ちが鎮まった。私と同じくらい、あるいは私より、動揺しているだろうに、優しい娘さんだ。

第8章 翌日 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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