第8章 真昼のデート

1.真昼のデート

「あ、このランチプレートの盛り、きれい。ちょっと、撮っていいですか」
 私は、返事も待たずに、インスタ用に料理だけを撮るようなふりをして、2人分のランチプレートと玉澤先生を入れて撮影する。さすがにネット上にアップするのははばかられるが、あとで美咲に送りつけよう。
「このサーモンのグリル、おいしい。先生も少しどうですか」
 私は、自分のプレートから切り分けながら先生の方を見る。玉澤先生が、少し目を見開いて私の方を見ている。
「いや、ちょっと感心してね。私の感覚では、おいしいものはそのまま自分で食べてしまいたいと思うのにって」
「そうですか。おいしいものは分かちあって食べた方がハッピーじゃないですか」
「そういうところ、狩野さんの美点だね」
(おぉ~、美咲に送る写真に「褒められたぜぃ」って書き込んでやろう)
「あっ、私このフォーク、少し口付けちゃいましたね。先に切り分けておけばよかったですね」
「いや、そんなことは気にしないよ。私たちの世代では、学生の頃なんかそんなこと誰も気にしなかった。返し箸なんてされると箸の手元側が汚れてかえって気になるよ」
 切り分けたサーモンを先生のプレートにのせる。
「私も、直箸で気になりません」(玉澤先生となら)
「うん、いけるね。これは」
「でしょう。先生のプレートのキッシュもおいしそうですね」
「あぁ、気が利かなくてすまん」
 玉澤先生が慌てて、キッシュを切り分ける姿に、私はつかの間の幸福感に浸る。玉澤先生がのせてくれたキッシュの一切れを、私はときめきながら頬張った。
 間接キスとかに興奮しているのではない。2人で料理をシェアし合う恋人みたいな雰囲気を楽しんでいるのだ。


 休日にこういうふうにデートできたら、というのは高望みだろう。今は平日の昼、午前中の弁論準備期日のあと、午後もまた別事件の弁論準備期日があるという日の、事件に挟まれた昼休みだ。
 玉澤先生は、ふだんは昼ご飯を食べない。弁護士になって以来の習慣だそうだ。昼休みをとるくらいなら昼も仕事を続けて少しでも速く仕事を終わらせて早く帰った方がいいというポリシーだ。しかし、玉澤先生は、私にはそれを求めない。だから、私と一緒に出先で昼休み時間になると、私のランチに付き合ってくれる。あまりないそういうチャンスに備えて、私は、裁判所に近いこじゃれたレストランを調べて行きたいお店をリストアップしている。業務の過程でとはいえ、私が選んだプランに急かさずに付き合ってくれているのだから、これはやっぱり、デートと位置づけていいのではないか。

「先生は、たまにお昼を食べるときのチョイスを見るとサラダ系が多いように思えますが、食べ物は何が好きなんですか」
「お酒をやめてから、野菜や果物がおいしく思えるようになってね」
「野菜は何が好きですか」
 相手のことでなくても、「好き」という言葉を発したり聞いたりしているとその場にいる相手に好意を持つという、聞きかじった知識を信じて、私は「何が好き」を連発する。
「生で食べるのだとキャベツとトマトが好きだよ。キャベツの千切りときゅうりの細切りとトマトのざく切り、それに少し果物を加えてシンプルなフレンチドレッシングで揉み込んだサラダなんか、どれだけでもいけそう。煮こんだ根菜類もいいね。みじん切りしたタマネギを炒めて、キャベツの芯とかブロッコリーの茎とかにんじん、ジャガイモなんかを煮こんだ野菜たくさんのシチューも好物だよ。シチューは少しは肉の味もほしいけど」
「洋食が好きなんですね」
「出汁をきかせた薄味の和の煮物も好きだよ」
 玉澤先生の口から出た「好きだよ」という言葉は、予想以上に耳触りが良く、私は、自分が好きと言われているような気持ちになり、胸を熱くし、目を潤ませた。いつか、キッチンに2人並んで、楽しげな言葉を交わしながら、一緒にサラダやシチューを作ってみたい。私は幻想に胸を膨らませた。

2.弁論準備の戦慄

「被告代理人、この準備書面ですが、これまでの主張では暴力行為に対する社長の口頭注意は誰も知らないということだったはずですが」
 午後に行われた剛田さんの事件の弁論準備期日で、会社側から期日直前に提出された準備書面を手に、裁判官は眉をひそめた。
 剛田さんの懲戒解雇事件で、私たちは、問題とされた暴力行為が2年も前のできごとであるということと、その件については、当時社長が剛田さんに口頭で厳重注意としてそれで処分は終わっていたことを主張した。会社側は、当時の社長と剛田さんは個人的に親密な関係でなぁなぁで済ましたかも知れないが、そういうことがあったとしてもそれは社内で了承されていなかったと主張していた。玉澤先生が、前回の弁論準備手続で、当時の社長は会議でそのことを確認していないのか、会議は録音しているらしいから、会議に諮っていないというなら当時の会議の録音を全部出せと要求した。それに対する答として、会社側は、録音は残っていない、ただ幹部の中にはいつの時期か、それを聞いたという者もいると言ってきたのだ。
 剛田さんの事件の弁論準備期日には、会社側の弁護士の他に、毎回会社の総務部長が出席していた。
 裁判官の発言に続いて、玉澤先生が、総務部長に、「社長が剛田さんに口頭注意処分をしたと報告したのはいつの会議ですか」と聞いた。不意を突かれた総務部長は、「暴力行為があった次の経営会議だったと記憶しています」と答えた。玉澤先生がさらに「経営会議で報告されたという以上、そこで了承されたんですね」と突っ込む。総務部長は、「えぇ、まぁ」と口ごもった。
「そうすると、これまでの被告の主張は誤りだったということですね」
 裁判官の冷たい声に、会社側の弁護士は青ざめ、答を口にできなかった。裁判官は一応礼を失しないように「誤り」という言葉を使ったが、内心「この嘘つきが」と言っていることはその声から明らかだった。

 実は、剛田さんは1年半前、別の理由をつけて解雇されたが、玉澤先生が裁判を起こし、あっという間に解雇無効の判決が出た。その判決の直後、会社は解雇の1年以上前の暴力行為を理由に剛田さんを懲戒解雇した。その経緯から、剛田さんの懲戒解雇は裁判で負けたことへの意趣返しと見られ、玉澤先生は楽勝だろうと読んでいた。経緯が経緯だし、暴力行為といっても殴っても蹴ってもいないし、古いできごとの上、当時社長が口頭注意で済ませている。口頭注意であっても一応処分がなされた以上、そのことを蒸し返して別の懲戒処分をすることは違法と考えられている。
 ところが、裁判が始まってみると、録音が出て来て、そこでの剛田さんの怒号はかなり心証が悪い。会社側は当時の社長の口頭注意があったかどうかもわからない、仮にそうしたとしても会社は了承しておらず社長の個人的な注意だと主張してきた。「口頭注意」なだけに剛田さん側にはその証拠もない。当時の社長は退職していたが、グループ会社で再雇用されている。相手の手中にあるわけで、剛田さんに有利なことなど証言してくれるはずもない。意外な展開で旗色が悪くなってきたところでの、玉澤先生の要求と、それに応じた会社側の自滅だった。
「裁判は生き物って実感したろ」
「はい。勉強になりました」
 引き続き和解の話になって、会社側が意向を聞かれている間、労働部の前の廊下で待つことになり、私たちは廊下で話し合った。

「裁判官にそっぽ向かれた当事者は哀れだね。明日は我が身かも知れないけど」
 剛田さんが、2回も解雇され、さすがに会社に愛想を尽かせて復職の意欲が薄れてきていたことから、解決金をもらっての合意退職の和解の方向になり、解決金の条件が焦点になった。剛田さんの希望はかなりの高水準だったので、ふつうなら裁判官は主として労働者側を説得することに労力をかける場面だが、和解の時間のほとんどを私たちは廊下で過ごした。それは裁判官が会社側の説得に労力を注ぎ込んでいることを意味している。その情勢を玉澤先生が皮肉ったのだ。
「裁判官には、嘘つきを許せない人が多いんだ。私も、嘘つきは嫌いだけどね」
 結局、剛田さんの事件は、和解にその内容を第三者に話さないという守秘義務条項があるためここで金額は言えないが、玉澤先生史上最高額の解決金で和解が成立した。

 

3.裁判所からの電話

「いつもお世話になっています。本日はどの事件の関係でしょうか」「あぁ、先日提訴した新件の期日ですね。今、弁護士と替わります」
 電話応対していた六条さんが、電話を保留にして、声を上げた。
「たまピ~、労働部の書記官の方から、砂降さんの期日を決めたいって」
「はい、お電話替わりました。玉澤です。砂降さんの事件の期日ですね。お待ちしていました」
 玉澤先生が手帳を片手に電話に出る。
「担当係は、どちらに」「か係ですか。わかりました」「ちょっとお待ちください。手帳を確認します。いただいた期日の中では、最速の8月21日午前10時でお受けします」「えぇと、法廷は」「はい、わかりました。期日請書ですね」
 砂降さんの事件は、先週訴えを提起した。民事裁判では、訴えを提起するということで「提訴」と呼ぶことが多い。東京地裁の場合、労働事件のうち賃金仮払い仮処分などの仮処分と労働審判は、13階の労働部に専用の受付があり、最初から労働部に申し立てることになっているが、仮処分でも労働審判でもない本裁判とか本訴と呼ばれる通常の訴訟の訴状は、東京地裁14階の民事受付に提出する。そこで事件番号と担当部が決まり、労働事件つまり解雇事件や賃金請求などの事件と判断されれば、労働部に回される。労働部では、新たに提訴された事件が回ってくると、担当係、つまり担当する裁判官と書記官を決める。担当となった書記官は訴状をチェックし、補正を求める必要がある場合には、補正依頼書をFAX等で原告側に送り、特に補正の必要がなければ、第1回口頭弁論期日の調整をする。書記官からの電話は、早ければ提訴の翌日に来ることもあるが、書記官側の事情により、1週間以上してから来ることもある。
 訴状には、訴訟の対象となることがらの金額に応じて印紙を貼る必要がある。解雇事件の場合、提訴までに発生している賃金と提訴後1年間の賃金額を基準として、100万円までは1%、100万円を越えて500万円までは0.5%といった具合で、数万円程度の印紙を貼る場合が多い。法テラスを利用する場合、この印紙額の支払いを裁判が終わるまで猶予する「訴訟救助」という制度を利用することになる。この際、訴状とともに、訴訟救助の申立書、資産と収入がないという報告書と預金通帳の写しを提出して、訴訟救助の申立をする。訴訟救助の申立がある場合、訴状は、訴訟救助の決定をしてから、訴訟救助の決定とともに被告に送られるので、担当裁判官が報告書で納得しないと、追加の資料を提出するなどして資産と収入がないことを証明するまで、第1回口頭弁論期日も決めてもらえずに宙ぶらりんになってしまう。
 無事に第1回口頭弁論期日が決まると、原告側は、その期日に出席、裁判所用語では「出頭」するという「期日請書」を裁判所にFAXする。そして、被告側には、訴状や訴状とともに提出された証拠書類などの副本と、期日呼出状、答弁書催告状が郵送される。副本というのは、当事者が裁判所に書類を提出する際に2通同じものを提出し、裁判所用を「正本」、相手方当事者用を「副本」と呼んでいるもので、要するに裁判所に提出されたものと同じものだ。東京地裁労働部では、被告に訴状副本を郵送する際、最近は、解雇事件の場合は、解雇理由は早期に一括して主張するようになどの記載がされた「事務連絡」も同封している。
「たまピ~、期日請書、これでいいか確認、お願い」
 六条さんは、玉澤先生と裁判所書記官のやりとりを聞きながら、もう期日請書を準備している。今日の六条さんは、雲のような柔らかな髪に、ゆらゆらと揺れる髪飾りをしている。
「OK。これでFAXして」
「了解」
 六条さんは、期日請書を手に、髪飾りを優雅に揺らしながら、もうFAXに向かっている。その自信に満ちたと私には見える後ろ姿を、私は半ば羨ましく、半ば頼もしく思う。

4.大事な準備書面

「生木さんの事件の準備書面、こんな感じでどうだろう」
 今日は、剛田さんの事件が終わって事務所に戻った後、いくつかの電話に出た以外は、黙ってパソコンに向かっていた玉澤先生が、プリントアウトを私に手渡した。生木さんの事件では、玉澤先生が6月の第1回口頭弁論期日前日に出した求釈明の狙い通り、解雇理由は玉澤先生の示した枠組み通り、日時や機会が曖昧な生木さんの問題行動の時期は答弁書の記載以上には特定できない、改善指導書発出後の問題行動は答弁書記載の程度以上には特に主張しないという回答が会社から来ていた。それを前提に私が生木さんに事務所に来てもらって、会社側の主張する事実、24ページにも及ぶ答弁書でのだらだらとまとまりのない解雇理由の羅列について、どこまでが現実にあったことか、現実にあったものは何故そうしたかを聞き取り、準備書面案をまとめて、私が作成した生木さんの聞き取りメモと併せて、1週間ほど前に玉澤先生に提出してあった。準備書面の裁判所と被告への提出期限は約1週間後だ。
「玉澤先生、生木さんに直接聞き取りし直しましたか」
「いや、狩野さんが作ってくれたメモだけだよ。もちろん、書証とは突き合わせたけど。いやぁ、この手の使用者側の愚にもつかない主張の認否って、いつも面倒くさいなぁと思ってたんだ。狩野さんがやってくれて、実に楽ができたよ」
 確かに会社側の主張する事実に対する認否、つまりここまでの事実は認める、これは否認するというところの大筋は私の原稿が採用されている。しかし、それでも認否がより細かく厳密に修正されていたり、書証との微妙なずれが調整されているし、生木さんの主張を裏付ける資料として私が見落とした電子メールがいくつか補充されている。そして最初に数ページの積極主張がまとめられて追加され、全体の印象というか、説得力がまるで違う書面になっている。
 生木さんの事件では、5月に提出した訴状は、玉澤先生と六条さんの関係を邪推したことによる私の憔悴を起案を原形をとどめることなく修正したことのショックと玉澤先生が誤解したこともあってか、玉澤先生の修正がいつもと比べてかなり少なかった。今回の準備書面では、修正の程度が上がっている。でも、経緯はともかく、できあがりは、すごく説得力がある。玉澤先生が、先日言ってくれたように、私の原稿がいい線行っているから玉澤先生がそれよりもっといい準備書面にできるってことなら、いいんだけど。今は、玉澤先生がそう言ってくれるのを真に受けておこう。でも・・・
「先生って、学生時代、授業に出ずに、授業に毎回出席してきちんとノートとった人にノート借りて、試験でその人よりずっといい点取って恨まれたことあるでしょ」
「え・・・そんなこと、あったかな」
 玉澤先生の目が泳いでいるのを見ると、図星だけどそう答えたら私が傷つくと見てすっとぼけたのがありありだ。
「私は恨みませんから安心してください。今の私には、こんな説得力がある書面書けません。私も寄与してこんな書面ができたことを、今は誇りに思っておきます。自力でこういう書面が書けるようになるまでは」
「ありがとう。狩野さんのおかげだよ。狩野さんがいなかったら、同じ書面を書くのに、私は何倍もの労力をかけないといけなかったと思う。この書面は、生木さんの事件で、たぶん、決定的に重要な書面になるよ」
「先生にとっては、解雇事件では最終準備書面より、会社側からの解雇理由についての具体的な主張に対する反論の準備書面が大事なんですね」
「そう、この段階で、裁判官の心証を決定的にして、会社側の弁護士に諦めさせるというのが、解雇事件で一番大事なことだと私はいつも思っている」
「この書面で、裁判官は決定的な心証を持ってくれますか」
「それは、次の弁論準備期日で確かめよう」
「そうですね」
 私は、久しぶりに少し誇らしく感じ、生木さんの事件の弁論準備期日が楽しみに思えた。

第9章 天使?悪魔?に続く



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