第3章 応酬

1.夏井-1

「会社側の代理人は、注意指導は再三にわたり何度もしてた、と言ってるんですが、上司から業務のやり方とか勤務態度なんかについて改めるように注意されたことは本当にありませんか」
「いや、そういう記憶はありません。上司とそりが合わないところはありましたけど、業務に関して改めるように言われたら直しますよ」
 夏井さんは、心外だという様子で言い切った。業務上の指示に従わず勤務態度も悪いとして、勤めていた大手電機メーカーの熱三電機から解雇された夏井さんは、玉澤先生に依頼して解雇を争う裁判を起こしている。先日、労働部の小部屋で行われた弁論準備手続で、会社側の解雇理由についての具体的な主張が出された。今日はそれに対して次回こちらが反論するための準備の打ち合わせに来てもらっている。
「提訴の前からそれは聞いているんですが、夏井さんの場合、手元に勤務時の資料がほとんどないんですよね」
「ええ、いきなり解雇されて、そのまま追い出されましたから。事前にわかっていれば、先生がおっしゃるようにパソコン内のデータ類をひととおりバックアップできたのでしょうけど。手元に何も用意していないということが、解雇がまったく予想できなかった、注意指導もされていなかったといういい証拠じゃないですか」
「ご本人の気持ちとしてはそうでしょうけど、そう言うだけで裁判官にそう納得してもらうのは難しいでしょうね。一番不安なのは、電子メールなんですが、メールも手元に残ってないんですか」
「自宅のパソコンで業務上のメールを受けて保存するということはしてませんでした。社内での業務上のやりとりのメールは会社で使っていたパソコンの中にしか残っていません」
「会社の代理人は、注意指導していた証拠はあるって言うんですよ」
「いや、そんなことありませんって。私が受けたメールは全部会社側が持ってるんだから、全部出させてください」
「そんなこと言っても、よほど特定しないと裁判所から出すように求めさせること自体できませんし、手元にないものを相手に出させるということは、事前に中身がわからないから、裁判上はリスキーなことなんですよ。夏井さんがいうように自信満々で出せといって不利なものが出てきたらそれでかなりダメージを受けて相当不利な展開になりますよ」
「大丈夫ですよ。心配ありませんから」
 あくまでも強気で話す夏井さんと、手元資料の不足に慎重な姿勢の玉澤先生の溝はなかなか埋まらなかった。

「本人があれだけ自信を持って注意指導を受けていないというなら大丈夫なんじゃないですか」
 打ち合わせが終わり、夏井さんが帰った後、私は玉澤先生に聞いた。
「ふつうの人の感覚では注意指導されているのを、そうは感じない人もいるからねぇ。夏井さんのように、断言する人に、往々にしてそういうことがある。言われてないと断言しても、昔は言った言わないの水掛け論になって、言ったと認めるに足りる証拠はないということで終わって労働者側が勝訴ということも多かったんだけど、最近はメールとか録音とかで、言ったことが疑問の余地なく立証されてしまうリスクがある。その場合、言われていないと断言すると、嘘をついている、反省が見られないと、一気に悪い心証を取られかねない。神経を使う面倒な時代になったもんだ」
「本人が忘れているメールがあるかも、と思っているんですね」
「あぁ、特に具体的な注意、そうだね、会社側の書面で指摘されている納品指示での製品の型番や数量のミスが度々あって、どれも現場の担当者がたまたま気づいたから事なきを得たけど、現場の担当者が気づかなければ誤納品や納品漏れなどの事故に至る危険があったというやつ。夏井さんはそういうミス自体がなかったって言うんだけど、その都度注意のメールがあって、夏井さんも反省して、以後気をつけますなんてメールを返したりしてて、そういうのが繰り返されてるなんてことになると、ダメージが大きいね」
「どういう線で反論をまとめましょうか。強気で行っていいですか」
「そうだなぁ、なんかちょっとひっかかるんだよなぁ、この件」

2.楠里-3

 プルルルル・・・
 夏井さんの件の準備書面の方針を私たちが話し合っているとき、電話が鳴った。
「はい、玉澤達也法律事務所です。千葉地裁の労働集中部ですか。楠里さんの件ですね。新件の期日のことでしょうか?え、期日の件ではなく。あぁ、失礼しました。今、玉澤と替わります」
 電話を受けていた六条さんが、いつになく慌てている。
「たまピ~、千葉地裁の労働集中部から楠里さんの件で電話。書記官じゃなくて裁判官から直接、お話があるって」
「はい、玉澤です」
 玉澤先生が、少し緊張した面持ちで電話に出る。
「ええと、管轄ですか。解雇無効の事件ですから、義務履行地は勤務先で千葉地裁に管轄があると考えていますが…」
 玉澤先生の目が少し険しくなった。
「営業所っていうのは、義務履行地の話ではなくて、営業所限りの取引に関する管轄の話で、義務履行地は特に営業所ということでなくてもいいはずですよ。例えば特定物の引渡だったら義務履行地はその物の所在地になりますから、その場合営業所はおろか店舗さえなくたって義務履行地は義務履行地でしょ。営業所と言えない店舗だから義務履行地に当たらないなんて解釈はできないでしょ」


 玉澤先生が天を仰いだ。
「八日市場はないでしょう。会社の本社は酒田ですよ。ホームページでも地元の弁護士が顧問弁護士として書かれていますよ。会社の弁護士は電話会議にするかも知れませんけど、1度は来なきゃならんでしょう。酒田から来るのに千葉よりも八日市場を選ぶことは考えられないでしょう。まずは千葉の本庁で受けて期日指定して、被告側の意見を待ったらどうですか。はい。検討結果をお待ちしています」
 玉澤先生がため息をついて、受話器を置いた。
「どうしたんですか」
「裁判所で検討した結果、店舗しかなければ、賃金支払義務の義務履行地にならないと言ってきた。営業所と言える規模でないといけないと言うんだ」
「銀行振込を使わなかったら、勤務先の店舗では給料を払ってもらえなくて、どこか地方の拠点まで労働者が取りに行けということですか」
「そういう扱いは考えられないだろう。民事訴訟法の義務履行地の管轄の規定と、営業所の取引について営業所に管轄を認める規定を取り違えてるんじゃないかと思う。それを指摘したら、今度は八日市場に送ると言い出したよ」
「そんなことされたら、先生も言っていたように、相手の弁護士も困るでしょうね」
「まぁ。最後は再検討するってことだったけど、ときどき変に意固地になる裁判官がいて困るよなぁ」
「楠里さんの事件は、もう法テラスが先生の名前で援助決定をして提訴しましたからねぇ。酒田に回されても、私が行くわけにはいかないですね。残念ですが」
「全然、残念な顔してないように見えるけど」
「一人でなら、行きたいとは思いませんね。先生と2人で温泉旅行なら喜んで行きますが♪…でも、先生。むしろ酒田に移送されたら、会社側は地元の弁護士がついて出席するでしょうから、そしたら先生が電話会議で、事務所で対応できるから、千葉地裁の本庁に行くより楽じゃないですか」
 温泉旅行という言葉に、玉澤先生が反応に困って戸惑うのをスルーして、私は次の話題に移った。
「私は電話会議なんて嫌だね。裁判官が何を考えてるか、こちらの主張や証拠を、相手の主張や証拠をどう受け止めているかを肌で感じて、次の手を考えるのが、弁護士の仕事だろう。ましてや、裁判を起こした原告側が裁判所に行かないなんて、やる気を疑われるよ」
 矛先がずれてホッとしたのか、玉澤先生の舌が再び滑らかに動き出した。
 無駄を省き情報の行き来で、距離を、さらには時間を越えさせようという現代の流れに逆行するような職人気質に、子どもの頃からパソコンやスマホをいじって育った私は、一抹の不安と、矛盾するようだが包み込まれるような安心感を持つ。裁判のIT化に津波のように飲み込まれてしまうかも知れないけれど、玉澤先生の信念に、今はついて行こう。

 楠里さんの件は、結局、こちらで千葉地裁本庁で審理していただきたいという上申書を出すことで、とりあえず千葉地裁本庁で受け付けて第1回口頭弁論期日を指定し、被告に訴状副本を送ることになった。裁判所は、被告側が移送申立をしてきたらどうするかはわからないという態度を続けてはいたが。

3.上見-3

 年の瀬も近づいたところで、上見さんの事件の控訴審の第1回口頭弁論期日が来た。
「控訴人は、控訴状及び控訴理由書陳述、被控訴人は答弁書陳述ですね」
 裁判長が、まずは提出書面の陳述の儀式を進めていく。
「書証ですが、控訴人は乙第28号証から乙第55号証まで、すべて写しで提出ですね」
 会社側は、上見さんと裁判中の元買春仲間から得た書証を大量に出してきた。書証は1審から連続しているので、1審で原告だった側が甲号証、1審で被告だった側が乙号証のままだ。
「その上で、まず控訴人側ですが、あれこれ主張されてはいますが、解雇理由をきちんと特定してください」
「控訴理由書で解雇理由は特定して主張しているつもりですが」
「だらだらと書かれていますが、就業規則で定める解雇事由との関係を意識して、どの事実があったから解雇するというのか、事実というのは5W1Hをはっきりさせてください。いいですね」
「はい」
「次に、被控訴人側にお聞きします。痴漢の件について答弁書では痴漢で逮捕されたことは認めるとだけ主張されています。解雇理由となる事実は控訴人側に主張立証責任がありますからそれでは足りないとは言いませんが、逮捕の時期と、逮捕時期が解雇後であればいつまで勾留されていたのかについては被控訴人側で明らかにしてください」
「逮捕されたのは解雇前です」
「それならそれでけっこうです」
「では、控訴人、解雇理由を特定した書面の提出にどれくらいかかりますか」
「来年1月末提出でお願いします」
「すでに主張しているはずの解雇理由を特定するだけですよ。まぁ、中途半端なものを出されても困るので、しかたないでしょう」
 次回期日が2月初めに指定され、第1回口頭弁論期日が終了した。
「さっきの、逮捕時期の釈明、何だったんですか」
 法廷を出ながら、私は玉澤先生に質問した。
「私も、用意してなかったことをとっさに聞かれて戸惑ったんだが、理屈としては、解雇前の事実なら解雇理由として追加主張できる、解雇後なら解雇理由にはできないが、逮捕されて身柄を拘束されている期間は解雇とは別の理由で就労できないからこちらが勝った場合のバックペイ、解雇時点以降の賃金の支払の対象から外れるということなんだろう。東京高裁は労働専門部がないから裁判官の労働事件の経験もばらつきが大きくて、ちょっと怖いんだが、今回の裁判体は当たりだな。ちゃんとわかってるよ」
「裁判長、じゃなくて裁判体、裁判官3人がということですか」
「法廷でのアドリブ発言なら裁判長のセンスだけど、事前に出たものを読んで合議しての判断だろうからね」
「なるほど。合議で検討した結果、解雇理由の特定の問題も合わせて、先生の答弁書の線で裁判所が動いてる、こちらが有利ということですね」
「そう読んでいいだろうな、今のところは。でも、結審されずに続行になったんだ。相手の弁護士だって、あれだけ言われたら何か頑張って仕掛けてくるだろう。プロの端くれなんだ、意地もある。浮かれてたら足をすくわれるぞ」
「はい、心しておきます」
 玉澤先生が心血を注いだ答弁書で、私が感じたのと同様に裁判官の心も動かし、形勢は逆転した。私は、師であり思い人でもある玉澤先生を頼もしく感じ、その努力が報われることに安堵し喜ぶ。


 冬晴れの空の下、玉澤先生の左隣のお気に入りのポジションをとり、つかず離れず歩く私は、上機嫌だ。2人で並んで歩けるなら、事務所まで歩き通してもいい。本当に歩いて帰ったら1時間半くらいかかるだろうけど。
 このまま、どこまでも、いつまでも歩いていけるといいな。私の好きな左側から見る玉澤先生の横顔を目で追いながら、今日もまた私はそう思う。

4.告白

「今年はこれで仕事納めね。たまピ~、今年も1年ありがとう。また来年もよろしくね」
「私も、この1年とてもお世話になりました。先生の勤務弁護士になれたおかげでいろいろなことを勉強させてもらいました。早く勉強ではなく戦力になれるように努力しますが、来年もよろしくお願いします。ところで、実は、これから六条さんと2人で一杯やることになってるんですが、先生も、いかがですか」
 12月28日の夕方、私は、初めての六条さんと2人での約束に一抹の不安を覚え、また可能なら玉澤先生と業務外の時間を作りたくて、水を向けた。
「残念だけど、三が日明けが提出期限の控訴答弁書があって、それをこれから書かないといけないんだ」
「会社側が控訴して元労働部の裁判長だった弁護士を代理人につけてきた事件ですね」
「あぁ、自分がやると後輩の労働部の裁判官がやりにくいだろうから、労働事件はやらないって言ってたんだけどなぁ。高裁なら労働部の後輩じゃないから、いいってことかね」
「相手にとって不足はないってところですか」
「まぁね。というわけでこの年末年始はたぶんそれにかかりきりになるよ。いやだねぇ」
 玉澤先生は、それほど嫌そうでもなく、つぶやいた。
「玉澤くん」
 六条さんが口を挟み、玉澤先生の口元が少しこわばった。
「12月は1日の土曜日に休んだきりで、今日で27連勤してるの、自覚してる?」
「えぇと、あぁ、そんなになるかな」
「証拠を読み込むのも、それを組み立てて裁判官を説得するよりよいストーリーを考えるのも、より説得力のある論理を編み出すのも、際限なく深められるから、より高いものを追求したらきりがないわ。玉澤くんが手抜きができない性格なのも、相手が強いほど燃えてのめり込むのも、素晴らしいことだと思うの。そして…」
 六条さんは、言葉を切り、少しためらいを見せつつ、玉澤先生をまっすぐ見つめ、頬を染めて、言葉を継いだ。
「私はそんな玉澤くんが、好きよ」
(あれっ、六条さん、あなた、今の関係を壊したくない、迫らないし迫られたら遠ざかる『朝顔』じゃなかったの?でも、潤んだ瞳の六条さん、かわいい…)
 恥じらいを見せ頬を赤らめながらも、けなげに視線をそらさず玉澤先生を見つめる六条さんは、私の倍以上の歳の人に対してこういうのが適切かどうかわからないけれど、女の私から見ても悔しいほど、かわいらしかった。チャコールグレーのシックなスーツに身を包み、柔らかげに、しかしどこか凜とした佇まいの六条さんを改めて見ると、吸い込まれそうだ。六条さんの視線がもし私を直視していたら、私なら痺れている。六条さんも、今日、玉澤先生とデートできたらいいなと思って来たのだと、私は今さらながら気づいた。
 しかし、六条さんの告白は、この会話が告白を目的としていたとすれば、不発だった。六条さんから説教されると身構えている玉澤先生は、次に来るであろう『でも、』とその先に注意を向けていて、六条さんが玉澤先生を『好き』と言ったことを、説教の前置きとしか受け止めていない。
 六条さんも、そこで一拍おいたのは、そうするつもりだったからではなくて、つい言ってしまったことに自分で感極まってしまったためのようで、深呼吸してすぐ言葉を継いだ。
「でも、君がこれ以上無理をして倒れたら、君が愛する家族も、狩野さんも、私も路頭に迷うことになるのよ。君の側にいて、君の志を、君のすることを、私は好ましく思っているけど、君の働き過ぎにはいつも心を痛めているの。お願いだから、私が安心できるように、きちんと休んで」
「あ、あぁわかった。できるだけ早く仕上げて年末年始のどこかでは休めるようにするよ」

5.嫁・姑

「玉澤先生の誘い出しに失敗しちゃいましたね」
 六条さんが予約していたこじゃれたパブに入り、ベルギービールのジョッキで乾杯し、蒸したムール貝を頬張りながら、私は振り返った。
「時間があったら先に仕事をして、少しでも早く終わらせた方がいいっていうのが、玉澤くんのスタイルなの。いつも昼休みをとらないで仕事をするのと同じ。だから、今晩を私たちと付き合って休むよりも、今晩仕事をすることでより早く終わらせようって」
「でも、時間がある限り深掘りしちゃうから、結局休めないんですよね」
「そう、悪いクセ。それと、今回に関してはたとえて言えば、嫁と姑が自分を外して自分の悪口でも言いながら盛り上がって仲良くしてくれるのなら、その方がいいと思ったんじゃないかな」
「そう来ましたか。六条さん、その場合、嫁は私でいいですね」
「狩野さん、ずいぶんと自信家になったわね」
 六条さんの目にチラリと炎が灯されたように見えた。
「六条さんも、『嫁』の方に手を挙げますか。『事故』を除けば、積極的な行動には出ないとおっしゃっていましたけど」
「さっきのこと?う~ん、告白するというつもりじゃなかったんだけど…なんだか、最近、狩野さんに1歩リードされている感じがして、ちょっと焦ってて。言葉を止められなかったの」
(うわっ、六条さん、どうしたの?こんなに真っ正直な直球が来るとは思わなかった)
 六条さんは、頬杖をつき、ビールを飲みながら、私の左手の方をチラ見している。
(そうか…そうだろうな。やっぱり。逆の立場なら、私だって…)
 今、六条さんが、本当は何を聞きたいか、そしてそれを口にすることをいかにためらっているか、自分のプライドと、六条さんが危惧している答を私がした場合の屈辱感への怯え、真実を知りたい気持ちと知ったときの戦慄などが頭の中をめぐっている様子が、私には手に取るようにわかった。私は、つかの間の優越感に浸りながら、あえて自分の左手に目をやらないままジョッキのビールを飲み干して、お代わりを注文し、話題を変えた。
「六条さんは、玉澤先生に肩を揉んでもらうのと玉澤先生の肩を揉むのと、どっちが好きですか」
「何を聞くのかと思ったら、狩野さんって面白い質問するのね。そうね…私は、どちらも好きだけど、やっぱり揉んでもらう方がいいかな」
「そうなんですか。確かに肩を揉んでもらうの気持ちいいんですけど、私は揉む方が好きです。六条さんも同じかなって思ってたんですよ。なんか、六条さんって、玉澤先生に膝枕とかして耳掃除してあげてるなんていうのが、似合うように思えて」
「膝枕して耳掃除かぁ。やったことはないけど、いい感じかもね。玉澤くんは耳垢がたまりやすい体質だから、掃除のしがいがあると思うけど」
「そうですよね。横を歩いててチラ見してるとたまってることが多いです」
「そうか。何かの機会に…」
「六条さん、何か『事故』を起こす計画を考えてるんですか」
「うふふ、いったいどういう『事故』を起こしたら耳掃除につながるのよ。狩野さんって、やっぱり変」
(そりゃあ、そんなこと、思いもよりませんけど、考えられないような奇策を編み出すのが六条さんじゃないですか。玉澤先生を抱きしめて胸に顔を埋めさせるために、本棚の本を取ろうと椅子の上にのぼって足が滑ったふりをしてフライイングボディアタックをかけるなんて、誰も思いつきませんって)
「実は、肩揉みよりもこっちの方が聞きたかったんですけど、六条さんは、好きな男に抱きしめられるのと、好きな男を抱きしめるのとどちらが好きですか」
「私は、抱きしめられる方がいいわよ」
「そうなんですか。例の計画的な『事故』のとき、六条さんが玉澤先生の胸に飛び込むんじゃなくて、玉澤先生の顔を六条さんの胸に押し当てて抱きしめたじゃないですか」
「計画的な、は余分だわね。玉澤くんは今でも事故だと思ってるわよ。あの後、あのときのことをさりげなく思い出させると、ポッと顔を赤くして『あのときはごめん』って言うのよ。かわいいったらありゃしない」
 以前の私なら、六条さんのこの物言いを聞いたら逆上していただろう。でも、今は、こんなことを言われても、苦笑い程度で受け止められる。「一歩リード」していると思えることの余裕だろうか。
「玉澤先生を、悩殺したかったということですか」
「ふふふ、実はこんなに効くとは思ってなかったんだけど。玉澤くん、思ってたより初心なのね。小学生の頃は、いつも私が抱きしめていたけど、そんなに照れてなかったわよ。もっとも、その頃は私の胸はぺたんこだったけど」
(『いつも』って…小学2年生のとき、並んでお昼寝してただけじゃないってか)
 過去に思いをはせ思い出し笑いする六条さんに、私の気持ちの中で「一歩リード」はぐらついた。
「子どもの頃って、女の子の方がおませでしょ。でも、まだその頃は、『好き』っていうのも…どちらかというと玉澤くんを熊のぬいぐるみ代わりに抱きしめてた感じかな。心配しなくても、ペロペロキャンディの代わりに舐め回したりはしてないわよ」
 六条さんは、2人の過去への私の嫉妬を見透かしたように追撃し、2人の幼い頃の甘い想い出を味わうようにビールのジョッキを傾けてから、私に向き直った。
「でも、大人になってからは、抱きしめられる方がよくなったな、私は。狩野さんは、好きな男に抱かれるよりも、好きな男を抱きたいって思うの?」
 六条さんは『抱きしめられる』を『抱かれる』と、さらに『抱きしめる』を『抱きたい』と微妙に言い換えた。聞きたいのは『ハグ』じゃなくて、その先ということか。
「私は、抱きしめられるよりも、抱きしめたい方なんです。大人になっても。でも不倫までしたいとは思っていないんです。今のところは」
 私は、六条さんが逆上しない範囲で思わせぶりに答えた。六条さんの表情から、再び、余裕の笑みが消えた。
 同じ男を好きになった私と六条さんは、見方を変えれば、好みが同じ気があう仲間とも言える。腹の探り合いという場面はどうしても残るけど、玉澤先生を肴にした雑談は、それなりに楽しい。
 カーロス・リベラと戦う矢吹丈のように、出会うべく運命づけられていた好敵手と相まみえて、打ち合う喜びに目覚めた私と六条さんは、制限時間を忘れて、いつまでもパンチの応酬を繰り広げたのだった。

第4章 不安 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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