控訴理由書

 自分が言いたいことを全て書き連ねた控訴理由書は、いい控訴理由書でしょうか?

控訴理由書を書く基本姿勢

 上告と異なり、控訴理由は、法律上何ら規定されていません。ですから、理論上は何でもいいのですが、控訴理由書は、まず何よりも、裁判官に対して原判決を変更すべきことを説得する文書なのですから、原判決のどこに誤りがあるのかを論じないと、実務的には意味がありません。
 東京高裁で約6年裁判長(部総括)を務めた加藤新太郎さんが、現役の東京高裁第22民事部の裁判長時代に、控訴理由書について、次のように述べています。
 「当事者としても、控訴理由で、どこを突くかを明確にすることが求められますが、そこがきちんとされれば、普通は裁判官も見落とすことはないだろうと思います。ところが、現実には、控訴理由書において、1審判決のどこを突けば結論が変わるかをあまり考えず、最終準備書面をコピー・アンド・ペーストしたようなもの、1審と同じく総花的主張を繰り返すものが少なくありません。肝心な的を射た主張が一つでもされていれば、見直し方向に効くのですが、総花的主張をして、それを埋没させてしまうのは控訴理由書としては避けたいところです。1審判決の内在的な論理をきちんと理解して、どこを突けば結論が変わるかを見て、証拠弁論的な弁論を展開して控訴理由に組み立てることが必要なのです。それが説得的であれば、被控訴人も反論しにくいし、裁判所も『この点は、どうですか』と、相手方に尋ねやすい。昔ながらのやり方ではなく、争点中心審理に変わったわけですから相応する控訴理由の書き方をすべきであると思います。」(実務民事訴訟法講座[第3期]第6巻:上訴・再審・少額訴訟と国際民事訴訟10~11ページ)
 証拠弁論(提出済みの書証に基づき、それを評価して、どのような事実が認定されるかを論証する)的な主張(原判決の法解釈について誤りを指摘せず、さらにいえば控訴審で新たに有力な証拠も提出しないで原審の証拠だけで「証拠弁論」にとどめた場合)で関心を持ってくれるケースがどれだけあるかはちょっと疑問に思いますが、原判決の論理構造を把握した上でどこを突けば結論が変わるかを考えそこを前に出すべきという指摘は、肝に銘じておきたいところです。
 「ジュリスト」の座談会(「裁判官に聴く訴訟実務のバイタルポイント15 控訴審」)で、大段亨裁判官(座談会当時東京高裁第10民事部部総括、民事長官代行)は、「非常に長大な控訴理由書が提出されることがあります。」「裁判官に対して不服の点を明確にするためには、適切な長さがあるはずであり、あまりに長大だと不服の点が曖昧になりますし、効果としてもいかがかと思われます。やはり、原判決の事実認定や法的判断の問題点を、請求の当否との関係で、簡潔に指摘するものが望ましいと思います。」(1審の)「最終準備書面のような控訴理由書は要らないと思います。」と述べています(「ジュリスト」2019年3月号49ページ)。中西茂裁判官(座談会当時東京高裁第21民事部部総括)も、「基本的に控訴理由書ですから、1審判決のここが誤りであると指摘すればいいのです。裁判官も原審の判決を読んで、ここはどうかとか、少し論理展開がおかしいけれども大丈夫かなどと思うことがあります。そこを鋭く控訴理由書で指摘してあると、やはり指摘されているなとか、原判決より控訴理由書に書いてある論理展開のほうが優れているなと思ったりもします。それが良い控訴理由書です。一報、我々裁判官が原審の判決を見て、ここはおかしいと思うのに控訴理由書ではほとんど触れていなくて、こちらは全く大丈夫だと思っているところを集中的に触れていると、この控訴理由書は何だろうということになります。」と述べています(同50ページ)。

事実認定を覆す控訴理由書

 一審判決の事実認定を覆すのは簡単ではありません。裁判官によってものの見方が変わるということはないわけではありませんが、裁判官が事実認定をするときの判断というか思考パターンはわりと常識的なもの(基本は、このような事実があるとき、ふつうはどうか、ふつうはどういう行動をするかという発想)で、たいていは同じ証拠と同じ主張(同じ事実主張)の下ではやはり上級審の裁判官も同じ心証を持つと考えられます。事実認定を覆すためには、何か一審ではなかった新たな要素が必要だと思います。
 私が一審判決の事実認定を覆した事例を用いて、一審判決の事実認定を覆すためには何が必要かについて、私が考えていることを説明します。

アナザーストーリーの提示

 2016年6月24日に控訴審判決をもらった事件では、原告が数十年前に幼児に暴力をふるったかが争点でした。ふつう、数十年前のことは(相続事件とかでなければ)問題にならないのですが、このケースでは別の裁判で被告が、原告が数十年前に当時2歳の被告の子に金属製の玩具を投げつけて目に大けがをさせたと主張し、それに対して原告が名誉棄損だということで損害賠償請求訴訟を起こしたので、そんな数十年前のことが本当にあったのかが争点となったのです。
 一審は本人訴訟で、被告は、家に帰ってきたら泣き声がするので見たら、2歳の息子が土間で泣いていて、目の上から血を流していて、足元に金属製の玩具が落ちていた、居間に原告と母親が座っており、母親に聞いたら原告が子どもが汚れた足で上がろうとしたのを止めたんだと言った、原告と被告は普段から仲が悪く口を利かない関係だったのでその場では何も聞かなかった、夕食のときに「なんだ」と聞いたが無視された、けがには塗り薬を塗るだけで医者には連れて行かなかったということを法廷での尋問で述べ、それをもって原告が居間に転がっていた金属製の玩具を投げつけてけがをさせたのだと主張しました。原告は、単に事実無根だと主張するだけでした。判決は、被告の主張(原告が金属製の玩具を子供に投げつけてけがをさせたこと)は真実だと認定しました。
 裁判というのは、相対的なもので、被告側の証拠が強くなくても、原告側には何一つ証拠がなく主張もただやってないというだけでは、被告の主張が通るということも十分にあり得ます。もともと「事実がない」ということの証明は「悪魔の証明」と言われるように難しい性格のものですし、やっていない、つまり特別のことがなかった原告にとって、「その日」(いつかは具体的に特定されていませんが)の記憶があるはずもなく、しかもそれが数十年前だというのですから、「事実無根だ」という以上の主張ができないのは無理のないことなのですが。
 さて、控訴審でこの事件を受けて、どうつぶせばいいのかは、悩ましいところです。原告の立場からは、被告の証言自体嘘だということなのですが、ただ嘘だと言ってみても裁判官を説得するのは難しいです。むしろ、直接見たというのではなく、間接的な事実しか証言していないところは、少なくとも被告が鉄面皮のうそつきで何もないところから嘘の話を作っているのではない印象を持たれがちです(何もないところから話を作るなら、いっそ自分が直接見たことにした方が有利と一般人は考えるでしょう)。
 私は、被告の法廷供述の信用性は疑わしいけれど、仮に被告の証言がそのとおりとしても、それが原告が金属製の玩具を投げつけたことを意味するものではないという論を立てました。被告は、別の裁判では、「目に大けがをさせた」と主張し、この裁判でも本人尋問では血が流れているのを見たと述べていますが、この(名誉棄損の)裁判での答弁書では「目の上が腫れていた」と主張していました。けがをさせたというのが真実かどうかが争点の裁判の答弁書でその「けが」の程度についての答弁をする際に弁護士(被告には弁護士がついていました)は細心の注意を払って聞き取りをするはずです。そのときに目が腫れていたと答えた以上はそれが正しい記憶なのだろうということを足がかりにしました。そうすると、幼児が汚れた足で土間から居間に上がろうとしたので原告が上がるなと大声で𠮟責し、それで驚いた2歳の子供が転んで上がり框や敷居に額をぶつけたかその際に自分で持っていた金属製の玩具が目の上に当たって、目の上が腫れて泣き出したというのが真実ではないか。金属製の玩具は大人二人(原告と母親)が座っていた居間に原告の手近にたまたま転がっていたと認定するよりは、その家の唯一の子どもである被告の息子が手に持って遊んでいたと認定する方がよほど常識的だろう。子どもが当時言葉を話せたらどうしたかを聞いたはずなのに子どもからいきさつを聞いたという話が出ないのはおかしいし、子どもがまだ言葉を話せないなら、幼児が自分の見ていないところで目に金属の玩具を投げつけられて血を流しているのに医者に連れて行かない親がいるか、ただ転んだだけとわかっていたなどの安心材料がなければ医者に連れて行くだろう。そういう組み立てで控訴理由書を書きました。
 控訴審判決は、訴訟上の言論の自由は最大限尊重されるべきだから、真実でなくても裁判の争点と関連する限りは不法行為にはならないという法律論部分で控訴を棄却しましたが、事実認定としては、被告の主張は真実とは認められないと判断し、原判決の認定を覆しました。この事案では、新たな証拠は何もありませんでしたが、原審での証拠から認定すべきより合理的な事実(アナザーストーリー)を説得力を持って提示できたことが原判決の事実認定を覆すポイントになったと思います。

持ち腐れていた証拠の発見

 2016年9月1日に控訴審判決をもらった事件では、動産(家宝)の生前贈与があったかどうかが争点でした。亡き祖父の相続人である原告が他の相続人である叔父と叔母に対して遺産分割の調停を申し立てたところ、遺産であるはずの家宝について叔父が遺産ではないと主張したために、遺産であることの確認請求の訴訟となりました。
 祖父と祖母は叔母と同居し、原告と叔父は祖父らとは離れて暮らしていました。祖父が先に亡くなり、その後しばらくして祖母も亡くなっています。
 一審は別の弁護士がついて行われ、裁判では、叔父(被告)から、問題の家宝は祖父が生きているうちに贈与を受けたという主張がなされ、叔父は陳述書で日付まで特定して、祖父がその家宝が保管されていたトランクを押し入れから出してきて説明をして、あげる(贈与する)から持って行けと言うので、その日のうちに自宅に車で持ち帰ったと書き、法廷での尋問でも同じように述べ、叔母の夫の陳述書でもそれを支持する抽象的な話が書かれていました。ほかにもいくつか間接的な事実はありましたが、一審判決は、叔父が祖父の生前に家宝を自宅に持ち帰ったという事実を重要な根拠として、生前贈与があったと認定しました。
 裁判官は、陳述書や証言の信用性を判断する際、客観的な事実(当事者が裁判で争っていない事実や、信用性の高い証拠で認定される事実)に合致しているかということのほかに、詳しく細部にわたって述べているかということに注目します。この叔父の陳述書や法廷供述を読んで、その具体的な細部が再現されていること、リアルさなどから、私は、裁判官がこの供述を信用するのも無理はないと思いました。実に死人に口なしで、こういうことを平気で話せる人がいるのだと感心しました。
 控訴審で事件を受けて、事件記録を読んでいると、一審で祖母の日記のうち2ページ分だけが原告から証拠提出されていました。家宝の入ったトランクの持ち帰りとは別の間接的な事実に対する反証として出されていたのですが、私は原告に、祖母の日記はこれだけなの?と聞き、他にも何冊かあるというので、それ全部持ってきてとリクエストしました。持ってきてもらった日記を子細に読むと、叔父がトランクに入った家宝を持ち帰ったと主張している日よりも1年も後の祖父の死後の日付で、叔父が車でやってきて、家宝の入ったトランクに風通しをしてくれたという趣旨の記載が見つかりました。それに力を得て原審で出されたほかの証拠を検討すると、やはり祖母がさらに後の時期に書いたメモの中に「2階にある支那鞄」という記載を見つけました。叔父が持ち帰ったというトランクの写真は、そのトランクが昔の人(高齢者)に「支那鞄」と呼ばれるタイプのものであることを示していました。家宝が入ったトランクは、祖父の死後も1年以上、祖母の家(亡くなった祖父の家)で眠っていたのです。
 祖母の日記を追加して控訴審で証拠提出し、控訴理由書、さらには相手方が出してきた答弁書への反論の準備書面などで、叔父が実際に家宝を持ち帰ったのは祖父の死後であることが明らかであること、叔父のリアルな証言がいかに噓八百かを論じました。ほかの間接的な事実に関しても、祖母の日記などを根拠に丁寧につぶしていきました。
 控訴審は、1回結審で裁判所から和解勧告もなく、ちょっと不安でした(あんなに説得力のある控訴理由書等を書いたのに…)が、逆転勝訴で、生前贈与があったとは認められないと判断し、原判決を取り消して、家宝が遺産に属すると(差し戻しではなく)自判しました。
 このケースでは、すでに亡くなった祖母の日記という信用性の高い証拠から被告のリアルな証言と決定的に矛盾する事実を拾い出せたこと、被告の証言がなまじリアルだっただけにそれが嘘とわかったとき裁判官が被告に決定的な不信感を抱いたであろうことが、一審判決の事実認定を覆すポイントになったと思います。


「判決に不服があるとき」の各ページへのリンク

「民事裁判の話」の各ページへのリンク


「相談・依頼」へのリンク


 他の項目へのリンク