第11章 計画

1.第8回期日

 亀菱裁判官は、今日、弁論準備の場に、マスクを付けて現れた。
「亀菱裁判官、お風邪ですか」
 玉澤先生が、気遣わしげに尋ねた。
「いえ、このたび、我が社でも、指令がありまして、弁論準備の席では、裁判官はマスク着用となりました。出席者の方も、着用されたいのであれば、ご遠慮なく」
 亀菱裁判官は、やや恥ずかしげに答えた。ここでは、まだ、マスクを着用したままで話すことは基本的には失礼なことであるが、新型コロナウィルス感染拡大が危惧されているので、マスクをしたい人はしてもらってもいい、という様子だった。クールビズが本格化する前、夏の暑い時期に、裁判官が、法廷で、出席者に対して、「今日は暑いですから、上着を脱いでいただいてかまいませんよ」と気遣って言っていたような、そんな言い方だった。

「さて、双方から人証申請書と陳述書をいただきました。陳述書は原告本人のものが甲第16号証、被告からは武納さんの陳述書が新たに乙第23号証として提出されて、これはいずれも裁判所に提出されたものが原本ということですので、これを提出扱いにします。それで人証申請ですが、原告側の原告本人申請、これは当然に採用します。被告側ですが、淡杜証人と武納証人というのは、いかがなものでしょうか。確かに、事実関係での争いがある点が、黄嶺さんの着服への関与以外では、淡杜さんへのセクハラと武納さんへの暴言ではありますが、そこは解雇理由としてそれほど重要なことなのかに疑問なしとしません。むしろ、被告側では解雇の決定の過程、解雇理由の評価のあたりを立証される方が適切ではないでしょうか」
 亀菱裁判官は、被告側の人証申請に疑問を呈した。
「前回もお話しましたように、ふつうに行けば郷音総務部長なんですが、これが黄嶺さんの着服の発覚を機に郷音部長自身の背任行為が発覚して懲戒処分のため自宅待機中です。まだ決まってはいませんが、内容からして懲戒解雇は避けられない情勢です。その人を証人申請するというわけには参りません」
「そうですか。まぁ、被告が申請しないのならかまいませんが、淡杜さんの主尋問が30分、武納さんの主尋問が40分というのは、内容から考えて長すぎますね。淡杜さんが15分、武納さんが20分でいかがですか」
「それはちょっと・・・淡杜さんに20分、武納さんが30分ということでしたら」
「そうですか、原告代理人、反対尋問はどれだけ必要ですか」
「一応、主尋問と同じ時間いただきたい」
「わかりました。そうすると淡杜さんが40分、武納さんが60分ですね。原告本人ですが、主尋問40分とありますが、確かに原告本人はいろいろ話していただくことも多いかとは思いますが、30分になりませんか」
「はい、努力します」
「被告代理人、原告本人への反対尋問は?」
「40分ください」
「そうですね。原告本人に聞きたいことがあるのは理解できますので、40分認めましょう。そうすると、3人で170分、裁判所の補充尋問もありますので、午後4時30分終了というところですね。尋問の順番ですが、ご意見はありますか」
「淡杜証人を先に、続いて武納証人でお願いします」
「通常の例により、証人の後本人ということで、淡杜証人、武納証人、原告本人でいいですか」
「はい、けっこうです」
 尋問の順序と尋問時間の割当が決まり、亀菱裁判官は、弁論準備手続を終結させた。

2.旅行計画

「狩野さん、ちょっと」
 3月も終わりに近づき、玉澤先生が尋問準備のために記録を読み、念のために証拠提出していない梅野さんが持ってきた録音を聞いているとき、六条さんが私を呼んだ。
「ここのところ、週末は自粛、お花見も禁止っていろいろくさくさしてるじゃない。この際ゴールデンウィークには、どこか旅行に行かない?」
 六条さんは怪しげに微笑んだ。
「百人一首の賭けで私は負けましたから、私は玉澤先生をお誘いできません。六条さんが玉澤先生と行きたいって話ですか」
「私が玉澤君に『2人で行きましょ』って言ったんじゃ、残念ながらOKしてくれないと思うの」
「それは残念ですね」
 私は気のない声で言った。
「だから、『事務所旅行』っていうことで」
「まさか、3人で行くって予約して、私に当日急病になれとでも」
「それもわざとらしいから、狩野さんも一緒に来て」
「へっ、私は権利がないはずでしたが」
「アシストの一環として、来て欲しいの」
「私にどうしろと」
「部屋は2部屋取るから、私と玉澤君が同室で狩野さんは一人部屋を悠々と使っていいわ」
「使っていいわじゃないですよ。私だって玉澤先生と同室の方がいい」
「それと玉澤君が歩くときに寄り添うのは私ね。それ以外はふだん通りでいいわよ」
「えぇ~、それ酷い」
「あのときの賭けの内容には、こういう選択肢も含まれていたと思うわよ。私が玉澤君とラブラブの旅行ができるように狩野さんがアシストするってことだから」
「ラブラブの旅行とは言いませんでしたけどね」
「ねえ、このツアーなんかいいんじゃない?」
 六条さんは、沖縄中部のリゾートホテル滞在のツアーのページを開いていた。エメラルドブルーの海、美しいプライベートビーチ、水平線に沈む夕陽。写真を見ていると、「行きたい!」と思うが、その快適な環境の下で、横で六条さんが玉澤先生といちゃつくのを見ながら自分は一人離れて過ごすというのは、精神的にかなりハードに思える。賭けの勝者と敗者というのはそういうものだろうが、ウキウキしてる六条さんを横目に、私は暗澹たる気持ちだった。


「ほら、約束なんだからちゃんと協力してよ」
「はい…」
 私はしかたなく頷いた。
「たまピ~、お茶の時間にしよう」
 六条さんは、玉澤先生の記録検討が一段落したのを見計らって声をかけた。
「たまピ~は、日向夏のタルトがいいかな。イチゴショートもあるけど」
「あぁ、日向夏がいいな」
「はい。じゃあこっち」
「狩野さんはイチゴショートでいい?」
「イチゴ好きですよ」
 しばらくケーキの評価が続いたあと、六条さんが切り出した。
「ねぇ、たまピ~。ゴールデンウィークかその前後か、都合のいいときに、事務所旅行をしない?これまでうちの事務所ではそういうのしなかったけど、そういうのもいいなぁって。ねぇ、狩野さん」
「えぇ、そうですね」
 同意を求められた私は、しかたなく、やや投げやりに言った。
「いてっ、あ、いや、私も行きたいです」
 六条さんにお尻をつねられ、私は慌てて熱意を示した。
「そうだなぁ。狩野さんとみっちゃんが行きたいって言うのなら、行こうか」
「わぁ、うれしい。たまピ~はゴールデンウィークの予定はどうなの。ご家族でどこか行ったりする?」
「いや、特にそういう予定はしていないけど」
「どうしよう。ゴールデンウィークが家族行事で埋まってたら、その前後どこか都合のいいときでもいいし」
「そうだね。一応聞いてみて調整しよう」
「私たちは、沖縄のリゾートホテルのツアーがいいなって思っているんだけど」
「そう。行き先は日程との見合いだとは思うけど、私は特に希望があるわけじゃないから、狩野さんとみっちゃんが合意できるんなら、基本的にはそれでいいと思うよ」
「わかった。じゃあまずは日程調整、お願いね。うれしいな」
 六条さんは夢見るような表情で微笑み、玉澤先生は、六条さんの勢いに流され、少しうれしそうだった。私は2人の横で、笑顔を作っていた。

3.迷い

 負けたんだからしかたない、とは思いつつも、浮かれる六条さんを見ているのが辛くて、私は玉澤先生が読み終えた記録に集中することにした。玉澤先生は、亀菱裁判官が淡杜証人と武納証人じゃあ、実質的に証人尋問をやる意味がないという様子だったことを見てもこの2人の証人尋問の結果が判決に影響することはまずないと言うのだけれど。
 煩悩と雑念にまみれながら長い時間を費やして記録の検討を続けた私は、玉澤先生に言いたいことを言わずにおくべきか言うべきか迷い続けた。
 3月の最後の日、私は、意を決して玉澤先生に少し時間を取って欲しいと言って、思う限りのことを言うことにした。

第12章 尋問 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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