第10章 それぞれの夏休み

1.苦渋の和解案

「会社の賃金規程では、単身赴任手当は、転居を伴う転勤により配偶者と離れて居住するものに支給すると明記されている。有斐閣の法律用語事典でも、同居していた配偶者と別居することとなった職員と書かれている。原告は離婚によって単身赴任の状態でなくなったことは明白で、離婚後に単身赴任手当が支給されるのがおかしいことは当然理解できたはずだ。原告は、不正受給だとわかった上で長期間受給していたものである」
 里根さんが解雇の無効を主張した裁判で、会社側は、里根さんが不正受給だと最初からわかっていたと主張した。
 東京地裁での労働事件の通例に従い、この事件も2回目の期日からは、法廷ではなく、13階の労働部の小部屋で審理されている。
「現場の営業担当者が賃金規程なんて読みませんよ。それに里根さんは、有斐閣の法律用語事典を愛読してなくてね」
 会社側が出してきた準備書面に、玉澤先生はうそぶいた。
「単身赴任とは、で検索して、コトバンクに出る辞典類では、みんな家族と離れてというように書いていて、配偶者とか妻なんて出て来ませんよ。世間の人は、単身赴任を妻と離れるときだけとは考えてないんじゃないですか」
 玉澤先生の言葉を聞いて、裁判官はやや顔をこわばらせた。
「だいたい、被告さんのおっしゃる単身赴任解消届と離婚の身上届の提出先は同じ部署なんでしょ。不正受給するつもりがあったら、離婚の身上届を出すはずがないじゃないですか」
「離婚を会社に伝えているのですから、最初から不正受給の意思があったということではないでしょうけど、どこかで気がついたのではないですか」
 裁判官が口を挟む。
「里根さんは気がつかなかったと言っています。離婚をちゃんと申告しているのに手当が支給され続けてるんだから、そういう手当なんだろうと思っていたと」
 玉澤先生はあくまでも、しれっと言う。
 あまり信じていない顔の裁判官に、玉澤先生は続ける。
「仮に途中で気がついたとしても、そういうケースについて明石市・市公営企業管理者事件の大阪高裁判決は、停職処分にとどまっている限りは裁量の逸脱ではない、言い換えれば解雇になったら裁量の逸脱だと判断しています。明石市の事件では労働者は受給した手当約300万円を返してもいないし、この事件では週刊誌に報道されて市が批判されています。里根さんは受給した手当300万円あまりを全額返還していますし、事件が報道されて会社が困ったことにもなっていません。里根さんより重いケースが解雇なら違法だとされたのですから、里根さんの解雇は当然無効でしょう」
 玉澤先生の指摘を聞く裁判官の顔は苦渋に満ちていた。

 「先生、私はやっぱり納得できません」
 裁判官からの和解案提示を受けて持たれた打ち合わせの席上、里根さんは言った。
 弁論準備手続でのやりとりの後、会社側は、裁判官に促されて精一杯の和解案を検討し、「清水の舞台から飛び降りる思いで」年俸1年分の解決金を提示した。これを玉澤先生が里根さんに伝えると、清水の舞台から飛び降りるつもりでそれですか、バカにしてると言ってキレた。里根さんには手当の不正受給という理由で解雇されたこと以外でも会社には相当な怨みがあるようだ。
 会社の和解案を伝えたところ里根さんがもう金銭解決はしない、判決をもらいたいと言っていると、次の期日に玉澤先生が伝えると、裁判官は、顔をしかめ、考え込んだ挙げ句に、裁判所からの和解案として年俸2年分の解決金を提示し、双方に検討するよう伝えた。
「里根さん。この事件を受けるときに言ったように、最終的に和解するかどうかは里根さんが決めることだ。私は常にそういうポリシーでいる。どんなにいい和解条件でも、それを蹴るのも本人の自由だ」
 里根さんの回答を聞いた玉澤先生が、ゆったりと切り出す。
「でもね、里根さん。里根さんが復職したいというのなら、当然この和解案は蹴るべきだろう。しかし本音では復職する気がないのだったら、金銭解決としては、この条件は実務上、これ以上は無理な水準だと思う。それだけは言っておきたい」
 玉澤先生の言葉に、里根さんは考え込む。
「会社と和解するということ自体に抵抗感がありましたが、実際問題としてあの会社に戻りたいとはもう考えられません。先生がこれが上限だというなら、これで飲みます」
「わかりました。ただ、うちに帰ってよく考えたら考えが変わるということもあるかも知れませんから、会社側への回答はまだしません。考えが変わったときは連絡してください」
 里根さんは「わかりました」と言って深々とお辞儀をして帰っていった。

「先生、和解の時って、すごく慎重ですね」
「弁護士にとって民事事件は、当事者が納得して初めて解決するんだ」
「それ、かっこよすぎないですか」
「えっ、そういうもんだろ。判決の場合はこちらの意向がどうであれ裁判官が結論を決めるわけだから納得も何もないとしても、判決を受けずに解決するときは、こちらが飲むかどうかを選べるんだから本人がそれにきちんと納得していないとね」
「先生は、いつも依頼者に、和解案を飲むか飲まないかはあなたが決めることだ、私は聞かれたら、特に和解せずに蹴ったらその後どうなるかの見通しは、わかる限りのことは答えるが、それを聞いた上で決めるのはあなただって言ってますよね。でも、今の里根さんへの話はやっぱり説得なんじゃないですか」
「私は、情報として金銭解決なら実務上はこれ以上の条件は望めないと伝えただけだよ。決めたのは里根さんだ」
「先生の力なら、2年分を超えて取れたんじゃないですか?」
「交渉には相手方もいる。打ち出の小槌じゃないさ。狩野さん、里根さんに提示された条件は年俸、つまり賞与込みで2年分だ。裁判所はバックペイでも賞与についてはなかなか認めないこともあって、ふつう和解の条件は賞与抜きの月例給与でカウントする。それで言うと里根さんに提示された条件は約34か月分、さらに里根さんは別の会社で働いているから判決の場合のバックペイは解雇前の賃金の6割になってしまう。それを基準にカウントしたら57か月分だ。裁判官は、会社側を刺激しないように年俸2年分って言ってるけど、実質は3年分弱だ。裁判官が提示した和解案だから、これを変えるとなると裁判官のメンツもある。裁判官の提示でこれだけ取ったら、やっぱり実務上は上限だろう」
「会社側は飲みますかねぇ」
「あのクラスの会社で、裁判所が提示した解決金を蹴った例を私は見たことがない。弁護士が説得してくるだろう」
 2週間後、里根さんから、熟慮の上裁判所の和解案を飲むという確認の連絡があり、次の期日で、裁判所の和解案どおりに和解が成立した。

2.玉澤先生の夏休み

「六条さん、このメールの business instruction って、業務命令って訳すの?」
「う~ん。instruction には命令って訳語もあるから業務命令でもいいかもしれないけど、order の方が命令の意味が強いから、その人が他で order を使ってるなら instruction は指示の方がいいんじゃない」
 今週は、私と六条さんが2人きりで顔を突き合わせる毎日だ。玉澤達也法律事務所も、裁判所にならって、3人が順番に夏休みを取ることになった。ただし、裁判所のように3週間も夏休みはとれず、基本的には各自1週間だ。今週は玉澤先生が休み、私と六条さんが出番となる。玉澤先生は、剛田さん、里根さんと高額の金銭和解が次々とまとまり、それに応じて弁護士報酬も相当額が入って、経営的に一息つき、南の島に家族で旅行中だ。

 六条さんは、お盆の時期に休みを取ることを希望したので、その次に休む。都の東方山麓の水滑らかな温泉地で過ごすつもりだという。私は8月の終わりに休むことにした。出かけるのならピークは外したいし、美咲と調整したら、そこしか候補はなかった。世間がお休みのお盆の時期に、玉澤先生と2人きりで一日を過ごすのも、ちょっと楽しみだ。その間六条さんの業務も私がやることになり、私がそつなくこなせるか、少し不安ではあるが。
 その楽しみの前、六条さんと2人の日々に私たちに課せられた宿題が、外資系の会社に解雇された貝柿さんの労働契約書と、上司からの電子メールの翻訳だ。貝柿さんとの約束では、日本語訳は貝柿さんがすることになっている。玉澤先生は、英語は苦手、と宣言して、外資系の事件は、英語の文書は依頼者が日本語訳するという前提で事件を受けている。しかし、そうは言っても間違いがあっては困るので、一応翻訳のチェックはかけたい。六条さんはアメリカで生活した時期もあるので、英語はできる。私については、若いからやれるんじゃない、というレベルで期待されている。

「すみません。玉澤は現在夏休みを取っておりまして、事務所に出てくるのは来週になります」
 六条さんが断りを入れている。
「来週まで待てない、ですか。別の弁護士、ですか」
 六条さんが目で問いかける。
(えっ、私?無理無理・・・)

「海芝さんの担当業務をもう少し説明してください。業務成績の評価基準も」
 外国企業の日本支社でマネージャーとして雇用されている海芝さんは、会社から業務成績不良を理由として退職を強く勧められ、割増退職金や就職支援プログラムの提供などの条件提示を受けている。外資系企業でよくある「退職パッケージ」と呼ばれる使用者側からの提案だ。それに対する回答期限が明日だということで、取り急ぎどう対応すべきかを相談したいと言って、資料を持って、訪れた。
 私は、玉澤先生が、業務成績不良による解雇を受けた相談者に対応しているときのことを思い出しながら、労働契約書や組織図で契約条件や業務内容を確認し、目標管理シートを見ながら、会社側が何をもって業務成績不良と言っているかを確認する作業に入った。
 海芝さんの説明からすれば、少なくとも解雇を正当化できるような状況ではない。でも、その海芝さんの説明を裏付ける材料はどこに求めればいいのだろう。玉澤先生なら何を探せと言うだろう。不安は残るが、明日の対応を問われている以上、現在の材料で答えるしかない。
「本日の海芝さんのご説明を前提とする限り、会社側が解雇しても裁判で争えば解雇は無効になる可能性が高いと判断します。ただ、本当は、時間があれば、海芝さんがされた説明のうち昨期と今期の業績の変化の原因とされた事情についての裏付け資料を確認したいところではあります。それを飛ばしての判断という点では、不安定な部分もあることは前提とさせてください。解雇しても無効となる可能性が高いという前提で言えば、解雇されても闘うという覚悟を持てれば、現状のオファーは蹴ってもかまわないと思います。新たなオファーがあれば、それも必ずペーパーにしてもらって、弁護士と協議して回答すると言って持ち帰ってください」
 海芝さんは、納得した顔で相談料を支払って帰って行った。海芝さんが来る前は、気が動転してオロオロしていたが、相談を始めると、意外に落ち着いて、すらすら言葉が出た。8か月間、ほぼ毎日、玉澤先生が相談者に対応し、依頼者と打ち合わせるのを横で聞いていたことで、私の引き出しはずいぶんと増えていたことを実感した。

3.水入らず

 今週は、六条さんが夏休み。朝から夕方まで、玉澤先生と2人きり、と期待したが、1人は事務所にいなければならないため、玉澤先生が裁判所に行くときは私は事務所でお留守番、私が買い物等に行くときは玉澤先生がお留守番になってしまう。なんだ、かえってふだんより一緒にいる時間が短いじゃないか。まぁ事務所にいるときは、玉澤先生と「密室で2人きり」になるし、お盆の時期は相談者がぐんと減るから2人きりの機会が増えるのがうれしいのだけど。
「玉澤は外出中です。午後2時に戻る予定です」
 電話対応をしてみて、六条さんの能力を実感する。特別なことを言うわけではない、むしろパターン化された対応に見えるのだが、自分と引き比べてみると、六条さんの電話対応が、いかに「感じがいい」かがわかる。来客への応対の際の表情も、お茶を出す際のしぐさも。客にはキビキビとしたしかし暖かみを覚えさせる感じの良さを、玉澤先生には甘やかな声と艶やかな笑みで癒やしを、私には意地悪く時には凍りつくようなひと睨みを、瞬時に切り替える六条さんの人間力は、改めて考えると只者ではない。

「上見さんの事件、どうでした?」
 裁判所から帰ってきた玉澤先生に、留守中の電話をメモしたノートを渡した後、私は盗撮男の行く末を尋ねた。
「予定通り、双方の最終準備書面を陳述して弁論終結。判決期日は1月後だ」
「1月後、ですか。裁判官に迷いはなく、かつシンプルな判決ということでしょうか」
「そうだろうな。弁論準備期日に、他の事案との均衡を失していることからして、少なくとも解雇の相当性がないって言ってたから、その線かな」
 上見さんの件では、盗撮で逮捕された他の従業員の処分結果についての玉澤先生の求釈明に裁判所も興味を示し、会社側は盗撮で逮捕された幹部職員について処分結果を開示し、それ以外に年度別の懲戒処分の結果別の件数を提出してきた。上見さんと同じことをした幹部職員は停職処分止まり、他にも盗撮で逮捕されながら停職止まりの者が相当いて、懲戒解雇に至った例は半分程度であることがわかった。
 上見さんは解雇理由となった盗撮行為は認めていて、まぁ刑事事件で罰金の略式命令が出ているのだから認めないわけにもいかないけど、事実関係に争いがないため、裁判所は人証調べの必要がないと判断し、弁論準備を打ち切って、法廷での口頭弁論期日を指定し、最終準備書面を提出するならそれまでに出すようにと指示した。
 玉澤先生は、最終準備書面で、逮捕報道で社名の報道がなく業務とも関係がない私生活上の行為であるからそもそも懲戒処分の対象とならないという論を初め、就業規則の懲戒事由に該当しない、砂川闘争で逮捕された労働者について会社の規模が大きく労働者が幹部職員でなく刑事罰も罰金にとどまっていることなどから懲戒解雇事由に当たらないとした日本鋼管事件最高裁判決の基準から見て懲戒解雇事由に該当しないなどの数段階の法的主張を立て、最後に同種事案との処分の不均衡を挙げていた。
 判決期日は、裁判官が決めるが、弁論終結の期日から2か月後あたりの日が指定されることが多い。被告が争っていないような事件を除けば、1か月後という判決期日の指定は、特に労働事件としては、かなり早い方に属する。
 裁判官がどの理屈を採ってくれるかはわからないが、勝訴は動かないということだろう。

「玉澤先生、洋梨のタルトと日向夏のタルト、どっちがいいですか」
「狩野さんは、どっちがいい?いつも、選ばせてもらえてないでしょ。私と2人のときは、まず狩野さんが選んで」
(あ~気遣いが胸に沁みる。やっぱり水入らずはいいなぁ)
「私は、どちらも好きだと思って買ってきましたから、玉澤先生が選んでください」
「じゃあ、日向夏、いってみようかな」
「はい、どうぞ」
 シェアしようって言ってくれたら満点なんだけど、と思いながらも、私はケーキを差し出した。玉澤先生がケーキを食べるうれしそうな表情に、私はしばし見とれる。思い人に、少なくとも悪く思われずに、毎日見つめていられる。この立ち位置を、私は好んでいる。今のところは。

4.高原の謀議

「うわぁ、すっごいいい景色だよ、美咲、早く登っておいでよ」
「麻綾って、意外に身軽だねぇ。ちょっとこの岩は難所だよ」
 私は、笑って、美咲に手を貸した。
 弁護士になって初めての夏休み、私は、親友の美咲と2人、美咲の親戚が持つ高原の別荘で過ごすことにした。
「麻綾、夏は海じゃなくてよかったのかい」
「私は、高原の方が好きだよ。涼しくて爽やかで」
「そうだなぁ、私と2人で海じゃあ、私のダイナマイトボディに圧倒されるからなぁ」
「美咲は、私と2人で、男っ気のない夏休みでよかったの?」
「私は、麻綾と違って、仕事がら会社の偉いさんからしょっちゅう言い寄られて辟易してるんだ。夏休みくらい心穏やかに過ごしたい」
「大きく出たね。そのよりどりみどりの偉いさんには好みのタイプはいないの」
「あぁ、私は理想が高くてね。簡単にはお持ち帰りされないよ」
「ときどきはお持ち帰りされちゃうんだ」
「やりきれない夜もあるさ。麻綾は、ないの?」
「少なくとも、お持ち帰りされたことはないな」
「えっ、これまでの人生を通じて?」
「私は、お持ち帰りなんてされたくない。先回りして言うけど、仮に相手が玉澤先生でも」
「おぉ~っ、性欲なくなった?」
「違うよ。私は思いを寄せる男にお持ち帰りされるんじゃなくて、私がお持ち帰りしたい」
「麻綾って、意外に情熱の人なんだ」
「夢想するだけで、実行力はないけどね。私がお持ち帰りするのは美咲ばかり」
「玉澤拉致計画なら手を貸すよ」
「うふふ、計画を立てるのなら、心を奪う計画を立てなくちゃ」
「そうか、じゃあ夜道で私が玉澤先生を襲って痛めつけ、そこを通りがかった麻綾が・・・」
「1人で考えた方がよさそうだな、これは」
 こういう、本音とも冗談ともつかぬ他愛のない話を気兼ねなくできるのがホッとする。美咲と一緒でよかった。

第11章 私には夢があるに続く



 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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