プロローグ 官能小説

1.旅の宿

「先生、もう入れていいですか?」
 私は、目を閉じて横たわる玉澤(たまざわ)先生を見おろしつつ、囁いた。こめかみや耳の中で自分の脈動を感じ、浴衣の下で私の太腿が火照っていた。
「ああ、そっと、頼むよ」
「じゃあ、行きます」
 私は、覚悟を決めて、先生に覆い被さるような姿勢をとってことを始め、細心の注意を払って、そっと擦り上げるようにした。
「先生、気持ちいいですか」
「ああ、いい気持ちだ」
 玉澤先生のうっとりとした表情を上から見つめ、私は体の奥底から沸き起こってくる満足感に酔いしれた。
「先生のって、すごく大きいですね」
 しばらく続けた後に引き抜いて見つめ、私は感心して言った。
「これだけ大きいと、私もやりがいがありますし、気持ちいいです。『カ・イ・カ・ン』って感じ…」
「ああ、みんなそう言うよ」
「みんなって、誰ですか」
 私の頭の中で、機関銃が炸裂した。玉澤先生が目を開き、口元をこわばらせた。
「妻だけじゃなくて、六条(ろくじょう)さんにもしてもらったんですか」
「あ…この間、事務所で2人でいるときに、させてくれって言われて。ちょっとためらってたら、『減るもんじゃなし』って言われて」
 またしても、六条さんに先を越されたか…
「事務所のソファーでやったんですか」
「そんな一大事みたいに言わなくても…あ、そんな乱暴にしないでくれ」
 玉澤先生の目元に苦悶のしわが寄る。
「ごめんなさい。つい、力が入りすぎました」
 私は力を抜いて姿勢を整え、安堵した様子の玉澤先生の顔を見おろし、再び玉澤先生への愛しさが胸にこみ上げてきて和んだ。
 まあ、いいか。嫉妬心を露わにして雰囲気を悪くしては、せっかくの機会が台無しだ。私は、気を取り直して玉澤先生に微笑みを投げ、耳かきと、玉澤先生の耳から取り出した大きな耳垢をテーブルに置き、私の太腿に置かれた玉澤先生の頭を撫でた。生々しさは薄らいだが、まだそこに残る傷跡を、右手の指先で慈しむようにたどり、私は、玉澤先生が生きてここにいることを思い、再び、胸と太腿を熱くした。

 私は、狩野(かのう)麻綾(まあや)。解雇事件を得意とするベテラン弁護士の玉澤達也(たつや)先生の事務所で働く1年4か月目、27歳の新人弁護士だ。玉澤先生には妻子がいるが、私は玉澤先生を好きになり、告白している。事務員の六条路子(みちこ)さんは、玉澤先生の小学校の同級生で、夫のある身だが、やはり玉澤先生を好きになり、私とはライバル関係にある。1か月ほど前、玉澤先生が事務所前で襲撃されて死線をさまよい、今、回復した玉澤先生の心と体の休養のため、私たちは温泉宿にいる。


 夕食を終え、残念ながら別々にではあるがお風呂に入って浴衣に着替えた私たちは、私が一度してみたかった膝枕での耳掃除にチャレンジしていたのだ。
 まだ夜は長い。
 客室は、2間続きで、襖の向こうのもう1部屋には、さっき仲居さんが敷いてくれた布団が並んでいる。私は、この後の展開に胸を躍らせた。

 玉澤先生を立たせて、浴衣の帯に手をかけた私は、帯を一気に引き抜く。帯に引きずられた玉澤先生は「アーレー」と声を上げながらくるくると回り布団の上に追いやられる。それを見つめながら、私は『初いヤツ』とつぶやき、ほくそ笑む。
 昔の官能系時代劇のお決まりのパターン。やってみたかったんだ、私。

「ああ、いいお湯だった。ああ…いいな、狩野さん。よだれ流して何の夢見てたの?」
 おねだりして今度は玉澤先生に膝枕してもらいながら妄想に耽っていた私を、現実に引き戻す声がした。先に入浴した私たちの後で大浴場に行っていた玉澤先生の娘、宙(そら)さんだ。

 そう、私としては、玉澤先生と2人きりの温泉旅行を目論んだが、玉澤家の家族会議の結果、温泉旅行の条件として、宙さんが同行することになった。
 宙さんは私の気持ちに気づいている。私が玉澤先生の命を救ったという事情もあり、私が玉澤先生といちゃつくことはお目こぼししてくれているし、お風呂に私と一緒に入らずにあえて時間をずらせて行ったのも気を利かせてくれているのだろう。でも、さすがにこの環境で、いちゃつく以上のことは難しい。
 3つ並べられた布団にも、やはり宙さんを挟んで『川の字』で寝るんだろうなぁ。川中島の戦いの上杉軍のように、夜半、武田軍に気づかせずに密かに川を渡る…というわけにもいくまい。

2.川中島

「それで、長尾政虎は千曲川を渡ったのかい?」
 いつもの下北沢の居酒屋で、研修所の同期生で親友の美咲(みさき)と、いつものように飲んでいるとき、私は美咲に詰め寄られた。美咲の尋問は、玉澤先生襲撃事件の捜査を担当していた新宿警察署捜査第1課の素太(すだ)刑事よりも厳しいかも知れない。
「それが…」
 私は、消え入るような声で答えた。
「聞こえないよ」
「…爆睡してた」
「ああ、もう…信じられない。処置なしのドジだね」
「そこまで言わないでよ。宙さんに起こされたとき、私も、『あ…しくじった』と思ったもの。でも、夜陰に乗じて奇襲をしなくても、もっといいことがあったよ」
「えっ、なになに?」
「明け方に宙さんが私をそっと起こして『朝風呂に行ってくる』って部屋を出たの。それを聞いて、私は玉澤先生の布団に潜り込んだ」
「おお、千曲川を飛び越えて信玄の本陣に斬り込んだか。で、討ち取ったか?」
「ギュッとハグして、玉澤先生の寝顔を見つめてた。本当に幸せで、とろけちゃいそうになったよ」
「そこで立ち止まるな。前進あるのみ!」
「ええっ、でも、同じお布団の中で肌を合わせて暖め合ってぬくぬくホワンとしてたんだよ。私、こんな幸せなことしていいのかなって、思ったんだけど」
「ええい、まどろっこしい。麻綾、あんた、まさか男性経験がないとか、言わないよね」
「違うよ。男性経験がないなんて言わないけど、こんなに好きになったの、初めてなの。これまでにしたどんなエッチよりも、玉澤先生と1つ布団の中でハグしたときの方がよかったって言ってるの」
「ごちそうさま。なんか、急に艶めかしい声になったね」
「うん、思い出したら感じてきた」
「で、ハグしたほかには?」
「そうね、頬ずりしたり舐め回すようにいろんな方から眺めたり」
「舐め回さなかったの?」
「うふ、実はちょっと舐めた」
「えっ、どこを?」
「むふっ、いろいろよ」
「でも、いろいろ舐め回されて、玉澤先生目を覚まさなかったの?」
「寝たふりしてたんだと思う。ちょっとヒクヒクしてたし。で、寝たふりしてるんなら、何やってもストップはかからないだろうから、好きにさせてもらった。宙さんが戻ってくるまで」
 私は、宙さんが戻ってきたときのことを思い起こした。

3.旅の宙から

「あれっ、ずっとたっちゃん、起きなかったの?」
「え、ええ…」
 宙さんは、すっと手を伸ばし、玉澤先生の鼻をつまんだ。
「たっちゃん、寝たふりはやめて。狩野さんが『好き好き』ってハグしてるのに、寝たふりは失礼だよ。ほら、ちゃんと起きて、たっちゃんも狩野さんを抱きしめて」
「あ、あの、宙さん。私、実は、抱きしめられるのより抱きしめる方が好きで、玉澤先生が寝たふりしてくれてたおかげで、好きなように抱きしめられて、好都合だったんです」
「え、抱きしめられるの、いや?」
「あ、いや、玉澤先生となら、抱き合ってみたいです」
「ほら、起きて。バレバレだよ」
 玉澤先生が、頬を赤らめながら起き上がった。ちょっとすねた様子がいじらしい。六条さんなら『かわいいったらありゃしない』と言うかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて。玉澤先生、仰向けに寝てください」
 虚を突かれて固まった玉澤先生を押し倒し、私は上から覆い被さる。
「それで、私を抱きしめてください」
 私に言われて玉澤先生が両腕を私の背中に回して私を抱きしめた。横に座って微笑む宙さんに、私はピースサインを送る。
「こうしてみたかったんです。しばらくこうしていていいですか」
「たっちゃん、いいよね。狩野さんが心ゆくまで、このままで」

「私、宙さんは、私が玉澤先生にアタックするのを牽制するために来たのかと思ってました」
 朝食後、大浴場に行くというと『じゃあ私も』とついてきた宙さんに、私は尋ねた。
「う~ん。かっちゃんは、あ、ごめんなさい、私の母、和実(かずみ)というんです。母はそういう思惑があったかも知れませんけど、私は、狩野さんを応援しています」
「へっ?」
 意外な言葉に、私は、宙さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「素太刑事から聞きました。狩野さん、たまたま父が倒れているのを発見したんじゃなくて、命がけで駆けつけてくれたんだって」
「あ…そんな勇ましい話じゃないです。命がけなんて意識したら私ビビって腰が引けます。例えば、目の前で玉澤先生が襲われたら怖くて動けないと思います」
 私は、昨年10月に六条さんのダイビングボディアタックを受けて倒れる玉澤先生を見て危ないと思いつつ動けなかったことを思い出した。
「私は、『君のためなら僕は死ねる』とか言う人を信じません。口に出さずに実行しちゃう狩野さんはとても立派だと思います」
「命を救ってくれた負い目とか感謝で応援してくれるんですか」
「そういうよりも、父のことを、そんなにまで好きになってくれてありがとうって、私は思っています。命がけで人を好きになれるってすごいじゃないですか。そんな人を応援したいって思うんです」
「私はそんな立派じゃないですけど…宙さんは私と玉澤先生ができちゃってもかまわないんですか?」
「父が母と別れるとかそういうことになったらいやですけど、それはないと判断してますから。あ、これは、狩野さんを牽制するとかじゃなくて、父の性格上、母を見捨てたり悲しませるようなことはしないと、私は見ています」
「じゃあ、離婚はないとして、私が玉澤先生の子どもを産むとかいうことになったら?」
「えっ、私、ずっと弟か妹が欲しいって言ってるんです。もし狩野さんが私の弟か妹を産んでくれるんならうれしい。でも、父を落とすのは難しいと思いますよ。父にとっては狩野さんは恋愛対象と見てはいけない相手なんです」
「えっ」
「従業員に対して性的な関心を持ってはいけない。労働者が同意したとかいうのは、阿漕で厚顔無恥な使用者の口癖みたいなもんだって。労働者側の弁護士としての意地があるから、狩野さんがハグしたりするのを『受け止める』あたりが限界じゃないかなぁ」
「そうかぁ。はしゃぎすぎですね、私。勢い余って、子ども産むなんて言って…」
「私は、狩野さんがそこまで父のことを好きになってくれてうれしいですよ。エッチは無理だろうと思いますけど、抱き合っていちゃつくくらいなら、私が拒ませませんから、堪能してください」
 宙さんがウインクし、私は天にも昇る気持ちだった。

「そうか、信玄は天守閣は持たねど、難攻不落か」
 宙さんとのやりとりを語る私に、美咲がつぶやいた。

第1章 依頼人 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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