プロローグ 法廷にて

「梅並君には、営業に同行してもらいながら仕事を見て覚えてもらいたいという気持ちでいました」
 証言台で営業部長は目を泳がせた。
「私の質問は、あなたが梅並さんに対して、営業の業務について、具体的にここをこう改善しろというような指導をしたことがありましたか、ということでしたよ。質問に、答えていただけませんか」
 玉澤先生は、いつもより声を低めてゆっくりとくり返した。獲物に狙いを定め、食らいつこうとする時の玉澤先生。私はその表情に萌える。玉澤先生の見かけは、さえないおっさんなのだけれど。
「営業報告の書き方であるとか経緯とかを話を聞きながら、打ち合わせをしたということは、実際あったと思います」
「打ち合わせをしたかと聞いているんじゃなくて、具体的な問題点を指摘して改善を指導したことがあるかということを聞いているんですが、それはどうですか」
「具体的に何か注意ということは、ありません」
 玉澤先生が、チラリと私を見た。私は、OKと目で伝える。
「反対尋問、終わります」と言って、玉澤先生は着席した。
 この事件は、会社が営業部員の梅並さんを能力不足とか勤務態度不良などの理由で解雇した、世間での言い方では「クビ」にしたのに対して、梅並さんが解雇は無効だと主張して、労働者としての地位があることの確認と解雇時点以後の賃金の支払を求めて訴えたものだ。能力不足とか勤務態度不良という場合、よほどのことがない限り、会社が注意・指導をくり返し、それでも改善されず、今後も改善が見込めないということでないと、裁判では解雇は無効と判断されるのがふつうだ。昨夜の私たちの打ち合わせでも、具体的な注意・指導はしていないことを言わせるのが、営業部長の尋問の獲得目標で、最低限、それが取れれば勝訴だということだった。
 このまま推移すれば、梅並さんの、したがって私たちの勝ちだ。営業部長が、突然、注意・指導の具体例を言いだした時に備えていた私は、力を抜いた。

 裁判官から営業部長に対する質問が始まり、私たちは耳をそばだてる。証人尋問は、証人申請した側が行う主尋問、その相手方が行う反対尋問の後、裁判官が尋問するという展開になるのがふつうだ。裁判官が行う尋問は、当事者が行う尋問を補充するものとして、「補充尋問」と、業界では呼ばれている。補充尋問では、当然、裁判官が関心を持っているポイントが聞かれる。そこから裁判官の心証を読み取るため、弁護士は裁判官が何を質問するかに注目するのだ。
 ほぼ予測どおりの質問を連ねた後、裁判長が聞いた。
「先程来、改善のための指導について何度か質問されていますが、具体的に、例えばあなたはこういう問題があるから、こういう点をこういう方向で直してもらいたいとか、そういう言い方で何か具体的にされたようなことはありますか」
「そういうお話であれば、出張の時に、商談のために用意した資料を、梅並君が取引先の車の中に置き忘れたことがありました。その時は、強く注意しました」
 営業部長は、ようやく胸を張った。
 それを見て私が腰を浮かせると、玉澤先生が、私の左手をそっと握った。左を見ると、玉澤先生が私を見つめていて、正面から目と目が合った。予測していなかった展開に、私は、どぎまぎした。
(えっ、ここで、ですか…)
 私は声に出さずに、目で聞いた。玉澤先生はそっと頷く。
(裁判長、こっち見てますよ。やるなら急がないと。いや…、そうですか…)
 私は、観念して、目を閉じた。

第1章 私は麻綾に続く





 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
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