第2章 反撃

1.楠里-2

「勤務先は日用品チェーンの『チョーカイ』で、勤務場所はその銚子店ですか」
「ええ、歌舞伎町は風俗店で遊んで大麻を買いたかっただけで、住まいも銚子です」
 刑事事件が即決裁判で執行猶予となった楠里さんに事務所に来てもらい、懲戒解雇を争う裁判の打ち合わせをする中で、裁判の管轄、つまりどこの裁判所に訴えることができるかが問題になった。
「六条さん、『弁護士職務便覧』貸して」
「は~い。玉澤先生、銚子市は千葉地裁八日市場支部の管轄です」
 六条さんは、話を聞いていて先回りして弁護士職務便覧をめくって管轄を調べている。
「八日市場支部だと、ここから片道2時間くらいかかるよ。勘弁して欲しいな」
 ピポパ、プルルルル・・・
 玉澤先生は電話をかけ始めた。
「あ、千葉地裁の民事受付ですか。東京の弁護士の玉澤と申します。八日市場支部管内の解雇事件なんですが、本庁に提訴したら支部に回されちゃいますか」
 玉澤先生が、頷きながら裁判所の職員と話している。
「そうですか、労働事件は本庁に集中部があるから本庁でやってくれるんですか。ありがとうございます」
 電話を切った玉澤先生がホッと一息つく。
 東京地裁には、労働事件だけを専門に扱う『労働部』があるが、労働事件がそこまで多くない千葉地裁では、一般民事事件を扱うが労働事件はその部にすべて集中するという『労働集中部』がある。受付の話では、労働事件を専門部はもちろん集中部もない支部に送るよりは、集中部がある本庁で扱う方が適切だから、本庁に提訴すれば本庁で受けてくれるということのようだ。
「法テラスは、少なくとも東京地方事務所では、遠方の事件で旅費は立替対象にしてくれないんですよ。遠方の裁判所で提訴するなら、その裁判所の地元の弁護士に頼めって姿勢でね」
 楠里さんは、刑事事件を被疑者国選弁護にしているように、預貯金があまりないし、解雇されて収入もなくなったから、法テラスの援助基準を満たすし、実際問題、法テラスを利用して分割払いにしないと弁護士費用を払えない。
「千葉地裁の本庁くらいなら片道1時間くらいだし、こちらで対応できるけど、八日市場とか、ましてや会社の本店、酒田ですよね、そうなったら山形地裁の酒田支部なんてことになると、我々じゃなくて地元の弁護士さんに頼んで欲しいところです」
「山形地裁じゃなくていいんですね?」
「民事裁判の管轄の原則は被告の住所地で、それはこの場合山形地裁の酒田支部になるんですが、裁判で請求する義務を履行する場所、『義務履行地』っていってますが、そこでも裁判を起こせます。多くの債務は義務履行地が権利者つまり原告の住所地なので、原告側はそちらを選択して裁判を起こすのが、むしろふつうです。解雇事件の場合は、賃金の支払場所ということになって、それはふつう勤務場所だろう、今どきは銀行振込が原則だけど、銀行振込は便宜的な支払方法なので、もし銀行振込でなければどうやって賃金を払うかということを考えて決めるわけです。そういうことから解雇前の勤務場所を基準に管轄を考えることになります」

「逮捕されてから解雇されるまでの間に、本来勤務すべき日は何日ありましたか」
「休日を除いて、ですか」
「そうです」
「15日、ですかね」
「それで、逮捕当時、有給休暇は、それ以上ありましたか」
「ええ、有休残日数は29日ありました」
「わかりました。逮捕されて会社に連絡したのはいつですか」
「逮捕されてすぐ母に連絡して、母から会社に当分休むと言ってもらいました」
「それなら大丈夫でしょうね。業務外の犯罪行為を理由としても解雇が有効にならないとわかると、会社側が欠勤で業務に支障があったという方に主張をずらすことがありますが、事前に欠勤を知らせていて、有給休暇でまかなえる程度の欠勤なら十分闘えるでしょう。ただ、最初にお知らせしたように、薬物事件での執行猶予刑の場合にそれを理由とする懲戒解雇が無効になるか自体、前例に乏しいし担当する裁判官の価値観に左右されるので、やってみないとわからないレベルなんですが」
「そのことはわかりました。玉澤先生がやって負けるのなら、それは仕方がないと思います。よろしくお願いします」
 楠里さんは、私ではなく玉澤先生が担当するというと、同じ弁護士費用で解雇事件に強い玉澤先生にやっていただけるのならとてもラッキーだと、あっさり私を見限った。私が望んで決めたこととはいえ、やはりちょっとむなしい。
「狩野さん、やっぱり自分でやりたいならやってみれば?」
 楠里さんが帰った後、ため息をついた私に、玉澤先生が声をかける。六条さんがいうように女心には鈍感な玉澤先生も、弁護士の心情には敏感だ。
「いえ、先生にお願いします。私は、法テラスの援助申請書と訴状の原案を起案します」
「そう。じゃあ、よろしく」

2.上見-2

「楠里さんの訴状案、できました」
「ありがとう。こっちもちょっと見てくれるかな」
 週明けの昼頃、疲れた顔で出勤した玉澤先生は、私に分厚い書面を手渡した。上見さんの控訴答弁書だ。上見さんとは10日ほど前に打ち合わせをして、タイに行く度毎回少女買春していたわけではないが少女買春をしたことあるし、痴漢で逮捕されたのも事実だということだった。重要な事実を隠して弁護士をも欺いていたことに上見さんは平謝りしていた。私は、1審とは前提が大きく変わり、自分が騙されていたという思いに動揺し、答弁書をどう作ればいいのかまったくイメージできなかった。玉澤先生は、その後考え込んでいることが多かった。そうは言っても、提出期限が近づき、この週末に起案したのだろう。
 私は、ページをめくり、玉澤先生の吠えるような答弁を目にした。
『本件は、解雇の有効・無効が唯一の争点であり、審理及び判断は、何よりも解雇理由(就業規則上の解雇事由該当性)を中心に行われるべきである。まるで人格的に「悪い人」であれば解雇してよいかのようにいう控訴人の主張は、世間話としてではなく裁判上の主張としては、誤りである』
『控訴人は、解雇理由に該当する事実をまったく整理も特定もせずに被控訴人の悪口を書き並べているだけであるが、その内容は主として、被控訴人の少女買春や痴漢、盗撮を非難して信頼関係を構築できないなどと主張しているものであるところ、就業規則上の解雇事由としては、就業規則第31条第1項第4号の「勤務成績または能率が不良で就業に適さないとき」を挙げるのみである』
『控訴人が少女買春や痴漢や盗撮をする被控訴人に女性の顧客も多い業務を任せられないとする理由は性犯罪を犯す者は女性客に対して着替えを覗いたり体に触ったりする恐れがあるということであるが、控訴人が、被控訴人の性犯罪をあえて記載した上で、被控訴人の勤務態度について直接見聞きしたことのみならず「噂」まで含めて書かせたアンケートにおいてさえ、被控訴人が女性客の着替えを覗き見しようとしたとか接触しようとした旨の記載はまったくなく、むしろ女性客の着替えの際の応対を回避していたという回答があるだけである。控訴人の主張は観念的・理念的なものにとどまり、事実の裏付けをまったく欠いている』
『控訴人は、原審では被控訴人の勤務成績や勤務態度の問題など何一つ主張していなかったものであり、敗訴後に被控訴人への敵意を誘導して行われたアンケートでさえ、抽象的な嫌悪感や些細なことが記載されているだけであり、具体的で重大な問題は何ら指摘されていない』
『ただの悪口の雑談と、解雇理由は、法的な意味もレベルもまったく異なる。控訴理由書の記載は解雇理由の体をなしていない』
 読んでいて私は、背筋がぞくりとした。最初に読んだときには圧倒的な説得力で、これに反論することなどできないと無力感に打ちひしがれたほどの控訴理由書が、玉澤先生の整理した論理の枠組みの前では、炎上したネットの書き込みの寄せ集めレベルに見える。確かに、これは解雇の有効無効を争う裁判だ。問題は、道徳的に正しいか、ではなく、解雇理由になるか、だ。その当然のことを、控訴理由書の扇情的な悪口の洪水の前に、私は忘れていた。
「先生って、打たれ強いんですね」
「しばらくの間、打たれて呆然としてたのは狩野さんも見てただろ」
「ええ、でもそこからの立ち直りがすごいです。惚れ直しました」
「え…あぁ、ありがとう」
 照れて言葉が止まった玉澤先生を、私は惚れ惚れと見つめていた。惚れていると堂々と言葉にして恥じない私を、六条さんが目をぱちくりとして見つめていた。

3.美咲-1

「怖いね、これは」
 私が持ちだした上見さんの控訴理由書と控訴答弁書のコピーを読み比べた美咲は、しみじみと言った。
 ここは私のアパートに近い下北沢の居酒屋。週末の夜、私は修習同期の親友の美咲と、私たちの弁護士登録1周年の記念日の祝杯を上げていた。事務所の顧問先との忘年会ラッシュの美咲とはなかなか日程が合わず、美咲と飲むのはもう1か月ぶりだった。
「うちのボスがコテンパンにやられて自信喪失したのもわかるよ。ボスに言っとく。あなたが悪いんじゃない、相手が悪すぎたって。会社側の弁護士は、本当に自信満々で書いたんだよ。それが完全にぺちゃんこじゃん」
「そうでしょう。私も、読んで背筋がぞくり、鳥肌が立った」
『控訴人は、このアンケート結果を根拠に同僚職員との信頼関係の構築が極めて困難であるなどと主張しているが、控訴人は外部(マスコミ等)による情報の拡散がないところを控訴人の行為によって被控訴人の性犯罪を同僚等に周知させ、現職の従業員に対し誘導的なアンケートを実施して、同僚が復職を容認していないという結果を引きだしたものである。無効な解雇をして敗訴した使用者が、自らの行為により労働者に不利な情報を拡散して同僚職員に労働者に対する嫌悪感を抱かせて復職が困難な状況を作出し、それをもって復職は困難であるなどと主張するような手口を許してよいものか、被控訴人代理人は、強く疑問に思う。控訴人の行為は、裁判上例えば返還義務があるものを、自ら火を付けて燃やし、「火事だ」と騒ぎ、燃えてしまったから返せないというに等しい』
「ここだろうね。玉澤先生の闘志をかき立てたのは。こういう汚いやり方は絶対許せないって執念を感じるよ。しかも、そのアンケートを逆手にとって、そこまでやっても女性客の着替えを覗こうとしたとか体に触ろうとしたという噂さえないじゃないかって。こんなこと言われたら、会社側の弁護士は怖くなるし、自信を失うよ」
「そうだよねぇ。私はアンケートも悪口ばかりで読む気がしなかったのに、その中身を1枚1枚読み込んでるんだもの。ホント、惚れ直した」
「麻綾には、弁論技術の問題じゃなくて、のろけなんだな」
「今晩は、徹底的にのろけてやるさ」
「おぉ、いつもよりピッチが速いね。ところで、おのろけなら、まず先に11月20日の報告をしてよ。『私には夢がある』作戦はうまくいったんだろ」
 私は、3週間あまり前の11月20日に行われたとある解雇事件の証人尋問で、私の尋問が合格点なら私が希望することに何でも応じるというご褒美を、玉澤先生に約束させていた。私と美咲は、玉澤先生が敬愛するキング牧師にちなんで、その計画を『私には夢がある』作戦と、密かに呼んでいた。
「うふふ、それは内緒。協力してもらっておいて悪いけど、この日のできごとは2人だけの秘密って玉澤先生と約束したの」
「え~っ、そんなのずるい。やったの?やってないの?」
「やったって、何を?」
「決まってんだろ、×××」
「やだ~、裁判所の弁護士控え室で?パーテーションで区切ってあるし鍵はかけたけど、音が筒抜けなのに、そこでHしたりしないよ~」
「じゃあ、何したんだよ。玉澤先生には予め何でも受け入れるって約束させたんでしょ」「そうだよ。でも、それ以上は、ヒ・ミ・ツ」
「いじわる~」
「あははは…」
 気持ちよく酔いが回った私は、テンションが上がっていた。ふだんは酔い潰れかけた美咲を支えて私のアパートに連れ帰ることが多いが、今日は私が先に酔い潰れるかも知れない。たまには、美咲に介抱してもらうのもいいか、と思いながら、私は幸福感に浸りニヤけていた。

第3章 応酬 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。

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