第5章 忍ぶれど・・・

1.合い言葉は「いばらいし」事件?

「1000万円なんてとても払えません。これ払わないといけないんですか」
 社長付の運転手だった花籠さんは、半年前に社長車の運転中に眠くなって自損事故を起こした。誰もけがはしなかったが、社長の外車が修理しても事故車扱いになり評価額が大幅に下がったといって、花籠さんの退職後に会社の弁護士から内容証明郵便で請求書が来たという。
「保険でカバーできないんですか」
 単純な疑問が口をついて出た。
「修理代は出るけど、格落ちの評価損は簡単には出ない。保険会社に支払を拒否されて、花籠さんにつけを回してきたんだろうね」
 玉澤先生は、私の疑問に応えて、花籠さんに説明を続けた。
「保険会社が払わないように、裁判所も車の査定を基準に評価損を認めることはまずない。新車でも修理代の何割かを評価損扱いで上積みする程度、というのが実務だから、損害額自体、請求よりはかなり低いだろうね。でもそれとは別に、会社から労働者への請求にはハードルがあってね」
 会社から労働者に対する損害賠償請求では、有名な茨石事件の最高裁判決があって、運転手の交通事故での会社から労働者への損害賠償請求について、労働者が支払うべき額を損害額の4分の1に減額している。こういう相談では、私たち弁護士はまず、これを説明したくなる。
「ネットで調べたら損害の4分の1とかいうことが言われていますけど、4分の1は払わなくちゃいけないんですか。損害額が低くなるというのは少し安心しましたが、今ひとつすっきりしません」
 花籠さんに先に言われて、私は困惑した。最近は、教科書に書いてあるようなことは、ネットで知っているという相談者が多くなって、やりにくい。
「ケースごとにいろいろなことを考慮するので、4分の1と決まってるわけじゃないですよ」
 玉澤先生は、花籠さんに説明して、事故の中身に話を向けた。
「眠くなったのというのは、眠ってしまったんですか」
「いや、ほんの一瞬です。フラッとして、あっまずいと思ったら電柱が目の前で、かわしきれませんでした」
「眠くなったのは、何か理由があるのですか」
「休日も休ませてもらえずに、16日連続勤務させられて疲労がたまっていたんです」
「そりゃあ、つらいね。就業規則を見せてもらえますか」
 玉澤先生は、花籠さんが持ってきた会社の就業規則をめくっている。労働時間や休日を確認しているのかな。その規定はたいてい就業規則の前の方だけど。
「あった、あった。これを見てください」
 玉澤先生は就業規則の終わりの方のページを開いて、花籠さんに見せた。
「会社は、従業員が故意または重大な過失により会社に損害を与えたときは、従業員にその損害の賠償を請求することがあるって、書いてあるでしょ。これ、過失が重大でない場合は損害賠償を請求しないってことですよ。花籠さんの場合、一瞬眠くなったというだけで重大な過失とはいえないし、ましてや眠くなった原因は業務が過重だったこともあるわけですから損害賠償請求できないですよ」
 お金がないので自分で拒否回答をするが、さらに請求してきたらまた相談に来ていいかといって、花籠さんは相談料を払って帰って行った。

「茨石事件最高裁判決以前のところで救えるんですね」
「1987年に大隈鐵工所事件の名古屋地裁判決が出て、軽過失の場合は使用者は労働者に損害賠償請求できないという判断が、けっこう大きく報道されてね。それを見て就業規則で軽過失の場合、つまり重大でない過失の場合は損害賠償請求しないと規定している会社がわりとあるんだよ。そういうときは他のことを考えなくても闘えるから、そこはまず確認すべきだよ」
「労働法の教科書では学べない実務の知恵ですね」
「かもね。ところで狩野さん、その最高裁判決の事件名は『いばらいし』じゃなくて、『いばせき』だよ。茨城石炭商事という会社の略なんだ。知らない人が多いけど」
 私が頬を赤らめたとき、六条さんの呼ぶ声がした。
「たまピ~、生木さんの件でFAX。答弁書が24枚」

2.答弁書は24枚

 勤務態度不良等の理由で解雇された生木さんの件は、先月、解雇の効力発生日の翌日に提訴し、第1回口頭弁論期日は明日の午前10時と指定されていた。
「こんな直前になって、ひどい」
「まぁ、答弁書で第1回期日に内容のある反論をしようっていうだけでもましなんじゃないかな。たいていの会社は、第1回はすべて追って主張するとかの1回引き延ばしをするからね」
 気色ばむ私に、玉澤先生は鷹揚に言って六条さんからFAXを受け取り、さっそく読み始めた。

 10分くらいで目を通した玉澤先生は「ひどいなぁ」とつぶやいて、私に答弁書を手渡して目をつぶった。
「狩野さんは、この解雇理由の書きぶり、どう思う」
 私が答弁書に目を通したのを見計らって、玉澤先生は声をかける。
「う~ん。解雇理由がたくさん羅列はされていますが、どの事実がどの解雇理由になるのかがはっきりしませんね。いつのどういう事実か漠然としたものが多いように思えます。解雇理由との関係が明快に書かれていないのは、弁護士が労働事件をよく知らないからなんでしょうか」
「解雇についての理論がよくわからずにただたくさん書けば勝てると思ってるのかもしれないし、たいした解雇理由がないとわかっていて解雇理由になろうがなるまいがたくさん悪口を書いて裁判官に労働者が悪いやつだという印象を与えようとしているのかもしれない」
「そうですね。たくさん書かれると、こんなにあるのかという気持ちになりますね」
「昔から長い書面を書く弁護士はいたけど、少数派だった。近年は、労働事件の会社側の弁護士はたいていがこういうやり方だ。嫌になるね」
「でも先生、ただ長いというんじゃなくて、生木さん、分が悪そうですね。弁護士が従業員から事情聴取した結果、みんな生木さんの職場復帰を望まないと回答したなんて書かれていますよ」
「それな。中小企業で現役の従業員が社長の前で弁護士から聞かれたらそう言うに決まってるだろ。こういうことを書いてくる弁護士は、よほどものごとがわかっていないか、わかって書いてるなら恥を知らないんだと思うよ」
「裁判官は、そういうのどう思うんでしょう」
「さあな、それはこちらの対応次第じゃないかな。それで、狩野さんなら、この答弁書に対してどうする」
「って、明日の午前10時の事件ですよ。次回反論するとしか・・・」
 私の戸惑いをよそに、玉澤先生はパソコンに向かい、起案を始めた。

3.第1回口頭弁論期日

 翌朝午前10時。原告席に玉澤先生と私、被告席に会社側の弁護士が着席したところへ、裁判官が入廷した。ふつうの民事法廷では、午前10時に多数の事件が期日指定され、傍聴席で順番を待つ弁護士があふれていることが多い。しかし、東京地裁労働部では同じ時間に口頭弁論がいくつも指定されるということはあまりない。法廷で審理する口頭弁論が少ないからだ。双方に弁護士がついた事件では、第1回口頭弁論期日だけを法廷で行い、第2回からは法廷ではなく労働部の小部屋で弁論準備期日として行うのが通例になっている。
 裁判官が、「原告は訴状陳述、被告は答弁書陳述ですね」、と確認し、「原告から答弁書に対して求釈明が出ています。被告側でこれに回答していただけますね」と言った。会社側の弁護士は一瞬不満げな表情を見せたが、「はい」と回答する。裁判官は、被告側に、「どれくらいで回答できますか。釈明ですので、2週間くらいでいいですか」と述べ、会社側の弁護士は「わかりました」と応えた。その後、「原告側は被告の回答後、答弁書への反論はどれくらいで提出できますか。釈明を待たずに準備を始められるところもあるでしょうから、3週間みればいいですか」という裁判官に、玉澤先生は頷いた。それぞれの書面提出期限が定められ、第2回期日は6週間後に13階の労働部で弁論準備期日として行われることを決めて、第1回口頭弁論期日は終了した。
 6月になると、次の期日を入れる際、裁判所の夏季休廷、つまり裁判官の夏休みが関わってくる。東京地裁では、裁判官は、7月下旬から、8月初めから、8月中旬からの3グループに分かれて、それぞれ3週間の夏休みを取る。担当裁判官の夏休み期間は、基本的に期日が入らない。次回期日が夏季休廷前に入れられないと、期日間隔が2か月以上も開いてしまいかねない。ここで、玉澤先生が、反論準備にもう1週間くださいと言えば、期日が夏季休廷明けになり、労働者側としては裁判の進行が遅くなって困るし、裁判官の不興を買いかねない。玉澤先生は、原告側の準備は求釈明回答後3週間でいいですねという裁判官の発言の趣旨を読んで、ノータイムでまったく異存がないという顔で頷いたというわけ。この小うるさい解雇理由満載の答弁書への反論準備にはもう少し欲しいのが、私の本音なのだけど。
 このようにして、裁判官にはそれぞれ3週間の夏休みが確保されるが、裁判官が交代で休むため、裁判所全体としては休まずずっと開いているということになる。弁護士が持つ事件の担当裁判官はバラバラなので、期日を入れるとき裁判官の希望を最優先すれば、弁護士は夏休みをとれなくなる。大半の裁判官は、それを意識して、夏の時期に、弁護士が「その日はちょっと」というと深く追及せずにさらに後の候補期日を出してくれる。もっとも、弁護士に対してだけ夏休みに厳しい裁判官もいて、裁判所が示した候補日に難色を示すと、露骨に嫌な顔をして「なんとか入りませんか」と食い下がることもある。そこは意地の張り合いになる。そうやって弁護士も自分で決めた一定期間の夏休みを確保するというのが実情だ。

4.求釈明のターゲット

 裁判所の東側、裏側というべきかもしれないが、弁護士会館に通じる側の扉を出ると、雨が降っていた。玉澤先生は、空をチラリと見上げてそのまま雨の中に出ようとするが、私は素早く大きめのショルダーバッグから大きめの折りたたみ傘を取り出して拡げ、玉澤先生に差し掛ける。
「濡れますよ」
「あぁ、ありがと」
 玉澤先生は、こういうとき、これくらいの雨じゃ傘なんていらないとかいう無粋なことは言わず、どうしてこんな婦人物にはあり得ない大きな傘持ち歩いてるんだとか余計な詮索はしないで、素直に傘に入ってくれる。首尾よく相合い傘にできた私は、ちょっとときめきながら弁護士会館までの短い道を、玉澤先生と並んで歩く。裁判所から弁護士会館までの道は、本当に短くて、このときばかりは道が「モモ」の「さかさま小路」みたいにふつうに進んではたどり着けなくなればいいのにと思ってしまう。進めなくて困っている玉澤先生に、ゆっくり進むといいんだとか、後ろ向きに歩けば進むよと、得意げに手本を示して見せる私。玉澤先生の少年の心がよみがえり、私と手をつないでダンスを始め・・・

 ほどなく夢想から覚めた私は、弁護士会館の建物の軒下に入ったところで傘をたたみ、入り口で傘を傘袋に入れる。そして私は、玉澤先生とともにエレベーターに乗って、会員控え室で並んで座り、紙コップでお茶を飲み始めた。
「先生、今回の求釈明なんですけど。先生の目的は何だったんですか」
「狩野さんはどう思う」
「求釈明の1点目は解雇理由の整理。主張されている生木さんの問題行動がどういう解雇理由になるのかはっきりしないのでそれを先生が整理してこれでいいかと確認しています。ここをはっきりさせないで議論すると議論がぐちゃぐちゃになりやすいから枠組みを決めたいということかと思います。2点目は時期と具体的内容がはっきりしない問題行動、生木さんが上司の業務指示に従わないのが常態となっていたという主張と生木さんが度々陰で上司を誹謗中傷し職場秩序を乱していたという主張について、時期と具体的内容を特定できるものがあれば特定して主張するように求めています。これは反論の対象を特定するためでしょうし、特定できないと回答されれば、会社側の主張の信憑性が低くなります。3点目は改善指導後の生木さんの問題行動が具体的にあるか、あれば時期と内容を特定して主張するように求めています。これは改善指導したあとにそれでも改善が見られないということでないと解雇は有効となりにくいために、その確認で、具体的な主張が出なければそれだけでも解雇は無効と主張しやすくなります」
「きちんと整理できたね。上出来だよ」
「でも、解雇理由は本来会社側が整理すべきもので、こちらできれいに整理してやる必要はないんじゃないですか」
「原則論でいえばそうだと思う。でも、会社側にやれと言って、まともに整理されなければ、議論がスッキリしないでぐちゃぐちゃになって裁判が長引くだけだからね」
「2点目と3点目は、会社側が具体的な事実を主張していないんだから、求釈明なんてしないで、そのまま、会社側は具体的な事実を主張できない、そういう事実はないんだと反論してもよかったんじゃないですか。次回にゆっくり反論すればいいのに、今回無理しても求釈明を送りつけた本当の目的は何ですか」
「さすが、わが事務所のホープだね」
「もし、よろしければ、事務所のホープではなくて、先生の愛弟子と呼んでください」
「考えておこう。確かに、求釈明なしで次回に直接反論してもいいんだけど、1つにはこの求釈明をしておいた方が議論の構造がはっきりする。そしてこの議論の構造は労働部の裁判官の通常の思考にもフィットする。それを直ちに見せることで、裁判官がこちらの議論の枠組み、さらには次の反論のおおよそのロジックを予想することができて、会社側の主張による生木さんの悪印象を相当程度薄めることができる。放っておけば、私が嫌った点だけど他の従業員が生木さんの復職を望んでいないとかも含めて裁判官が会社側寄りの心証を持って終わったかもしれない期日を、リカバーしてこちらに寄った心証で終わらせることができるかもしれない。これが2つめ」
「それで期日前に送りつけたかったんですね」
「そう。それから・・・」
「まだあるんですか」
「狩野さん、裁判で出す書面の最大のターゲットは誰だと思う?」
「裁判官でしょ。先生のように勝負を重視する弁護士にとっては。勝負より営業を優先する弁護士の場合、依頼者でしょうけど」
「裁判官を説得するのが書面の重要な目的なんだけど、事件を有利に運ぶ上で、私は実は、最大のターゲットは会社側の弁護士だと考えている」
「えっ」
「会社側の弁護士に、この事件は絶対勝てないと思い知らせて、早く諦めさせるのが、事件解決の上で一番有効なのさ。事件をきちんと見通せる有能な弁護士なら自分で判断してくれるけど、凡庸な弁護士は裁判官がはっきり心証を示さないと諦めないから、結局は裁判官を説得するのが早道なんだけどね」
「それとこの求釈明がどう・・・」
「この求釈明は、裁判官も聞きたいことだから、裁判官が会社側に回答するように迫った。会社側の弁護士からすれば、答弁書でたくさん生木さんの問題点を書いて、訴状のこちらの主張を減殺して、裁判官が会社側の主張を理解したという様子を確認しに来たのに、裁判官はそんな素振りも見せずに原告側の主張に理解を示している。私が会社側だったらがっかりするな」
「それが狙いですか」
「そのあたりまですっと読めるようになったら、愛弟子と呼んでやろう」
「確かに、会社側の弁護士、不満げな顔してましたけど。先生って、サディストかも」
「会社側の弁護士は、どうしてあの長い答弁書を前日に出してきたと思う?原告側が、訴状でアドバンテージがあると思っていたところを、直前の反論しようにもできない時期にたくさんの事実を書き込んだ答弁書を出して逆転して、裁判官が会社側有利の心証で期日を終わらせることを狙っていたとは思わないか?その会社側の思惑を潰す手段は、この場合、これしかなかったんじゃないか」
 思ったよりも厳しい世界に身を置いたのかもしれない。私は、気を引き締めた。

5.酒乱のキューピッド

「先生、こっちですよ」
 飲み屋街の込み入った道をスマホのナビを見ながら、私は、玉澤先生を案内していた。今日は、弁護士会の労働法制委員会の飲み会だ。玉澤先生は、お酒をやめて久しいが、ときどき呼ばれて宴会に出る。まだ梅雨明けには遠いはずだが、空は晴れ、残念ながら私のショルダーバッグの中の折りたたみ傘の出番はなさそうだ。
 店に入ると、玉澤先生は、先客の何人かから挨拶され、そのあたりの空いた席に座り込む。私は、ちゃっかりその左横の席を確保する。男を落とすには左側から話しかけるのが有効とかいう記事を読んだためでは、断じてない・・・たぶん。左側から見る玉澤先生の横顔が好きだから。法廷では、玉澤先生の右側に座ることが多いけど。
 周りの先生方から話しかけられて、名刺交換をして、玉澤先生の事務所の勤務弁護士の狩野麻綾ですと自己紹介をする。こういうとき、ペーペーの新人の私が「玉澤がお世話になっています」なんて言っていいものか、悩ましく思う。玉澤先生は、外部の人に対して呼び捨てにしても気分を害したりはしないけど、相手はどう思うんだろう。
(玉澤が、なんて言ったら、妻みたいなんて思われないかしら・・・)
 勝手に妄想してニヤける私を、こっちの世界に呼び戻す声がした。
「麻綾、ちょっとそこに入れてよ」
 遅れてやってきた美咲が、私と玉澤先生の間に割り込んだ。
「玉澤先生、麻綾と同期の阿室美咲と申します。狭いところに割り込んじゃって申し訳ありません」
「狩野さんと同期なの。美咲さんは美しく咲くの美咲さんですか」
「そうです。両親が流行りものに弱くて」
「いや、時代を読むセンスがあるんでしょう」
 私たちが生まれた年の前後数年間、美咲という名前は女の子の赤ちゃんに付けられた名前のトップを走っていた。だから私たちには、美咲は、ありふれた名前だった。子ども時代は名前にあまり感慨はなかったという美咲だが、大学に入り上の世代と交流するようになった頃から、この名前に異常な反応をする男が増えて嫌気がさしたそうだ。「アムロ」「ミサキ」ですかぁと、途端に私たちになじみのないロボットアニメのうんちくを語り出す中年のオタクたちを、美咲は毛嫌いしている。私の名前は、かなりマイナーだけど、外国ふうの名前を付けるのが流行っていたらしく、両親が当て字で付けた。私たちが子どもの頃はそのテレビアニメの放映はなく、どちらかというと親世代に「みつばちマーヤの冒険」のマーヤちゃん?と聞かれることが多かった。童話を読んだ友達からも言われることがあったが、本で読む子どもは少なかったし、正統派の童話のためか、それでいじめられた記憶はない。両親が、同じ外国ふうの名前でも「スターシャ」とかを選ばなかったことに感謝している。
「確か娘さん、私たちの世代でしたよね。先生でも名前の流行を調べたんですか」
 名前談義をする2人に、後れをとるまいと私も割り込む。
「やっぱり、名前を付けるときはね。私は感覚が少数派なもんで、そういう名前は付けなかったけど」
「先生の娘さんにはどういう名前を付けたんです」
「宇宙の宙でそらと読ませています」
「そこにはどういう思いが詰まってるんです?」
「いや、大きな人物になって欲しいなと」
(玉澤先生、娘さんの話になると、とろけちゃいそうな顔してるね)
 美咲が私にそっと耳打ちする。
 美咲が頼んだ冷酒が来て、私たちの周囲で何度目かの乾杯がなされたあと、美咲が玉澤先生に迫る。
「玉澤先生、先日の判例勉強会で、アスリーエイチ事件の東京地裁判決をやりましたね。上級管理職として採用されたケースですが、能力適性不足を理由とする解雇のハードルがかなり下げられていると、使用者側の弁護士は歓迎したい判決と評価していました。そこに玉澤先生が、判決が解雇を有効とした理由のうち入社して3か月間新規開拓がないという1点目は、それが中心的業務なら試用期間3か月終了時点で解雇するはずなのに、その時点で解雇されていない、2点目の重要な取引先との関係がその労働者の業務態度が理由で悪化したことについては、判決文の隅々まで見てもどうして関係が悪化したかが主張も認定もされていない、労働者は『悪化していない』とだけ主張して、それが取引額の激減で否定されただけだ、悪化の理由を裁判の過程で引き出す努力をすべきだったのにしていない、3点目の経理方法の変更でのトラブルは、むしろ会社側が労働者の横領を主張したのにそれが否定されているのだから、ふつうならそういう言いがかりを付けるような会社だということで労働者勝訴の流れになるはず、労働者に弁護士がつかない本人訴訟だから負けただけじゃないかって言って、使用者側の弁護士たちがしゅんとしてしまった。使用者側に有利な判決として経団連のグループ企業が発行している判例雑誌『労経速』に掲載されているのに、先生が言うのを聞いているとなるほどと思ってしまう。ちょっと痺れたんですけど、玉澤先生は、どうやって、そういう労働者側に有利な主張を自在に編み出せるんでしょう」
「あのときは、その場で読んでいて、横領の主張が否定されているから労働者勝訴の流れだろうに、というところから引っかかって、自分だったら何を主張するかなと考えていったんですよ。もちろん、判決文に書かれていない事件の事情はわかりませんから、頭の体操レベルのことですけどね」
(ちょっと、美咲、あんた、玉澤先生にくっつきすぎてない?)
 美咲は、私の心の声を聞いたように、私の方を見てニヤリとした。
「ところで玉澤先生、全然話変わりますけど、先生は平兼盛と壬生忠見の歌、どっちが好きですか」
「天徳の歌合の話ですか?」
「そうです。忍ぶ恋です」
 美咲はまたしても私の方を見た。
「そうですね。考えてみると、どちらも忍ぶ恋がバレてしまって戸惑っている歌なんですが、壬生忠見の『恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか』は、恋心が噂になってしまって、その状態というか、周りの人のことを戸惑っていますね。平兼盛の『忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思うと人の問ふまで』は、隠そうとしているのに隠しきれない自分に戸惑っているわけです。私は、隠しきれない自分に戸惑い、その隠しきれないほどの自分の恋心の強さを改めて感慨深く思う兼盛の歌の方がいいと思いますね」
「座布団3枚。平安時代の手練れが甲乙付けがたいと言ってる歌を理由付きで優劣付けられるってすごくないですか」
「素人の意見ですよ。裁判所では、独自の見解って切り捨てられちゃうような」
「先生、クイズ番組とか、強いでしょ。私、クイズ番組好きなんです。今度一緒に見ませんか」
「美咲!飲み過ぎじゃないの。あっ、先生、こいつ、あ、いや、この子、酒乱なんで、あんまり気にしないでください」
「麻綾、まだそんなに飲んでないよう。でも古い歌はいいですねぇ。全文そのまま引用してもJASRACからいちゃもんがつかない。自由な引用・利用があってこそ、文化が承継されるのじゃ」
「ほらほら美咲、ラノベでJASRACに楯突こうなんざ、酩酊の証拠。もう帰ろう」
「麻綾、忍ぶ・・・あわわ」
 私は、酔って危ないことを言い出しそうな美咲の口を塞ぎ、店から連れ出した。

「麻綾、聞いたかい。隠しきれないほどの強い恋心への戸惑いがいいってよ」
「美咲は月に1回の判例勉強会でしか玉澤先生に会わないし、離れて座ってれば言葉も交わさなくてすむけど、私は毎日玉澤先生と顔を合わせてるんだよ」
「それって、のろけ?」
「美咲にはかなわないなぁ」
「今晩、麻綾のところに泊まっていい?」
「最初からその気でしょ」
 ♪♪♪・・・私の着メロは、歌を連想させるだけで利用料の請求対象だとJASRACが主張してるそうだから、紹介しないでおこう。
「狩野さん、阿室さんは大丈夫?」
「玉澤先生、大丈夫です。ご心配をおかけしました。せっかくの委員会の飲み会を中座してすみませんでした」
「こっちも今ほど散会しました。気をつけて帰ってください。では、よい週末を」
「ありがとうございます。先生もよい週末を」
「うん。ありがとう。でもこの週末は剛田さんの事件で前回被告から出てきた反論に対する再反論の準備書面を起案しないとね」
「そうでしたね。私も手伝いましょうか。いや、手伝わせてください」
「気持ちだけもらっておくよ。ご存じのとおり、わが事務所では三六協定を結んでなくてね。残業、休日出勤はさせられないんだ。週末はしっかりリフレッシュしてくれ。また月曜日に逢おう」
 電話が切れると、美咲がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「麻綾、ほっこりした顔しやがって。麻綾の奢りでもう1軒行こうか」
「美咲、よろけてるよ。飲みたいならうちに帰ってからにしよう」
「おお~ん」
 美咲は満月に向かって吠えた。

第6章 映画のシーンのような2人に続く



 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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