第11章 私には夢がある

1.勝訴判決

「弁護士の狩野麻綾です。本日午後1時10分言渡の原告上見の事件の判決正本を受け取りに参りました」
 労働事件を含めて民事事件の判決は、たいていの弁護士は、法廷で聞くのではなく、書記官室で判決書を受け取って読む。刑事事件とは違って、当事者の出廷は要請もされず、裁判官も判決の内容を読み聞かせない。多くの裁判官は、午後の開廷時刻に判決言渡を集中し、ほとんどの事件で当事者の出席もないまま、法廷で「主文」だけが読み上げられる。
 判決は、裁判所に保管する裁判官が署名押印したものが原本、当事者に渡される判決原本のコピーかあるいは裁判官の名前を活字印刷して押印もないものに書記官が認証して押印したものが正本と呼ばれる。判決を法廷で聞いても、判決正本を受け取らないと勝敗以外の内容、どういう理由で勝ったのか、負けたのか、主張のどこまでが認められたのかはわからない。そしてほとんどの場合、法廷では判決正本は受け取れない。判決正本は書記官室で手渡される。判決正本を受け取りに行かなければ、後日裁判所から郵送されてくる。上訴の期限は、判決を法廷で聞いたときでもその時からではなく、判決正本が渡された時からカウントされる。そこで、その期間を稼ぐために、法廷で判決主文を聞き、あるいは電話で書記官に主文を教えてもらった上で、あえて判決正本は取りに行かないという選択をする者もいる。
 私は、書記官が持ってきた送達報告書に受取の署名押印をして、上見さんの事件の判決正本を受け取った。まずは主文を確認する。「原告が、被告に対し、労働者としての権利を有する地位にあることを確認する。」解雇を争う「地位確認等請求訴訟」の労働者勝訴の判決の第1項は、通常この主文だ。続いて、被告に解雇時点から判決確定までの間の賃金の支払を命じる主文が続き、労働者側の全部勝訴なら、その次に「訴訟費用は被告の負担とする」という主文があって、通常は主文はそこまでである。労働者側が一部敗訴していると、例えば請求した賃金の一部が認められないと、訴訟費用の前に、「原告のその余の請求を棄却する」という主文が入ることになる。

 全部勝訴を確認した上で、判決理由を読む。実質的な判決理由は、「当裁判所の判断」の項目で始まる。玉澤先生が数段階用意した論の第1の社名報道もなく使用者の信用を害しておらず業務にも影響を与えていない私生活上の犯罪であるからそもそも使用者の懲戒権の対象ではないという主張が採用されていた。
「玉澤先生、狩野です。上見さんの判決、全部勝訴です。判決理由は第1の論で通りました」
 私は労働部の前の廊下から玉澤先生に電話した。
「ありがとう。でも裁判官、思い切ったね」
「先生が説得して書かせたんじゃないですか」
「でも、第1の論で行くと、私生活上の盗撮で逮捕された労働者を、使用者は懲戒解雇できないだけじゃなくて、停職にもできないし、始末書を出させる譴責処分さえできないということになる。ちょっと勝ちすぎかも」
「勝ちは勝ち。勝ちすぎなんてことはないんじゃないですか」
「問題は東京高裁だ。会社側は控訴するだろう。東京地裁には労働部があって解雇事件はすべて労働部が担当する。労働部の裁判官は全員、労働事件の感覚を共有している。しかし、東京高裁には労働部はない。労働事件の感覚がない裁判官も相当数いるし、傾向としては地裁よりも、秩序を乱す者、こういう犯罪を犯した者への目線が厳しくなる。確かに私の注文通りの判決だが、高裁では裁判官に目を付けられやすい論理になるな」
「じゃあ、最初から同様の盗撮男との処分の均衡の観点で相当性を欠くで勝った方がよかったですか」
「いや、そんなことないよ。よりよい論で勝てた方がいい。高裁で覆されないように頑張ろう」

2.賃金仮払い仮処分

「預金は数十万円しかありません。就労期間が短いため、失業手当も受けられません。裁判の間どうしたらいいんでしょう」
 宮浪さんは、以前の会社で長時間労働やパワハラのために体を壊して療養していたが、今年の初めに奮起して再就職した。しかし、体調が十分でないために月に数日病欠し、やはり体調がすぐれないために遅刻することもあって、5か月目で勤務状況不良を理由に解雇された。雇用保険は、解雇の場合で過去1年間に6か月就労していないと受給できないため、宮浪さんは失業手当を受給できないことになる。療養生活の過程で過去の預金を食い潰して残りは数十万円だという。
「賃金仮払い仮処分を申し立てましょう。解雇を争って復職を目指すのなら、生活費が足りない以上、そうするしかない」
「何ですか。それは?」
「本裁判をする間、使用者から支払を受けないと生活できない状態の人に対して使用者に賃金をとりあえず払えと命じる手続です」
「どれくらいの期間で出るのですか」
「東京地裁労働部の場合、概ね2週間間隔で審尋という書記官室でやる弁論準備みたいな期日を入れて、だいたい3か月をめどに決定されるのがふつうです」
 玉澤先生の説明を受けて、宮浪さんはすがるような目で質問を続ける。
「費用は、どうなりますか」
「預貯金が数十万円なら、弁護士費用は法テラスを利用して、着手金は『実費』という名目で出される費用と合わせて20万円弱程度で、それを月7000円とか1万円ずつ法テラスに分割払いになる。裁判所に納める実費は数千円だし、実費名目の費用の範囲でまかなわれるから別に出す必要はない。仮払いの決定が出たら、報酬金は現実に仮払いされた賃金から10.8%をもらうことになる」
「とりあえずは、月1万円程度でいいということですか」
 宮浪さんの顔が明るくなる。
「私の場合、仮処分は出そうですか」
「仮処分の要件は、被保全権利と保全の必要性と2つあります。被保全権利というのは、要するに本裁判で言えば勝訴できること。仮処分は本裁判と違って証人調べはしないのがふつうですので、比較的短期間の主張のやりとりと書証、つまり証拠書類だけで、とりあえず解雇が無効の心証が取れることが要件と言ってよいでしょう。証拠書類だけといっても、本人の陳述書も証拠書類になります。証人調べをしない分、証人になるはずの人の陳述書を作って出すということです。宮浪さんの場合、お話を聞いている限り、欠勤も遅刻もすべて病気のためでずる休みをしているのではないということですから、裁判官がそういうふうに認定してくれれば、5か月で20日程度の欠勤では解雇無効という評価になると思います」
「ありがとうございます。もう1つの保全の必要性ってどういうことでしょうか」
「仮払いを受けないと生活できないということです。こちらは預貯金の通帳や、月々の生活費が何にいくらかかっているということ、それを裏付ける領収書等などを出して、実質的な生活費の額を証明する必要があります。この保全の必要性の証明が、東京地裁では以前からうるさかったのですが、最近は特にうるさくなっています」
「そういう資料を裁判所に出すのですか」
「そうです。裁判所だけじゃなくて会社にも同じものを出します」
「会社に私生活が丸見えになってしまうわけですね」
「そこまでやる必要があるのかと、私は常々思っています。これをどんどん厳しくしている近年の東京地裁労働部の姿勢は、民事保全法という法律の規定があるからそれに即しているという考えなのでしょうけれど、私には賃金仮払い仮処分は申し立てて欲しくないと考えているんじゃないかと思えてしまいます」
「背に腹は代えられないでしょうね。会社に預金通帳や生活費の領収証を見られるのは気持ち悪いですが、そうしないと仮払いを受けられないのなら、しかたありません」
 宮浪さんは、玉澤先生と私に、まずは賃金仮払い仮処分を依頼することにして、次の打ち合わせのアポを入れて帰って行った。

「預金通帳って、メーカーの直接の通販とかあったら買った物がわかるようなときもありますよね。そういうの会社に渡すの抵抗あるでしょうね」
「裁判所は昨今、個人情報保護にはうるさいはずなんだが。会社が元従業員に横領の疑いをかけて損害賠償請求してきたケースがあった。零細企業の経理担当者で、社長が会社に貸したことになっている金を社長に言われて会社の口座から引き出して、社長に渡していたわけだ。ところがその社長が自分は受け取っていないと主張して、会社が裁判を起こした。損害賠償請求だから労働部じゃなくて一般部にかかったんだが、社長の預金口座の履歴を出せと言っても社長が拒否するので裁判所に銀行に対する調査嘱託を申し立てた。裁判官は、無条件には認められないと言って、会社の口座からの引き出し日から一定期間内で一定金額以上の取引に限定して認めた。横領だと言って裁判を起こした社長の口座にはそこまで神経を使うのに、解雇されて生活できない労働者の口座は無条件で会社に開示させるんだ」
「憤懣やるかたないって感じですね。でも文句言っても裁判所が変わるわけでなし、仮処分ですからすぐ作業に入りますか」
 玉澤先生の興奮を軽く受け流しつつ、私は、弱い者のために熱っぽく語る玉澤先生の表情を好ましく見つめていた。春先まで、玉澤先生を見つめる私は、胸がドキドキし、キュンとなることが多かった。夏を越え、私は、玉澤先生を堂々と見つめ、ほわんと温かいものを感じるようになってきている。
「そうだな。法テラスの援助申込書と、さっき聞いた話をベースにした宮浪さんの陳述書の起案から始めてくれ。よろしく」
「ラジャー」
 玉澤先生を見つめていて、玉澤先生と目が合ったときも、慌てて視線を背けることもなく、落ち着いて微笑むことができる。六条さんのように、そこでウィンクするようなサービスは、まだとてもできないけれど。

3.おやつ休憩の挑発

「今日は、イチジクのコンポートが載ったタルト見つけたの。たまピ~、こういうのきっと好きだと思って」
「あぁ、おいしそうだね」
 今日も六条さんは、玉澤先生の好みを熟知した強みを活かし、甘やかな声と心遣いで玉澤先生の心を掴んでいる。
「狩野さんには、木イチゴのタルトを見つけたの」
 すねた顔で六条さんを見つめていた私に、六条さんは決め球を投げて私の心をくすぐる。
「わぁ、おいしそうですね。ところで、玉澤先生、先生が尊敬する人物って誰ですか」
 私は、機嫌を直しつつ、自分がついていけない話題に持ち込まれないよう、今日は機先を制した。
「そうだなぁ。やっぱり、ガンディーかな」
「それは、弁護士として、ですか?政治運動家として、ですか?」
「弁護士だということが親近感を持つベースになっているけど、差別されている人への温かい視線を持ちつつ、民衆のために、民衆とともに闘うことを追求し実践していった姿に感動を覚えるね」
「非暴力・不服従運動に共感するということですか」
「よく言われるような、非暴力・不服従の理念ではなくて、高い志を持ちつつ現実を見据えて周到に闘いを用意していったところこそが素晴らしいと思うんだ」
「高い理想を掲げて突き進んだということではなく?」
「ガンディーは、南アフリカ時代には、ボーア戦争、今は南アフリカ戦争っていうのかな、それとか第1次世界大戦でイギリスに戦争協力している。そのことがイギリス政府のガンディーに対する評価に影響があったと考えるべきだろう。ガンディー自身は非暴力・不服従運動を始めたあとも過去の戦争協力について特段の総括をしていない。ガンディーは自分を一貫してるとか正しい理論を行ってきたとか言って過去を正当化するつもりもないようだ。そんなことに精力を注ぐより今の現実に向き合って実践的に闘うことを志向していたのだと思う。私は、むしろ、そういう実務的な姿勢を立派だと思うんだ。多くのガンディーファンは、非暴力・不服従という思想や理念が大事だと思っているけど、非暴力・不服従と主張するだけで何かが実現できるわけじゃない」
「なるほど、弁護士の仕事にも通じるところがありますね」
 ふふふ、こういう展開だと、六条さんはまったくついて来れない。六条さんは、そっと食べ終わったケーキのお皿や紅茶のカップを流しに持ち去った。
「キング牧師だって同じだよ。考えなしにただ非暴力・不服従を説いて民衆を無意味に警察隊の暴力に曝したわけじゃない。予め、どこでどのタイミングで警察隊に暴力を受け逮捕されればメディアがどう報道し、それを受けてアメリカ政府がどう動くかを周到にシミュレーションして運動を計画してたんだ。そういう実務的な配慮こそが闘いを勝利に導いたと思う」
「先生は、キング牧師の説教でどれが好きですか」
「好きというのか、白人至上主義者団体に教会が爆破されて4人の罪もない黒人少女が殺害されたその告別式で、キングは報復したいという願望を抱いてはならない、白人の兄弟に対する信頼を失ってはならない、判断を誤った白人たちもいつかきっとあらゆる人間が持つ尊厳や価値を知ることができるようになると切々と訴えた。キング自身だって、悔しさと怒りに狂おしく思ってるはずだ。そういう場面で、非暴力を説く運動的・実務的な抑制心と気高い信念には感服したし、その時のキング牧師の心情を思うと泣けてくる」
 私は、それを語る玉澤先生の溢れる思いを、しみじみといいなぁと思うのですが…
「キング牧師の説教集があったと思うけど」
 六条さんが本棚の前に椅子を滑らせて、最上段の本を取ろうと素早く椅子に乗り、背伸びした。

「あぁ、そんなところにあったかな。慌てなくていいよ」
「きゃあ!」
 玉澤先生が立ち上がって近寄ったところで、六条さんが悲鳴を上げて玉澤先生に倒れかかる。玉澤先生は六条さんを抱き留めつつそのまま仰向けに押し倒された。
「先生、大丈夫ですか?頭打ちませんでしたか?」
 危ないっと思った時には、体が硬直して動かず、手を差し伸べることができなかった私は、2人が倒れ込んだ後になって、ようやく声をかけた。
「みっちゃん、大丈夫か」
 玉澤先生の声は、六条さんの胸に口を塞がれてくぐもっていた。
 倒れ込むとき、六条さんは、左手で玉澤先生の後頭部をしっかり包み込むようにホールドして玉澤先生の顔を自分の胸に押しつけ、右手をついてからゆっくりと右肘を曲げて前腕部を床に当てて衝撃を和らげて着地していた。それから、六条さんは私の方に向けて笑みを投げ、そのあとたっぷりと、私には1分間以上にも感じられるほど、玉澤先生を抱きしめるように玉澤先生の上にのしかかっていた。
 もし私がマネをしたら、プロレス技のダイビング・ボディアタックのようになってしまいそうだ。練習を重ねれば、伝説のプロレスラー「ミル・マスカラス」のように美しく跳べるようになるかも知れないが、後ろ向きに倒れる玉澤先生の後頭部や首、背中を守って優雅に着地する自信はない。六条さんは、どうしてこんなことを軽々と成し遂げることができるのだろう。
「う~ん、大丈夫、痛いところはないわ。でもビックリした。たまピ~、私を抱き留めてくれてありがとう。おかげで怪我をせずにすんだわ」
「いや、驚いたよ。みっちゃんが怪我しなくてよかった」
 六条さんが、玉澤先生の後頭部から左手を外すと、六条さんの胸から解放された玉澤先生はちょっと頬を赤らめながら、つぶやいた。
「たまピ~は大丈夫?」
「いや、どこも痛くないよ」
 玉澤先生が怪我をしないように両手で守ったことは評価するけど、完全な故意犯だ。六条さんがこうして玉澤先生を誘惑するのなら、あるいは私を挑発するのなら、私も黙ってはいられない。しかし、私には、こういうやり方は、プライドにかけてもできないし、やっても似合わない。私は…そう、私の道を行かねば。

4.マル秘作戦

 ♪♪♪…自宅に戻って寝ようとしていた私に、美咲から電話がかかってきた。
 美咲とは、先月末の高原でのバカンスの後、予定が合わず、会えないでいる。
「麻綾、膝小僧を抱えて独り寝してるか~い」
「美咲、酔ってるね」
「まだそんなに飲んでないよう」
「私にとって、独り寝の時間は、好きな人を思うゴージャスな時間なのよ」
「おう、開き直ったな」
「最近、本当にそう思うようになったの」
「お持ち帰りしたいんじゃなかったっけ」
「そこはね、実際にお持ち帰りしちゃったら、その後どうすればいいのか悩ましい」
「悩める乙女よ、皮算用は捕ってからしなさいな。そろそろ実行に移そうよ、私のハートを掴んで離さない作戦」
「美咲に任せたら、ハートを握りつぶしそうだわ」
「麻綾に任せてたら、百年河清を待たされそうだよ」
「フフフッ、美咲、私も考えていることがあるの」
「何かいい作戦が?」
「そうね。I have a dream 私には夢がある作戦ってどう?」
「聞きたい、聞きたい。麻綾、これから麻綾のうちに行っていい?」
「しかたないなぁ。酔い潰れないで気をつけてくるんだよ」
 私は、幼い日に読んだ「トム・ソーヤー」や「やかまし村」の世界を思い起こしつつ、親友とたわいない悪巧みを語れる喜びを思い胸をわくわくさせていた。

第12章 麻綾の冒険に続く



 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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