第1章 憂鬱

1.楠里-1

「先生、昨日本社人事部の人がやって来て、懲戒解雇を言い渡されました」
 11月下旬のある日、まったりと話をしていた私は、依頼者から突然打ち明けられた。まぁ、ある程度予想された展開ではあったけれど。
「懲戒解雇、来ましたか」
「ええ、来ちゃいました。バカなことをしたなぁとは思うんですが、でもクビにされると生活していけないですよ。先生、労働事件詳しいんですよね。なんとかなりませんか」
 私に、初めて個人事件としての解雇事件の依頼が来た瞬間だった。

 私は、狩野麻綾。昨年12月に弁護士登録した新人弁護士で、26歳、独身。解雇事件で業界では知られたベテラン弁護士玉澤達也先生の勤務弁護士になってあと2週間あまりで満1年になる。その間、玉澤先生とともに解雇事件をいくつも経験してきたけど、自分に依頼が来るのは初めてだ。やはり独特の感慨がある。
 私は、依頼者の楠里さんの少し無精ひげの生えた顔を、アクリル板越しに眺める。そう、ここは新宿警察署の接見室。楠里さんは、週末の深夜、歌舞伎町の片隅で大麻を買って帰る途中、挙動が怪しいと警察官に声をかけられ、大麻所持の現行犯で逮捕された。逮捕された人は警察の留置場に入れられ、逮捕後3日目に裁判所に連れて行かれて、その後さらに10日間の勾留をつけるかどうかを裁判官が判断するために、裁判官の勾留質問を受ける。その時、裁判官は、呼べば1度は無料で面会に来てアドバイスをしてくれる『当番弁護士』の制度を説明する。そこで楠里さんが当番弁護士の派遣を依頼して、その日の当番だった私が新宿警察署に面会に来て、そのまま被疑者国選弁護人になり、こうして面会を続けているというわけ。
 刑事事件としては、大麻所持の現行犯なんて、はっきり言って弁護人ができることはあまりない。争う余地はほとんど、いや、まったくないし、楠里さん自身、大麻の所持も、大麻だとわかって買ったことも認めている。自白している事件でも、他の種類の事件なら、事情によっては検察官との交渉で不起訴にしてもらえることもあり、そういう事件はむしろ弁護士の腕の見せどころとも言えるが、薬物の事件は検察庁は全件起訴の方針で、どんなに頑張っても不起訴にできない。他方、初犯なら、自己使用レベルの量の所持は間違いなく執行猶予で、実刑はまず考えられない。頑張っても頑張らなくても、結果には違いは出ない。熱心な刑事弁護士は、刑事事件とは別に被疑者が薬物をやめられるようにDARCなどの社会復帰支援団体を紹介したりしているが…
 玉澤先生は、昔は刑事弁護、特に捜査段階の弁護を熱心にやっていたそうだが、今は刑事弁護は受けていない。やらなくなったのには何か玉澤先生らしい理由があるようだが、私は聞いていない。きっと、玉澤先生が、解雇事件で労働者側の専門弁護士として名を上げながら日本労働弁護団に入らないのと似たような事情があるのだろう。
 玉澤先生が捜査段階の弁護をやっていた頃は、20日間の勾留期間、というのは勾留はたいていの場合10日間延長されて20日になるわけだが、その間に概ね6回被疑者に面会していたそうだ。否認事件ならともかく、自白している事件でそんなに通って何を話すんだろうとも思ったが、玉澤先生を師と仰ぐ私は、まずは玉澤先生を見習うことにしている。頻繁に話すことは依頼者との信頼関係を強め、それが弁護士の仕事の基礎となる。それで、こうして別事件の依頼も来る。刑事事件の被疑者から依頼される事件が、弁護士にとってうれしい事件かは、疑問だけど。

 新宿署を出て、ビルに挟まれた細い裏通りを事務所に向かって歩く道すがら、見上げた細く切り取られた空は、思いのほか青い。吹き抜ける風に、思わず私は、コートの前身頃をかき合わせた。


「大麻所持で懲戒解雇か。やってみないとわからないな。担当する裁判官の価値観にもよるだろうね」
 事務所に帰って、私は、さっそく玉澤先生に教えを請うた。
「そうなんですか?私たちが担当した事件でも盗撮男は楽々解雇無効になったし、判例集に載っている事件では地下鉄で痴漢した東京メトロの職員も解雇無効になってますよね。大麻所持の方が罪が軽いと思いますが」
「まぁね。被害者の立場からすると盗撮や痴漢の方がけしからんだろうけど、そういうので解雇無効になっている事件はみんな罰金刑だ。薬物事犯は全件公判請求されて、初犯なら執行猶予になるとは言え、懲役刑になる。裁判官の心にはそっちの方が効くよ」
 私は、楠里さんの依頼を安請け合いしたことに不安を感じ始めた。
「実は、薬物事犯で逮捕されて懲戒解雇されたときの解雇の有効性を直接判断した判決は、公表されているケースが見当たらないんだ。判例集に出ている判決では、相撲協会が大麻所持で力士が逮捕されたのを契機に検査をして陽性と出て報道された力士が2人解雇された。刑事事件としては立件されなかったが、相撲協会が薬物使用を戒めていたことと報道で協会の名誉・信用を害したということで解雇は有効とされた。それと、覚醒剤所持で業務時間中に逮捕されて諭旨解雇、懲戒解雇よりは一段落ちる懲戒処分がなされて退職金が大幅に減額された案件で、労働者は解雇の有効性は争わずに退職金の差額請求だけをした。それに対して裁判所は、そのビルにグループ会社が多数入居していて逮捕が知れ渡ったことから退職金の大幅減額は有効と判断した。その前提として諭旨解雇も当然有効ということになる。見つかるのはそれくらいだね」
「先生、それ、要するにこれまでに公表されている判決では、薬物事犯で解雇されて解雇無効になった例はないっていうことですか」
 私は、楠里さんの依頼を安請け合いしたことを後悔し始めていた。
「解雇を有効とした公表されている2件の判決では、どちらも世間や関連会社に広く知られたために会社の信用を害されたということが理由になっている。狩野さんの依頼者のケースは、一般人で、全然報道されてないんだろ。そういうケースで裁判所がどう判断するかは、前例が見当たらないんだ。チャレンジするにはいい案件じゃないか」
「先生、弁護士経験1年の新人に前人未踏の新判例を作れとおっしゃるんですか」
「やりがいのある事件が来てよかったね」
 私は、楠里さんの依頼を安請け合いしたことをすっかり後悔していた。
「よろしかったら先生がやっていただけませんでしょうか」
「狩野さんが見込まれて依頼されたんだ。依頼者の期待に応えなくちゃ」
「玉澤先生っ」
「あ…なんだか嫌な予感がするなぁ。六条さんが改まって『玉澤くん』っていうとき、たいていは叱られるというか、説教されて、結局はいうとおりにするしかなくなるんだ。狩野さんもなんだか似てきたような気がする」
 先生、あなたの直感は正しい。私は、もうこの事件を玉澤先生に押しつけるつもりでいる。そして、確かに私は、玉澤先生の弱みやあしらい方を、玉澤先生と同級生だった事務員の六条さんから学んでいる。
「前例がないとすると、勝っても負けても判例集なりデータベースに載りますよね。私がやって勝てばいいですけど、負けたとき、判決文に出てくる弁護士の名前が私一人では、先生が手を抜いて勤務弁護士に任せて、労働者側にとって悪い前例を作ったと同業者の間で悪評が立たないか…私はかまいませんけど、それでは先生の名が廃ると…」
「わかったよ。やればいいんでしょ」
 ごめんね、玉澤先生、いつまでも先生に頼っていてはいけないとは思うんだけど、私はまだ一人でやりきる自信はない。先生が横で見てサポートしてくれるなら、何でもやってみたいと思うけれど。

2.上見-1

「よいしょっと。何か、私のこと噂してたかしら」
 おやつ休憩のためのお菓子を買いに行っていた六条さんが戻ってきた。
 私と玉澤先生は、慌てて首を横にブンブンと振った。
「そう。なんだか鼻がむずがゆいんだけど、気のせいかしら」
「六条さん、それは花粉症かも」
「私は花粉症になったことないし、今はもう冬よ。まぁ、いいわ。たまピ~、会良草先生からなんだか重い郵便物が来てたよ」
 六条さんが、郵便ノートに記録してから、玉澤先生に分厚いレターパックを渡す。差出人の会良草先生は、盗撮で解雇されて私たちが代理して解雇無効の1審判決を勝ち取った上見さんの事件で、会社側に控訴審から新しくついた弁護士だ。労働者側勝訴の1審判決を高裁で覆した事件について、弁護士会の労働法制委員会に来て、どや顔で解説していたのを思い出す。
 開封して中身を読む玉澤先生の顔がみるみる青ざめていく。いったいどんなことが書いてあるんだろう。
 10分ほどで目を通した玉澤先生が、大きくため息をつき、天を仰ぎ、私に分厚い書面と書証をどっさり手渡して、電話をかけ始めた。
「上見さん、今、会社側の控訴理由書が来たんだが、あなた、何年も前からタイで少女買春を繰り返してて、この裁判中も3回タイへ行ってるとか、盗撮だけじゃなくて、会社にばれてなかったけど痴漢でも捕まったことがあるとか書かれてるけど、そういうことしたの?」
 控訴理由書には、上見さんの少女買春や痴漢などの行状が詳細にこれでもかとばかり書き連ねられている。新たに会社側で上見さんの職場の同僚にアンケートも行ったらしく、許せないとか、職場復帰など認められないとか、上見が復帰するなら自分は退職するとかいう同僚からの非難の言葉が並べられている。使用者側の労働事件専門の事務所の弁護士だけあって、いい仕事をするということか。
「とにかく、コピーを一式送るからよく読んで。それから打ち合わせをしよう。いいね」
 電話を終えた玉澤先生が、ため息をつく。
「1審は楽勝だったのに、控訴審は茨の道というか、絶望的ですね。会社が把握していなかった少女買春や痴漢まで調べ上げるって、すごい調査能力ですね」
「仲間割れして、上見さんが長年の少女買春仲間に裁判を起こしたらしい。バカなことをするよなぁ。それで裁判を起こされたヤツが会社にたれ込んだというわけ。弁護士が調べたのは渡航歴だけだろう。相手が凄腕なんじゃなくて、上見さんの自滅だな」
「これまでの打ち合わせで、少女買春とか痴漢とか一度も聞かされてませんよね。盗撮はその時魔が差しただけだとか言ってましたけど。こうなると、盗撮も前歴が山と出てきても不思議じゃないですね」
「困ったもんだな」
 玉澤先生がしゅんとしている。珍しい。この辺で止めた方がいいかなと思いつつ、私の口は止まらなかった。
「10歳の少女を買春したとか自慢げに話していたとも書かれていますよ。タイの貧しい村から売られて来たいたいけな少女をどういう気持ちで性欲のはけ口にできるんでしょう」
 玉澤先生は哀しげな目をして、何かを言いかけて言いよどんだ。
「遅くなったけど、おやつにしましょう」
 六条さんが明るい声で割り込んできた。
「たまピ~には、クレーム・ブリュレにしたよ。今日は特に甘いものがよさそうだし、ちょうどよかった」
 六条さんは玉澤先生に寄り添うようにしてお菓子をのせた皿とティーカップをテーブルに置き、そっと玉澤先生の頬をなで、慈しむように微笑んだ。しまった。私が玉澤先生を傷つけて六条さんが癒やす、完全に私が悪役で負けパターンにはまっている。
「狩野さんには、ザッハトルテのよさそうなのがあったけど、たまピ~に意地悪するのなら、それも私が食べちゃおうかなぁ」
「あ…反省して、ザッハトルテいただきます」
 私は慌てて矛を収めた。玉澤先生の哀しげな様子を見て、自分でもう後悔してたんだ。玉澤先生が少女買春したわけじゃない。上見さんに裏切られた思いは、玉澤先生も同じはずだ。それなのに玉澤先生を自分の感情のはけ口にしてしまった未熟な私は、六条さんに点数を稼がれた。私も、ごめんねって言って玉澤先生の頬をなでられたらいいのに。ウィーン仕様の本格的なザッハトルテは、私の口に苦かった。

第2章 反撃 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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