第13章 取調2

1.期日

 翌26日、私は、前日と同様、東京地裁で玉澤先生が担当する事件の口頭弁論や弁論準備期日に出席した。午前10時には消費者金融に対する過払い金請求事件の口頭弁論が法廷であった。その事件は玉澤先生が一人で原告代理人となっていて私は代理人ではなかった。弁護士が急病になった場合などに備えて、依頼者からもらう委任状には委任事項の1つに必ず「復代理人の選任」が記載されている。玉澤先生が依頼者からもらっている委任状にも、当然に、その項目があるが、私が玉澤先生の復代理人になるためには玉澤先生からの委任状が必要だ。意識不明の玉澤先生は委任状を書けないので、私は復代理人になれず、傍聴席から、事情を説明した。裁判官は、「前回の期日以降、原告代理人からは事前に準備書面が提出されていますが、今日は出席されていないので陳述できませんね。原告の準備書面の陳述は次回としますが、被告は次回にこの準備書面が陳述される予定であることを前提に次回までに反論の準備をしてください」と言って、次回期日を指定し、期日を終えた。
 午前11時には、労働部で解雇事件の弁論準備期日が開かれた。この事件では、私も原告の労働者の代理人になっている。
「それでは始めます。期日間に提出されたものの確認ですが、原告から準備書面が提出されています。これを陳述されますね」
 裁判官が、淡々と手続を進め、私は、機械的に「はい」と答えた。
「次回は、被告側でこれに反論してもらうことになりますが、被告代理人、どの程度の期間を要しますか」
「そうですね。書面作成に1月半くらい」
 会社側の代理人は、これまでも主張を小出しにして書面の提出も先延ばしにして、裁判の引き延ばしを図ってきた。玉澤先生がいれば、たぶん、「いい加減にしてください」と口を挟む場面だろう。裁判官も前のときには早く主張を出し尽くしてくださいと注文していた。
「原告代理人、玉澤先生のご容態はいかがですか」
「それが…まだ意識不明で、お医者さんもまだ見通しがはっきりしないとしか…」
 もう何度か繰り返したやりとりだが、何度繰り返しても私は事態を冷静に受け流すことができず、つい声を詰まらせてしまう。
「では、被告側の書面の提出期限は1月半後の5月14日、次回弁論準備期日は5月28日でいかがでしょう」
 会社側の弁護士も私もけっこうですと答え、期日が終了した。裁判官が部屋を出るのに私を追い越しながら「玉澤先生、早く回復されるといいですね」と囁いた。私は、うわずりながら「ええ」と返すのが精一杯だった。こういうことになって改めて思うが、裁判官も、さらに言えば、蟻蔵先生や高森先生なんかを除けば、多くの場合は相手方の弁護士も、日頃厳しい態度の人でも、けがや病気には優しい。労働部の裁判官は玉澤先生と顔見知りの場合が少なくないし、会社側の弁護士も有名どころは事件や弁護士会の委員会等の会合で面識があることが多い。社交儀礼だけではなく、心配してもらっていると感じる場面が続いている。そういう配慮がなければ、玉澤先生が昏睡状態の今、私は行うべき業務、玉澤先生が担っていた業務の肩代わりだけでも押しつぶされてしまうだろう。玉澤先生の容態が気がかりというだけで憔悴しきり、そこへその玉澤先生襲撃のあらぬ容疑までかけられて精神的に追い込まれている私には、あまりにも強い精神的負荷だ。今私がうつ病などになったら、労災認定の基準をクリアするかも、と考えて、私は、一番大きな精神的負荷となっている玉澤先生が重体であることが、愛する人の重傷という位置づけである以上は私生活上の、業務以外の心理的負荷と評価されることに思い至った。玉澤先生は私の上司であり業務上の人間関係でもあるのだけれど。

2.穂積先生

 午前中の期日を終え、こういうとき、玉澤先生と一緒なら、午後1時30分の弁論準備期日までの間に私はランチデートを求めて来たけれども、玉澤先生がいない今、午後の弁論準備期日の前にいったん事務所に帰るのがふつうの行動に思えた。しかし、私は裁判所を出て弁護士会館に向かった。素太刑事から六条さんとの口裏合わせを疑われることに気乗りしなかったということもあるが、美咲にはもうしゃべってしまった玉澤先生との「2人だけの秘密」をまだ六条さんには話したくなかった。私、何を六条さんにそんなに対抗意識を持ってこだわってるんだろう、と一方で自分にあきれながら、ではあるが。
 弁護士会館のエレベーターで、穂積先生と一緒になった。
「狩野さん、でしたね。玉澤先生のところの」
「ええ、そうです」
「ちょっと、よかったらちょうどお昼時間ですし、ご飯食べませんか」
「喜んで。私は次は午後1時30分の弁論準備期日まで空いてますから」


 穂積先生は、弁護士会館から少し歩いたビルにあるレストランに私を連れて行った。ここにこういうレストランがあるということは私は知らなかった。私が通常利用する価格水準ではないということが、私の裁判所近辺レストラン調査にひっかからなかった主な理由と考えられるが。
「ご心配なく。私がお誘いしたのだし、2年目の勤務弁護士に支払わせたりしませんよ。ここは私の奢りですからご遠慮なく。あ、それから私と狩野さんの間にはもちろんのこと、玉澤先生との間でも相手方になっている事件はまったくありませんから、弁護士職務基本規定上の問題はまったくないことを保証しますよ」
 最後のは、ジョークでもあるのだろう、穂積先生はにっこり笑った。
「では遠慮なく」
 私は、一番安いランチコースをオーダーした。
「玉澤先生のご容態はいかがですか」
 私たちは昨日来、私が業界関係者に会う度に繰り返されるやりとりをした。
「そうですか。早くよくなってくれるといいのですが」
 穂積先生は、自分自身も胸を痛めている様子でつぶやいた。私もまったく同じ気持ちだが、「早く」以前に「よくなってくれる」かどうかの見通しさえつかないことが、今最大の心痛の原因だ。
「あの…22日の夜11時過ぎに玉澤先生が穂積先生に電話をしたようですけど、その時はどういうお話をされたんでしょう」
 穂積先生がする世間話に合わせてしばらく話したあと、私は事件翌日以来ずっと気になっていたことを尋ねた。
「それが、襲撃される前の玉澤先生の最後の会話ということのようですね。警察にそう言われましたよ。狩野さんは、私を疑っていますか」
「穂積先生のお人柄を疑う気持ちはありませんが、現時点ではあらゆる可能性を検討する必要が…」
「新宿署捜査1課の素太さんでしたっけ、その刑事さんと同じことをおっしゃる」
「昨日1日素太さんにこってり絞り上げられましたので、口癖がうつったかも知れません」
「なるほど、でも玉澤先生が聞かれたら、守秘義務の関係上お話しできませんと答えるだろうお話です。私がそう答えたら、狩野さんはどうしますか」
「そう言われると同業者としては、しかたないですね。残念に思いますが」
「ハハハ、警察にはそう言ってぼかしましたけど、狩野さんにはお答えしますよ。固有名詞は避けますが、玉澤先生に私の知人の解雇事件の交渉をお願いしてるんです」
「えっ、穂積先生と玉澤先生は相手方で交渉をしていたとお聞きしていますが」
「その事件はもうずいぶん前に決着しましたよ。それに敵方というか相手方となっているのは私と玉澤先生じゃなくて、私の依頼者の会社と玉澤先生の依頼者の労働者です。私たちの人間関係は良好だと考えていますよ。私は」
「玉澤先生も、穂積先生のことはいい先生だと言っていました」
「労働者側と使用者側に別れていてもね、私にとって玉澤先生のような手強い労働者側の弁護士は、宝でもあるわけですよ」
「宝、ですか」
「私にも個人的な知人は少なからずいます。そういう人が会社から解雇されることもあるし、そういうとき、私が労働事件が専門と知っていますから、相談されるということもあります。でもその場合、私は労働事件では会社側、使用者側なので、労働者側で受けることはできない。ふだん使用者側でも、労働者側も受けるという弁護士も、もちろんいますよ。それは法的にも職業倫理上も、制約はありませんから。でも、うちの事務所はそういう立場は取っていませんし、私もそういうポリシーではない。解雇された知人を任せるのに、だれを選ぶか、ということになったら、玉澤先生なんかは、私から見て頼もしい選択になるというわけです」
「その交渉事件の進捗状況を報告してた、ということですか」
「そうです。もちろん、直接の依頼者は私ではなく、私の知人ですから、玉澤先生も詳しいことは言いませんが、概括的な話はね」
「進捗状況はどうだということでしたでしょう」
「概ね順調のように聞いています。玉澤先生からも、私の知人からも」
「そうですか。私はその件を担当していないのでわかりませんが、それはよかったですね」
「ただ、まだ交渉の決着がついたわけではないし、これから詰めるべき点も残っているのですが、玉澤先生がこうなると、どうしたらいいかは悩ましいですね」
「なるほど、それで玉澤先生がいつ頃復帰できそうかを私に聞きたかったというのが、今日のお誘いの主たる目的というわけですね」
「ありていに言えば、そういうことですね。もちろん、それ以前に、私自身が、依頼している事件と関係なく、玉澤先生の容態を心配して気になっているということもありますが」

3.取調2日目

 午後1時30分の弁論準備期日では、会社側が提出した準備書面が陳述され、次回は原告の労働者側、つまり私たちの反論の順番になる。裁判官は、事情は察しますが狩野先生もついておられるのだしあまり長く待つというわけには行きませんよと公式論を言いつつ、私が必要な期間を言う前から、次回期日候補として2か月以上先の日を挙げた。会社側の弁護士も、やや意外そうな顔はしたが、異論は唱えなかった。
 裁判期日を、ほとんど先延ばしするだけでやり過ごし、私は、いったん事務所に戻って事件記録を置き、すぐ新宿署に向かった。

「さて、昨日は、素直にお話しいただいたと評価していますので、こちらの調査結果を先にお知らせしましょう。警察はふつうは手の内を見せないのですけど」
 素太刑事は、ニヤリとしながらパソコンを開いた。後ろで祟木刑事がやや不満げな顔をしている。
「まず、3月22日午後11時22分から11時30分にかけて、狩野さんが示した経路上の防犯カメラの映像を私と祟木刑事で当たりましたところ、2つの防犯カメラに、顔までは判定できませんが、同じバイクで疾走する女性の姿が映っていました。警察が総力を挙げればもっと見つかるかも知れませんが、当面2つの映像があれば十分だと判断しています。場所と時間の関係は、狩野さんが述べたのときれいに一致します。服装は阿室さんが述べた当日の狩野さんの服装と矛盾はしません。バイクの型式を今日の昼に狩野さんのご自宅の駐車場で確認させていただきましたところ、防犯カメラの映像と一致しました」
「私が下北沢の居酒屋を出た時刻とニコニコビルに着いた時刻も確認できたことになりますか」
「そこまでは確定できませんが、狩野さんがいう時刻が合理的と評価していいでしょうね。私の目では正確な判定は無理ですが、防犯カメラの映像を見ても時速90kmくらいに見えますね。2つの防犯カメラの位置とあなたが映っている時刻の関係から計算するとその2地点間の平均時速はほぼ80km。狩野さんが示した経路の総走行距離は約7.5km、これを6分で走破したとすれば総平均時速でも約75km。ずいぶんと無茶な運転をされましたね」
「すみません。必死でしたので」
「横から何か飛び出してきたり、道路に穴でもあったら、あなた自身が自損事故で死んでますよ。いくら必死でも、自分が死んでは元も子もないし、さらにいえば、そうなったら玉澤さんを助けるというあなたの目的もかなわない。そうは思いませんでしたか」
「どのような批判でも甘んじて受けます。その時はもう後先考えられませんでした」
「まぁ、防犯カメラの映像を見て改めて思ったのですが、この日、道路が空いていてよかったですね。金曜日の午後11時台の都心の道路がこんなに空いてるんですから、アベノミクスで景気が回復したなんて嘘っぱちだということがよくわかりますよ」

「玉澤先生が襲撃された時刻に私が下北沢にいたということが、防犯カメラの映像で確認された以上、私の容疑は晴れたと受け止めていいでしょうか」
「そういうわけにはいかないね。玉澤さんが襲われた時刻について、あんたが119番通報した時刻より前だと考えていたのは、あんたが玉澤さんが襲われたことを確認してから通報したということが前提だ。あんたがニコニコビルに着く前に通報したということなら、実は犯行時刻がいつかは不明になる。あんたがニコニコビルに着いてから犯行が行われたという可能性も否定できない」
 祟木刑事が吠えた。
「玉澤先生が、事務所を出て、そのあと私がつくまで7分あまり、何もない事務所の前で所在なげに佇んでいたとおっしゃるのですか?もし何かを待っているなら、事務所の中で待つと思いますが」
「ニコニコビルを出て外で襲われて、救急隊が来るまでにあんたが事務所前まで運んだのかもしれん」
「祟木刑事、純理論的には可能ですけど、その推理が正しいとすると、狩野さんがふつうに行けば20分くらいかかる下北沢にいるのに、何分で到着するのかは予め予想できない救急隊と競争して自分が先にニコニコビルにたどり着くと確信して通報し、その後、ついた時点でどこにいるかわからない玉澤さんを探し出して殴りつけて昏倒させ、頭から血を流している意識を失った玉澤さんを、背負うか担ぐか抱き上げるかして、それでいて自分の服を血で汚すことなく、エレベーターのないニコニコビルを階段で4階まで上がる、その一連の行動を救急隊が到着する前に成し遂げられると判断したということになりますね。そんな穴だらけの犯行計画を、この有能な弁護士さんが考えるとは、私には思えませんけど」
 素太刑事が、私に助け船を出してくれた。
「でも、狩野さん、犯行時刻をきちんと確定してあなたの容疑を晴らすためにも、そしてあなたが犯人でない場合にのうのうとしている真犯人を捜し出すためにも、私たちに、あなたが握っていてまだ話していない事実を教えてくれませんか」
「そうですね。やっぱり話さないといけませんね」
 私は、玉澤先生にバイタルサインの測定・発信器をつけさせたいきさつと、それで玉澤先生の呼吸停止を知ったことを話し、スマホのアプリを開いた。
 玉澤先生のバイタルサインは、現在、表示されていない。測定・発信器が救急医療の過程で外されているためだ。測定・発信器は、おそらくは病院の預かり品の中で眠っている。玉澤先生と私のホットラインは、今はつながっていない。その事実をスマホの画面で改めて突きつけられ、私はちょっと傷つく。
 私は、データのログを引き出して、事件当日の玉澤先生の呼吸数データを表示し、2人の刑事にそれを見せた。
「11時22分48秒から11時30分20秒まで呼吸が停止しています。呼吸停止時間は、正確には7分32秒間です。救急隊に聞かれて、さすがに7分32秒と答えたら不審に思われるので7~8分くらいと答えました。その間、心臓は止まっていません」
「お宅の事務所では、事務員は監視カメラで玉澤さんを監視してる、勤務弁護士、愛人かも知れんが、そのあんたはバイタルサインの測定・発信器で玉澤さんを監視してる、なんていう事務所なんだ。玉澤さんは、2人の女に見張られて果報者なんだか可哀想なんだか」
「祟木さん、容疑が晴れた人を侮辱するのはやめましょう。私たちにはそれを非難する権限はないですよ」
「素太さん、容疑が晴れたと認めていただきありがとうございます」
「なるほど、バイタルサインの測定・発信器ですか。それは気がつきませんでした。狩野さんの話を聞いて、まず思い浮かんだのは、狩野さんが六条さん同様に事務所の前に監視カメラを仕掛けたのかということでした。今日の朝、事務所の前に行って、調べましたが、監視カメラは見つかりませんでした」
「事務所の前に監視カメラをつけるのなら、見てすぐわかるようにつけます」
「そうですね。まぁ行く前から違うだろうなとは思ったんですが」
「それは何故?」
「狩野さんの通報が、現場を『見た』というのとはちょっと違うように感じたからです」
 素太刑事は、私の前でもう何度目になるかわからない119番通報の再生をした。

「はい、こちら119番。火事ですか?救急ですか?」
「救急です!59歳の男性が呼吸停止状態で倒れています。場所は、新宿区大久保4丁目15番3号ニコニコビル4階。玉澤達也法律事務所の前です。心臓は動いています」

「ここです。狩野さんは、最初に呼吸停止を言っています。しかも頭部の出血にはまったく触れていない。監視カメラで見たのであれば、まず出てくるのは頭から血を流していることでしょう。そして監視カメラでは、呼吸を停止していることも、ましてやそれでありながら心臓は動いていることも読み取れない。それで監視カメラ説は捨てました。見に行ったのはダメ押しの確認のためです」
「なるほど。事実確認は慎重にされるのですね」
「ええ、捜査の鉄則です。ところで、狩野さんが、発信器の位置情報で玉澤さんが倒れている場所が事務所の前と自信を持って判断できたのは何故ですか。GPSの画像ではせいぜいニコニコビルの中というレベルしか判断できないと思いますが」
「地図画像はそれ以上判別できませんが、位置情報は緯度経度の数値でも示されています。今どきのGPSの位置情報はすごく細かい数字まで出ます。その数字で事務所のドアの前とピンポイントで判断しました」
「その数字を記憶していたと?」
「ええ、たわいもないことですが、玉澤先生が外出から帰ってくるとき、数値の動きを見ていて、ドアを開ける直前の数字を見てると、あ、今帰ってくるとわかって自分がテンション上がりますし、それを知らせると六条さんが驚くのが密かな楽しみでもありましたので。玉澤先生が机についているときと、事務所の前に立ったときの数字は、頭に入っていました」

4.自首

「玉澤先生襲撃犯の汚名が晴れて、私は満足です。では、神妙にお縄を頂戴します」
 私は、机の上に両腕を出し手首を合わせた。
「何のことですか」
「私は玉澤先生には何ら危害を加えていませんが、お酒をたらふく飲んだ上、バイクで制限時速を25km以上、たぶん40km程度はオーバーして、赤信号も無視して危険運転をしました。逮捕されても文句は言えないレベルの道交法違反です。現行犯ではありませんが、防犯カメラ映像でそれが確認されているのですから、本日は、覚悟して下着の替えも持ってきました」
 私は、持参したショルダーバッグを指さした。
「狩野さん、私たち捜査1課の刑事は道交法違反には関心がありません」
「おいおい。私たちって、俺は…」
「祟木さんも、交通違反なんて関係ねぇと、昨日おっしゃったはずですけど」

 素太刑事は、またしても119番通報を再生した。
「はい、こちら119番。火事ですか?救急ですか?」
「救急です!59歳の男性が呼吸停止状態で倒れています。場所は、新宿区大久保4丁目15番3号ニコニコビル4階。玉澤達也法律事務所の前です。心臓は動いています。すぐに来てください…玉澤先生が、死んじゃう!お願いです。早く来て。玉澤先生を助けて!」
「すぐ救急車を派遣しますから、落ち着いてください。あなたのお名前と電話番号は?」
「狩野麻綾です。電話番号は……。お願いだから、急がないと、玉澤先生が死んじゃうよ~っ、やだやだっ、助けて!」

「好きな男が死にかけているのを知って、目の前にバイクがある。その時すでに酒を飲んでるからというだけで、諦められますか?そんなのを検挙するんじゃ、警察の名が廃るとは思いませんか。事故でも起こしてれば、そうも行きませんが」
「いいんですか」
「狩野さん、誤解されると困りますが、私たちには、交通課が検挙するというのを止める権限はない。ただ、私たちはわざわざ交通課にこのことを教えてやる必要はないと考えただけです。もし交通課がたまたまこの防犯カメラ映像を見つけたときは、私たちは何もできませんから、そのときは諦めてください」
「ありがとうございます」

5.急転

「ところで、真犯人検挙のために、もう一つ教えて欲しいことがあります。例の凶器と判定されたミニ三脚のことです。これには狩野さんの指紋だけが検出されています。狩野さんに犯行が不可能な以上、このミニ三脚はもともと狩野さんのものですから、狩野さんの指紋がついていても、それは犯行以前の別の機会についたものと判断しますが、このミニ三脚はいつまでどこにあったのでしょう」
「私の記憶している限りでは、事件の1週間前の3月15日には事務所に持ってきていました。その日は私の誕生日で、そのミニ三脚を使って午後3時頃に写真を撮ったんです。そのあと、たぶん、事務所の受付カウンターのあたりに置いて、そのまま忘れて帰ったんだと思います。その日はミニ三脚のことは思い出しませんでした。週が明けて、月曜日も特にそのことは思い出さなかったんですが、いつでしたかねぇ、しばらくしてそう言えばないなぁと気にはなったんですが…」
「3月15日の午後3時以降に、事務所内で紛失した、と聞いていいでしょうか」
「そういうことになります」
「あなたの記憶でこのミニ三脚を最後に触った人は?」
「六条さんです。私がミニ三脚にデジカメをセットしてセルフタイマーで3人の写真を撮ったあと、六条さんが三脚からデジカメを外してデジカメで私と玉澤先生のアップの写真を撮ってくれました。昨日お見せした写真です」
「その時六条さんはミニ三脚のどこを持ったか記憶していますか」
「カメラを取り付ける台の部分のネジを外して、脚の外側部分を持って伸縮部分をカウンターに押しつけて収納していましたから、取り付け台とネジ、脚の外側部分には触っていると思います」
「六条さんはその時手袋とかしていませんよね」
「していませんでした」
「では、脚の外側部分に六条さんの指紋が検出されないのはどうしてでしょうね」
「私にはわかりません。私の指紋はどこについていたのですか」
「脚の伸縮部分、畳むと中に入ってしまう部分ですね」
「脚の外側部分、畳んでもそのまま残る部分には私の指紋は検出されなかったのでしょうか」
「はい、脚の外側部分からはだれの指紋も検出されていません」
「3月15日も、私は脚の外側部分を素手で握っていますから、私の指紋は検出されるはずですが」
「そうすると、何者かが脚の外側部分の指紋を拭き取るか洗浄して指紋を消した、しかし畳んで中に入っている伸縮部分はそのままにしたので狩野さんの指紋だけが検出された、ということでしょうか」
 私は、この話の行き着く先を思い、胃が痛くなった。
「犯人は、自分の指紋が脚の外側部分についていることを意識して指紋を拭い、犯行時は手袋をして伸縮式の脚を少し伸ばしてそこを握り、玉澤さんに殴りかかったと推測されますね。ミニ三脚は事務所内で紛失したということですから内部犯行の可能性が高い。そして、玉澤さんが事務所を出たタイミングで襲うことが最も容易な人がいる。玉澤さんを監視している、もう一人の人物…」
「六条さんはそんなことしません」
「どうしてそう言えるんですか?」
「どうしてって、それは…」
 私自身が、すでに自信を失っていた。六条さんが犯人だとしたら、それはあまりにも悲しすぎる。しかし、素太刑事が挙げる根拠を、私は否定することができなかった。

第14章 疑惑 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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