第1章 依頼人

1.あどけない話

「智恵子は東京に空がないという」
 東京地裁での弁論準備期日を終えて事務所に帰る道すがら、新緑の清々しさは感じさせながらも五月晴れとはいかない空を見上げて、玉澤先生がつぶやいた。
「私、智恵子さんが見つけられなかった、空、見つけちゃいました」
 私は、私たちの左手に浮き上がる「空」の字を指さした。
 ここは大久保の裏通り。目を天空から地上に転じれば、ラブホが散在している。
「ご休憩、していきます?」
 私は、コホンと空咳をして、玉澤先生の左腕に絡めた右腕を少し引いた。
「あいや、そういうつもりでは・・・」
 玉澤先生が顔を赤らめる。
「戯れですよ。2時に相談の予約も入ってますし」
(もっとも先生がその気になってくれるのなら、私はチャンスをみすみす逃す気はないですけど)
 逆だったら、完全にセクハラだなぁと思いながら、私は収拾を図る。
「あどけない空の話ですよ。ほら」
 私は目を細めて空を指さす。ちょうど雲間からのぞいた陽の光が私たちを照らしていた。

2.解雇予告

「お帰りなさい。2時の予約の梅野(うめの)さんがいらっしゃってます」
 腕を組んで帰ってきた私たちを出迎える六条さんの態度は素っ気ない。玉澤先生が襲撃事件後左足に少し麻痺が残り、一人で歩くと、時々ではあるがよろけるので、外出時はいつも私が付き添って肩を貸したり腕を組んで歩いている。玉澤先生は恥ずかしがって、一人で歩こうとしていたが、私が玉澤先生が一人で歩いて転んだときのことを大仰に言い立てて叱りつけ、さらには先生が意識不明の間どれほど憔悴したかに言及して涙ぐんでみせ、抑え込んだ。六条さんは、そのことに嫉妬しつつ、玉澤先生の安全のためなので、文句は言えないでいる。基本的に事務所にいることが仕事の六条さんには、玉澤先生と2人で外出する機会はない。

「さて、5月17日に解雇予告を受けたということでしたね。解雇予告通知書を見せてください」
 梅野さんの待つ相談スペースに入った玉澤先生は、挨拶も早々に、本題に入った。
 梅野さんは、中堅商社「忍瓜(じんか)商会」に勤めて15年になる会社員で、アジア各地からの繊維製品を中心とする買付を担当している。先週金曜日に、今解雇予告をされたと玉澤先生に電話をしてきた。玉澤先生は、解雇予告通知書に解雇理由が書かれていることを確認して、今日の午後2時に相談の予約を入れた。
 解雇予告というのは、労働基準法第20条で、使用者が労働者を解雇するときには30日前に予告すべきことが定められているので、それに従った使用者が労働者に対して30日かそれ以上先の日をもって解雇するということを予め通告することをいう。予告期間をおかずに、平均賃金の30日分の解雇予告手当を支払って即日解雇することも可能であり、そうする使用者も少なくはないが、素直に30日前に解雇予告する使用者の方が、現実には多数だ。使用者の中には、30日前に予告しさえすれば解雇は有効だと誤解している者も見られるが、解雇予告は解雇の手続を守ったということに過ぎない。30日前に予告し、あるいは解雇予告手当を支払っても、解雇理由が客観的に合理的とは言えなかったり、解雇が社会通念上相当でなければ、やはり解雇は無効になる。
 梅野さんの解雇予告通知書には、6月17日をもって解雇すると書かれている。この場合、解雇日は6月17日、解雇予告(解雇通告)日が5月17日ということになる。
 梅野さんの解雇予告通知書には、解雇理由として、部下に対するセクハラ、上司に対する暴言、社長に対する直訴状が業務秩序を乱したことが記載されていた。
 梅野さんから渡された解雇予告通知書に目を通した玉澤先生が、梅野さんに尋ねる。
「第1点の部下に対するセクハラですが、解雇予告通知書の記載では、あなたのアシスタントだった葭子(よしず)さんに対して帰り道を待ち伏せしてつきまとい、葭子さんは希望して異動になった、次にアシスタントになった淡杜(あわもり)さんに対して拒否されているのに繰り返し食事に誘ったと書かれています。実際はどうなんですか」
「葭子さんは、退社後にたまたま見かけたので声をかけて、食事に誘ったことがあるだけです。待ち伏せなんてしてませんよ。私のアシスタントだし、たまたま出会ったのに無視するわけにはいかないから食事に誘ったんです。下心なんてありません。最初のときは、彼女も楽しげに話していましたよ。そのときは急ぎの用事があるということでした。2回目のときに食事はちょっとと難色を示されたので、3回目のときにコンサートに行かないかと誘ったんです。そのときにそういうことはもうやめてくれと言われたので、その後は職場外で見かけても声をかけないようにしています」
「会社は品川で、梅野さんのご自宅は赤羽ですよね。どうして葭子さんの自宅付近の蒲田でたまたま見かけたんです?」
 梅野さんの説明が途切れるのを待って、玉澤先生が疑問を投げかけた。
 玉澤先生のいぶかしげな視線に、梅野さんは若干たじろぐ。
「玉澤先生、私を疑ってるんですか。心外だなぁ。私は台湾に赴任していた時期があってそれ以来タピオカの大ファンなんです。先生はご存じないかも知れませんが、蒲田は本格的なタピオカドリンクの店が多くて、会社の帰りによく蒲田まで飲みに行くんですよ」


「そうですか、問題になっている3回の日のタピオカドリンク専門店の領収証なんて、お持ちですか」
 少し予想外の話に目を見開いた玉澤先生は、しかし梅野さんの話の裏付けがあるかに関心を寄せた。
「いやぁ、そんなの保管してませんよ。残念ながら」
 梅野さんの答えに、玉澤先生は、顔を上げて梅野さんと目を合わせ、一拍置いて、次の質問に移った。
「次のアシスタント、現在もアシスタントということでしょうか、淡杜さんの方はどうですか」
「淡杜さんは現在もアシスタントです。社内で勤務が終わって帰り支度しているときに食事に誘ったことが3回あって、確かに毎回やんわりと断られましたよ。そんなに嫌がっているとは思えないのですが、上司の武納(たけな)が、淡杜さんは嫌がっていたと言い張るんですよ」
「淡杜さんは梅野さんに食事に誘われたときにどう答えたのですか」
「ええと、お母さんの食事を作らなくちゃいけないからということでしたね」
「嫌がっている様子ではなかったのですか」
「いや、そんなことはなくて、申し訳ないという風情でした」
「あ、すみません。私からもちょっと聞いていいですか」
 聞いていて、気になった私は、梅野さんに質問を挟んだ。
「淡杜さんは、社内の友人との付き合いはどうなんですか。いつも定時退社なんでしょうか」
「いや、同期の女性と連れだって飲みに行った話を聞いたことはあります」
「そうですか。ごめんなさい。玉澤先生、続きをどうぞ」
 やっぱりちょっと危なっかしいな、この人。私は少しため息をついて、傍らで聞く姿勢に戻った。

「第2点の上司に対する暴言ですが、解雇予告通知書には、上司の武納さんが、今話題の淡杜さんの件で注意した際に、梅野さんが『彼女は嫌がってなんかいないでしょ。おまえが勝手にやっかんでるんだろ』と暴言を吐いたとありますが、ここはどうですか」
「私はそんなこといっていませんよ。いくら何でも上司に対して『おまえ』なんて言いません。証拠に録音ファイルがあります」
「録音ですか。何分間の録音ですか」
「録音ファイル自体は1時間ほどあります」
「そうですか。ではそれは次回までに書き起こしてきてください」
「わかりました」
 玉澤先生は、左手の人差し指を左眉の辺りに当てて少し黙り、話を続けた。
「ところで、この武納さんとのお話は、別室で面談されたんでしょうか」
「いえ、業務時間中に、私の席に武納が来て注意されました」
「梅野さんは、業務時間中にいつも録音してるのですか」
「いや、いつもというわけではありませんが、このときはたまたま・・・」
「そうですか・・・」
 玉澤先生が少し思案する。隠し録りを気にしているのだろうか。裁判所は録音者との会話は隠し録りしてもそれほど文句は言わないはずだが。

「第3点の社長への直訴状ですが、この武納さんから注意された翌日に、社長に対して、武納から言いがかりをつけられた、武納は自分の業績を横取りして自分の手柄のように申告して今の地位を築いた、武納をやめさせて欲しい、逆に自分が解雇されるのなら裁判も記者会見も辞さず徹底的に争うという手紙を書いて出したと書かれていますが、この点はいかがでしょうか」
「それは、そのとおりです。武納に言いがかりをつけられてちょっと感情的になってしまいましたが、言いがかりだということも、武納が私の業績を横取りして自分の手柄のように言って来たことも、実際そうなんですから」
「でも、ちょっと書きすぎだとは思いませんか。梅野さんはいつもこういう物言いをされているのですか」
「ええと、まぁ確かに売り言葉に買い言葉というところはあって、いつもよりも感情的になってしまいましたが、そんなに問題ですか」
「そうですね。できることなら裁判官に見せたくない書きぶりの手紙ですね。相当印象は悪いと思いますよ」
「えっ、じゃぁ、争っても負けですか?」
「当然負けるというわけではないと思います。事実自体の認定がどうなるかということもありますし、担当する裁判官の感覚もあるでしょうね」

 解雇理由についての事実関係の確認と手持ち証拠の確認をした上で、今後の方針について協議し、梅野さんは、訴訟提起した上で復職を希望すると言って、翌週水曜日の午後2時に次の相談を予約して帰った。

3.罪なき者のみ…

「梅野さんの話、どう思います?」
 梅野さんの姿が見えなくなるのを確認して、私は玉澤先生に聞いた。
「セクハラの話かい?」
「ええ」
「使用者側が主張するとおりの事実関係だとしても、それで解雇までできる事案じゃないだろう。狩野さんは淡杜さんの本音を気にしていたようだけれども、解雇理由として考える分には、表向きであれ、淡杜さんが梅野さんにどう言っていたか、それを受けて梅野さんがどうすべきだったかということを評価すれば十分じゃないか」
「梅野さんは本当に淡杜さんの実際の気持ちに気づかなかったのでしょうか」
「事実はおいおいわかってくるだろう。確実でない材料で弁護士が依頼者を先に裁くことは適切じゃないと思うよ。それにこの事件は、梅野さんと淡杜さんの間の事件じゃなくて、梅野さんと忍瓜商会の間の事件なんだ。そこがそれほど重要なポイントとも言えない」
「先生は、気にならないですか」
「依頼者が解雇を争いたいというときに、それが解雇に値しないような解雇であればそれを無効にする。それが私の仕事だと弁えている。世の中に100%正しい人間なんていない。もし100%正しい人間でなければ裁判で救済されるべきではないのなら、裁判なんて現実の社会じゃ意味がなくなるさ」
 確かに「本当の善人」の依頼しか受けないとしたら、弁護士業務は成り立たない。それ以前に理想を言い立てれば「本当の善人」などいないかも知れない。私は黙って、玉澤先生を見つめる。先生の目元に哀しさと諦念が、口元に苦渋の色が、ほんの少し浮かんでいるように見える。あぁ、この人も葛藤しているのだ。私は、この人の信念を尊敬し、苦悩を愛している。美咲に言ったら、なんだかんだ言っても、結局は一から十までのろけじゃないかと呆れられそうだけれど。

「難しそうな話してると思って遠慮してたのに、狩野さん、何をニヤけてるの?何かエッチな想像してるんじゃない」
 六条さんの声に、私はハッとした。
 確かに玉澤先生を見つめて「好きっ」って思ってたから表情が緩んでいたとは思うけれど、いくら何でも「エッチな想像」って…
「そ、そ、それは冤罪です!」
「慌ててるところを見ると、図星みたいね。さぁ、お茶にしましょう。たまピ~にはキウイのタルト。好きだよね」
「あぁ、ありがとう」
 玉澤先生は頬を染めてようやく応えた。
「狩野さんには甘夏のタルト、おいしそうでしょう」
「はい。ありがとうございます」
 私の抗議にまるで動じない六条さんのペースで、その場の関心はおやつに集中した。
「キウイは、今は一年中売ってる感じですけど、甘夏ももうあるんですね」
「甘夏は、今頃がいちばん盛りなのよ。知らなかった?」
「えっ、夏みかんっていうくらいだから夏だと思ってました」
「実は、甘夏の収穫は冬の時期で、しばらく熟成させて酸味を減らして出荷するから、今が食べ頃なの」
「六条さんって、物知りなんですね」
「たまピ~が果物とかお菓子とか好きだから、おいしいときに食べさせてあげたいじゃない?」
 六条さんがにっこりとして玉澤先生に流し目を送る。玉澤先生もまんざらじゃないというか、うれしそう。
 結局、また六条さんの注文どおりに点数稼がせちゃったなぁ。
 でも、六条さんのおかげで、私も、おいしい時期の甘夏を味わえるのだから、よしとしよう。

4.行列の店

「意外に男子高校生、多いね」
「麻綾、年下の男の子もストライクゾーンに入るようになったかい」
「年齢はもう関係ないね。私の関心を惹く男は1人だけだから」
「ごちそうさま。でも、ドリンク1つにこの行列は驚きだね」
 次の土曜日、私は美咲と2人、蒲田駅前の有名タピオカドリンク店に並び、ようやく店内入り口近くの小さなテーブル席を確保した。
「タピオカドリンクって、渋谷や原宿だと思ってたけど」
「私もそう思ってたけど、麻綾に言われて調べてみたら、愛好者の間では、蒲田が隠れた激戦区らしい」
「この女の子のキャラがいいのかな。みんな写真撮ってるけど」
「かわいくてインスタ映えしそうだよね。ドリンクの方も、もっちりした黒糖味のタピオカが人気みたいだよ」
「あっ」
「何?」
 慌てて身を低くした私に、美咲が声を潜めて尋ねる。
「美咲、今横切ったグリーンのポロシャツ着てサングラスかけた男の写真撮ってくれない?できたら横に並んだ女の顔も」
「えっ、また探偵ごっこみたいな」
 言葉と裏腹に、美咲はウキウキと腰を上げ、スマホで連写した。
「ありがとう。美咲のスマホ、撮影音を消してるんだね。盗撮狙ってた?」
「これが盗撮なら、麻綾は共謀共同正犯だからね」
「ごめん、ごめん」
「で、撮ったけど、誰なの」
「噂の梅野さん。本当に蒲田に通ってるんだ」
「タピオカドリンク持ってたし、タピオカドリンク目当ての蒲田通いは本当なんじゃないの」
「そうか、でも一緒に歩いていた女は誰だろう」
「サングラスもおそろいだったし、付き合い長そうな感じだね」
「女の方がベタベタしてたけど」
「ベタベタって、あれくらいでやり過ぎに見えるのなら、最近麻綾が玉澤先生に寄り添って歩いてるときなんて、あんなもんじゃないけどな」
「えっ、そ、そうかな…」
「何、麻綾、思い出し笑いして。冷やかし甲斐がないなぁ。ますますうれしそうにニヤけるだけじゃ」
 美咲との会話は、例によって、私と玉澤先生の方に流れていったけど、梅野さんが連れていた女は誰だったのだろう。あれが葭子さんか淡杜さんだったら、セクハラ疑惑自体を潰せるかも知れないが、まさかそこまでは。梅野さんには妻子もいたはずだが、妻だったらまだ小学生の子どもも一緒だと思うし…美咲のスマホに残った写真をいじりながら、私は結論の出ない問いを続けていた。

第2章 はじまりのとき に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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