第4章 ひと夏の経験

1.わな

「たまピ~、全部しゃべっていいよね。この前みたいに狩野さんを何日も生殺しにするの、かわいそうだもの」
 六条さんが、凍り付いている私に向けて艶然と微笑む。玉澤先生は力なくうなずいた。
 2人の過去にいったい何があったのだろう。
 玉澤先生が六条さんのうちに通って毎日のようにベッドをともにしていたと、六条さんに言われてから、それが小学2年生のときのことだったと知らされるまでの日々は、確かに私は夜も眠れず、眠りに落ちると六条さんと玉澤先生の関係を邪推した悪夢にうなされる「生殺し」状態が続いた。しかし、今度は、小学生だったなどという微笑ましいオチはあり得ない。しかも、2人の態度を見れば、玉澤先生は話したくない内容で、六条さんは話したいことが明らかだ。あぁ、知りたいけど、知るのが怖い…
「玉澤君は、私のうちに通って毎日のようにベッドをともにしていたのが小学2年生のときのことで、それを私が『若い頃は』とか『独身の頃は』と言ったのが誤解を招くと言っただけで、その後私たちに何もなかったなんてひと言も言ってないわよ」
「それは、そうですけど…六条さん、私を生殺しにしないのなら、一思いに言ってくれませんか」
「ええ、でも、ものごとには順序があるから。小学2年生のときには玉澤君といつも一緒にじゃれあっていたけど、残念ながら私は転校して東京に来たの。その後は長らく会う機会がなかったけど、大学に入ってすぐの頃に、小学校の同窓会があって、そこで再会したの」
 なるほど。ありがちなパターンだ。携帯電話もネットもSNSもない時代、幼なじみが再会する機会はそれくらいだろう。
「その時に連絡先を交換して、私が何度か京都まで会いに行ったの。お互いに初心だったから、お寺を見て、お茶して、たわいもない話をして帰った。あの頃、玉澤君は年上の女に憧れてたものね」
「それは、現実的な話じゃ…」
 玉澤先生は、頬を赤らめていじけている。
「その頃は、キャンディーズが解散してまだ日が浅くて。玉澤君、ミキちゃんのファンだったよね。で、ミキちゃんロス状態。あの頃の男の子でキャンディーズファンって、大部分が蘭ちゃんのファンで、残りがスーちゃんのファンだったのに、玉澤君はその頃から少数派だった」
 玉澤先生がさらにすねた顔をする。
「ミキちゃんが悪いっていうんじゃないよ。私もミキちゃんは好きだったもの。あのとき、私がミキちゃんくらいの年上の女だったらって、詮ないことだけど、そう思ったわよ。小学2年生のときは8か月早く生まれた私は玉澤君の年上の人だったけど、大学生にとってはもうただの同い年だもの」
「六条さんは、当時年下の男の子が好きでしたか」
「う~ん、本当に私が年上だったら、その時玉澤君を選んだかどうかはわからないわね」
「そうですね。たらればを言っても始まりませんよね。なるほど。ベッドをともにしたのは小学2年生のときでその後はないということでしたし、学生のときにデートはしたけど、好みが合わずにそのままになったということですね」
 少し余裕を取り戻した私に、六条さんが、謎めいた目線を投げた。
「狩野さん、私と玉澤君がベッドをともにしたのは小学2年生のときだけだけど、布団をともにしたことがないとは言ってないわよ」
 玉澤先生が天を仰ぎ、私の脳みそは沸騰した。
「そんな、ご飯は食べてませんよ、パンは食べたけど、みたいな見苦しい政治家や官僚みたいなすり替えはやめてくれませんか」
「ふふふ、ここで話を打ち切って欲しい?」
「えっ、お願いですから最後まで聞かせてください。ここで止められたら、今晩絶対眠れません」

2.青春のリグレット

「そういうふうに、楽しくはあったけど、踏み込まないデートを続けた末に、8月に私が玉澤君の部屋に押しかけたの」
「えっ、やっぱり、六条さん、学生の頃から肉食系でしたか」
「レディーに向かって何てことを。でも、まぁその芽はあったわね。8月16日の大文字送り火が玉澤君の部屋の窓から見えるの。それを聞いて、部屋で見たいって」
「送り火を京都で見たら、東京には帰れませんよね」
「京都駅付近で見るなら、終わってすぐ帰れば帰れないでもないけど、玉澤君の部屋でなら、無理ね。どちらにしても帰る気なかったけど」
「最初からお泊まり覚悟ですか」
「ええ。昼間から、食材を買い込んで、ご飯作って。玉澤君は、紅茶を淹れて、タマネギをむいてくれた。学生のときは、もうタマネギ食べられるって。あの頃、玉澤君はクインメリーがお気に入りだった」
「よく覚えてるね。部屋に来たのは一度なのに」
 玉澤先生が口を挟んだ。とりあえず玉澤先生と六条さんの逢瀬が、少なくともお泊まりは、長く続かなかったことを知らされて、私はホッとした。
「覚えてるよ。好きな人との大事な思い出だもの。あのときの玉澤君の部屋の隅々まで覚えてる。記憶が変容したところもあるかも知れないけど」
「クインメリーって紅茶ですか」
「そう、タマネギの品種じゃないわ。茶葉の種類じゃなくてね、トワイニングのブレンドの銘柄なの。私たちの頃は、里中満智子の漫画で出てきた覚えがある。『ジブリ』の『思い出のマーニー』にも出てきたけど。今はもうない銘柄で、だから私には甘い響きがある」
 六条さんは夢見るような目をして、軽く腕を組んだ。
「晩ごはんも食べて、大文字送り火が午後8時からで、それを見ながらお酒を飲んで、私は酔い潰れたふりをした。狩野さんは私をどう思ってるか知らないけど、処女だったし、自分からリードする自信もなかったし、酔い潰れたふりをしたら、玉澤君が抱いてくれる、もちろん、抱擁するって意味じゃないよ、その、してくれると思ったの。寝たふりをした私を見て玉澤君がお布団を敷いて抱き上げてくれたときは、内心ガッツポーズしたわよ」
「それ、そのとき言って欲しかったなぁ」
 すね気味に話を聞いていた玉澤先生が、ぼっそり言った。
「私だって、100万回は後悔したわよ。狩野さんのうれしそうな顔を見るともう話の先行きは見えたみたいだけど、玉澤君は、そのまま私を寝かせて、そのまま一緒に寝たの。寝たって、エッチしたって意味じゃなく、文字通りの意味。私が手を伸ばして手をつなぐまで、それ以上、触りさえしないのよ」
「六条さんは、どこまでのつもりだったんですか」
「当然、結ばれるつもりだったわよ。酔い潰れたふりをする前にトイレに行って下着も替えたもの」
「おぉ、完全に本気ですね」
「狩野さんがいうように肉食系だったら、自分からはっきり求めたのに、当時はそれができなかった。玉澤君が仕掛けてくれないから、私、お布団に入ってから苦しいって言って、ブラを外したり、お布団をはだけて自分でスカートまくってパンツ見せたりまでしたんだけど、玉澤君は朝まで何もしないの」
 玉澤先生は、真っ赤になって下を向いている。
「たまピ~、ごめんね。でもあのときは、私も辛かったんだよ。後で聞いた話では、玉澤君は、酔い潰れた女に手を出すなんて卑怯だと思って、一生懸命我慢してたんだって。あ~あ、あのとき素直に抱いて欲しいって言えばよかった。それなのに、その時の私は、ここまでやっても抱いてくれないのは、玉澤君が私を女として見てくれてないとか、意気地なしなんだと思っちゃったの。それで、気まずくなって、その後は連絡を取らなかったの」
「私にも葛藤があったよ。みっちゃんのこと好きだし、抱きたいと思った。でも、酔い潰れているみっちゃんに触れようと考えたことが邪に思えてね。一晩煩悩にまみれて、なんだか自分が情けなくなって、みっちゃんと連絡できなくなった」
「今ならわかる。私が間違ってた。あの日玉澤君が私を抱いてくれたとしても、その時はいいけど、たぶん後々は、酔い潰れてると思ってる女に手を出す男って、と思うときが来る。あの日、私のことを思って我慢してくれた玉澤君が私の宝物なんだって。でも、あの頃の私にはわからなかった。私も、しくじったのよ」
 そうか。相思相愛だったのに、サインを読み損ねてすれ違ったのか。
 しかし、なんだ、この告白の長さは。このラブコメのラブは、私と玉澤先生のラブじゃないのか。この調子じゃ、六条さんと玉澤先生のラブの話になりかねない。
「その後、音信不通で、小学校の卒業35周年の同窓会で再会したとき、2人で抜け出して喫茶店で話し込んだ。そこで初めて28年前の一夜の真相がわかって、お互いに呆然として、笑ったの。2人とももう結婚してたし、だからどうということにもならないんだけど。でも、玉澤君が弁護士になって解雇された労働者のために仕事をしていることを聞いて、当時、パートのおばさんだった私は、玉澤君のところで働きたいなと思って、雇ってもらった。ちょっと強引だったかも知れないけど。だから、玉澤君とは、これまでの人生でまだ一度もエッチしてないよ。狩野さん、これで安心できた?」
(「まだ一度も」って何だよ。「まだ」って)
「いろいろあったんですね。私は、若輩者ですが、玉澤先生の過去についても、よさがわかりました」
 私は、六条さんに、自分なら若き玉澤先生のよさもわかると強がりを言うのが精一杯だった。それだって、岡目八目の話で、自分が当事者だったら、六条さんと同じ間違いを犯したかも知れない。
「そんな聖人君子だったわけじゃないよ。あのとき私は寝乱れたみっちゃんを前にして、やりたいって思って悶えて眠れなかったんだ」
「私は、そこがいいと思うんです。抱きたいと思わない人が抱かないのは、それだけのことじゃないですか。抱きたいという強い欲望があるのに、相手のことを思って我慢する。それが尊いと思います」
(玉澤先生が、私のことを抱きたいって思ってくれると、うれしいんだけど。あぁ、私、これからまた、玉澤先生に一度は抱きたいと、それも身悶えするほど抱きたいと思われたことがある六条さんの過去に嫉妬するのかなぁ)
 六条さんは、頬を染めながら、言い切った充足感と、玉澤先生からあの日は悶えて眠れなかったほど抱きたかったと改めて言わせた満足感に浸り、にんまりとしていた。
「あ、もうお茶の時間。今日は昼ご飯も食べずにずいぶん長話しちゃったね」
 六条さんは、ペロッと舌を出して、流しに向かった。
「六条さん、紅茶を淹れるのお上手ですけど、ひょっとして、そのこだわりは」
「ふふふ、玉澤君と会わなくなっても、心のどこかで未練を引きずってたんでしょうね。紅茶にこだわって嗜むようになって、おいしい紅茶を淹れようとあれこれ考えるようになった。クインメリーはもうずいぶん前に、製造中止になったけど、他にもフレッシュで上品な紅茶はあるし、違う味わいの紅茶もいいものよ」

3.被告第1準備書面

「えぇと…あった。2月7日、品川-八丁堀で、実際は京急で人形町まで行って、日比谷線に乗り換えて、402円支払ってるのに、経費請求は東海道線で東京駅で京葉線乗換、165円で申請してる」
 8月21日に橋江先生から郵送されてきた忍瓜商会の準備書面では、解雇予告通知書に書かれていた解雇理由の他に交通費の水増し請求が付け加えられ、梅野さんが経理に提出した交通費申請書が証拠提出されていた。私は、それを梅野さんから送られてきていたSuicaの過去1年分の履歴と突き合わせている。履歴と請求が違う箇所は、請求額の方が多いものが圧倒的多数だった。しかし、逆に実際の履歴よりも請求額が少ない箇所も、わずかながら見つかった。
「玉澤先生、一応、照合終わりました。被告が提出してきた梅野さんの経費申請書と比較して履歴の方が金額が少ないものが28箇所、履歴の方が金額が多いものが3箇所でした。被告の準備書面での水増し請求の指摘は24箇所ですが、実際には水増し請求は被告の指摘より多かったということになりますが、どうしましょう」
「ここでは、意図的な水増し請求かどうかが問題で、結果的に利益を得ているかどうかの問題じゃない。トータルじゃなくて、過少申告が、少しであっても、『ある』ということが大事なんだ。差額を稼ぐために意図的に水増し請求してたのなら過少申告なんかするはずがない。3件も過少申告があれば、それは意図的な水増し請求じゃなくて、単なるミスだ。それで十分だと思うよ。Suicaの履歴請求をしていたのはヒットだな」
 へへ、梅野さんの履歴請求が私の指示によることは、玉澤先生には伝えていない。私を褒めて伸ばすためのちょっと盛った賞賛ではなく、玉澤先生の自然な好感を得たことを、私は誇らしく思う。
「弁論準備期日まであと4日ですが、どうしますか。書面書きましょうか」
「いや、被告の解雇理由主張に対する反論は、とても大事なところだから、一般的に言っても、じっくり検討した方がいい。それに、交通費の不正請求の件はすぐに対応できるとして、ストーカー問題はまだ対応の方針が出せない。全体に、次回対応だと思うよ」
 玉澤先生を悩ませている葭子さんに対するストーカー問題で、被告は葭子さんの陳述書を出して詳しく主張してきた。私がSuicaの履歴と格闘している間、玉澤先生は葭子さんの陳述書に呻吟していたのだ。
「最初に声をかけられたときにはまさかと思ったが、思い出してみると気持ち悪く思えたので次の日から駅からの帰宅経路を変えて出口も変えた。しばらく何もなくて安心していたのに、その新しい経路でも声をかけられて、気持ち悪くなって前回よりもはっきりとお断りした。その次の日からまた帰宅経路を変えたのに、しばらくするとそこでも声をかけられて怖くなったって言うんだよ。これ、タピオカ店通いで説明できると思うかい?」
「う~ん、厳しいですね。梅野さんは、何て言ってるんですか」
「そんなつもりじゃなかった。別の店でタピオカドリンクを飲んでいたのにまた見かけて、むしろ自分の方がびっくりしたって言うんだけど、なぁ」
 葭子さんの陳述書には、地図上にそれぞれのときの帰宅経路と声をかけられた場所が図示されていた。
「確かに、今回すぐ方向を決めない方がいいですね。その問題、しばらく私に引き取らせてください」
 袋小路の玉澤先生には別の事件のことを考えてもらおう。私にもできることがありそうだから。

4.アフタヌーンティー

 あすと…あ、これだ。
「美咲、あった。こっちだよ」
「待ってよ、麻綾。そんなに急がなくても」
「美咲、ドリンク飲みすぎ。一々飲まなくてもいいのに」
「そうかい。事件の後を追うんだから、できるだけ同じ経験をしてみなくちゃ」
「そんなこと言って、ただ飲みたいだけでしょ」
「飲んでみると、タピオカドリンクもなかなか奥深いものがあるよ」
 翌日の土曜日、私は葭子さんの陳述書のコピーを手に、美咲を連れて現地調査に来た。梅野さんが最初に葭子さんに声をかけた場所は、JR蒲田駅西口から西に向かう葭子さんの自宅への帰路の途中で、タピオカドリンク店を少し越えた辺りだった。2度目に声をかけた場所は、JR蒲田駅西口を反対側になる右方向に進んだ先で、この前、私が蒲田のタピオカドリンク店を調査に来たときに行列したタピオカドリンク店の辺りだった。そして3度目の場所が、JR蒲田駅東口から少し離れた商店街の中だった。
「葭子さんは、自宅とはまったく反対方向にこんなに歩いたんだ。ずいぶんと偽装工作に力を入れたということかな」
「駅の反対側とはいっても、地元の商店街だよ。単に買い物の用事があったんじゃないの」
「そうだといいけど。もう少し先。あの辺り…」
 陳述書に添付された地図を見ながら私が指さした先には、こぎれいなタピオカドリンク店があった。安堵して立ち止まった私の右肘を、美咲が引っ張る。
「ええ~、まだ飲むの?もうお腹がタポタポだよ」
「やっぱり、その時の梅野さんの心情を理解するには、実際に飲んでみなきゃね」
 私は、しかたないなと首を振りながら、美咲とともに店に入り、奥のスペースに座った。


「その黒糖イチゴタピオカミルクラテって、どう?」
「麻綾も少し飲んでみるかい。甘いよ」
 美咲は、どこの店でも、珍しそうなものを選んで注文する。私は、たいてい、いちばんポピュラーでシンプルなものを注文する。今も特に飾り気のないタピオカミルクティーを手にしている。一番はずれがない選択だが、食にはこだわりがないから、とも言える。
「せっかく来たんだから、新しいものを味わってみないと」
「そうね。私は、浮気しないタイプなんだ」
 目線を少し遠くにおいて、私はさらりと言った。
「それ、一度言ってみたかったって感じ?」
「あっ、バレた?」
 私は、舌をペロリと出した。目をぱちくりした美咲が、まねをして舌を出し、私たちは、笑い転げた。のどかな週末の午後だった

第5章 君にはホントに に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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