第16章 逆転

1.証明

「本日の審理を始めたいと思いますが、その前に、玉澤先生、もうお体は大丈夫ですか」
 ここは東京地裁13階南側の労働部の小部屋。並んで座る私たちの左側には裁判官、正面には熱三電機の代理人の蟻蔵先生、右手には熱三電機総務課長の海山さんと原告の夏井さんが座っている。
「ええ、頭にちょっと刺激を受けたおかげで、頭がよく回るようになりました」
「そりゃあ、たいしたもんだ」
 他の人たちが、玉澤先生の冗談にどう対応していいか戸惑う中、蟻蔵先生が不機嫌そうに応じた。
「前回の期日が、原告代理人の負傷で事実上の延期となり、期日が5月末に指定されていましたが、原告代理人が復帰したということで原告側から期日を前倒しで行いたいという希望があって、本日の期日が開かれることになりました。両当事者のご協力に感謝します。」
 裁判官の前置きがあり、弁論準備期日が開始された。
「最初に、この裁判を進行する前提として確認しておきますが、前回の期日以降に期日外で原告本人から訴えの取下書が提出されました。裁判所としては、代理人がついている以上、代理人ともよく協議した上で取下がなされたのか、慎重に意思確認をしたいということで扱いを保留にしてあります。本日、原告本人と原告代理人がそろっておられますが、この訴えの取下はどうされますか」
「訴えの取下は、原告本人が私が襲撃されたことで気が動転して行ったもので、代理人としてもまったく協議も受けておりません。訴えの取下は撤回させていただきます」
「わかりました。被告代理人、それでよろしいですね」
「まぁ、しかたないですね。我々としても取下などという中途半端な形よりも、証拠に基づいて真実をはっきりさせたいと考えています」
 蟻蔵先生が、少し不満げな様子を見せながらも余裕綽々の態度で答えた。
「さて、実質的な審理に入りましょう。前回の確認ですが、原告側から甲第25号証の電子メールが提出され、これとともに原告側から原告の上司から原告はこれまで納品指示のミスをしていないという内容のメールがある以上、被告から提出されたそれ以前の時期に上司が原告に対して納品指示のミスを注意して具体的な納品指示の際の手順等を指導しこれに対して原告が謝罪して以後注意する旨の返信をしている3件の電子メール及び上司が大阪営業所で原告のミスが指導の材料とされていると伝えて叱責しこれに対して原告が同じミスは2度送り返さないよう注意する旨返信したという電子メールはすべて偽造だという主張がなされました。これに対して、被告側から弁論準備期日当日に、乙第42号証の1、2として、原告のパソコンのメールソフトの受信フォルダと原告の上司のパソコンのメールソフトの送信済みフォルダのスクリーンショットが提出され、どちらにも甲第25号証の電子メールの送受信歴がない、したがって甲第25号証の電子メールは原告が偽造したものだという主張がなされました。こういうことだったかと記憶していますがよろしいでしょうか」
「そのとおりです」
 私と蟻蔵先生が裁判官の話を確認した。
「では、そこから始めましょう。原告代理人、被告から甲第25号証の電子メールが偽造だという主張があり、それを裏付ける証拠が提出されていますが、いかがでしょう。もし提出された電子メールが偽造だということになると、裁判所としても放置できない事態となりますが」
「そうですね。ちょっとこれを見ていただきたいのですが」
 玉澤先生は、関係書類を挟んだクリアファイルの中から十数枚の報告書を取り出した。
「どうしてそれを…」
 総務課長の海山さんが気色ばんだ。
「さすが、総務課長はよくご存じだ。内容を見ると、熱三電機がパイナップル社の特許権侵害をしていてこれが発覚したときの法的対応を検討した内部資料のようですね。熱三電機にとってはトップクラスの機密書類ですね」
「それを持ち出したとなると、それ自体懲戒解雇事由ですよ」
「どんな機密書類でも、持ち出すだけでは懲戒解雇の理由にはなりません。外部に漏洩して初めて解雇理由になり得るのですし、法律相談や事件依頼のために弁護士に見せるのは正当な理由があるとされていますので、やはり解雇理由にはできません」
「そうですね。ただ、それは見せる必要があるということが前提ですね。原告代理人は、原告が被告の違法行為を通報しようとしてそれが実質的な解雇理由だという主張をしようとしているのですか」
 裁判官が割って入った。
「本当のところはそうかも知れません。ただ、本日はその主張をする予定ではありません」
「では、この書類を示しているのは何故でしょうか。この解雇事件とどういう関係が」
「済みません。もう少し聞いていてください。さて、海山さん、熱三電機ではこういう機密書類のファイルは秘密保護のため、社内のパソコンでしか開けないようにされていますね」
「そうですね」
「そうすると、この書類は、熱三電機の社内のプリンタで印刷されたものと考えていいですか」
「そうなりますね。社内で印刷して紙の状態で持ち出したということになります。明らかに服務規律違反です」
 海山さんは憤慨しながら答え、玉澤先生はにこやかに応じた。
「なるほど。それで、この裏を見て欲しいんですが、甲第25号証の電子メールは、熱三電機の社内のプリンタで印刷された機密書類の裏紙に印刷されているんですよ。だから甲第25号証の電子メールも、熱三電機の社内のプリンタで印刷されたものなんです」
「何を言うんだ、ばかばかしい。報告書は社内のプリンタで印刷されたかも知れないが、それを持ち出した後で、電子メールは最近原告が偽造してその裏紙に印刷したんだろう」
 蟻蔵先生が、大声を上げて割って入った。
「ただ、裏紙に印刷されているだけなら、そう解する余地もあるかも知れませんね。でも、ここを見てください」
 玉澤先生は、機密書類の両脇の細い線状の汚れを指さした。
「これは、プリンタが古くなると、ローラーが傷んでくるのか、両脇に線状の汚れがつくようになるんですよ。プリンタの交換までの間に印刷した書類にはこういう跡が残る。熱三電機の夏井さんの部署のプリンタの交換はいつありましたかね」
「解雇される6か月ほど前、一昨年の12月のもう暮れの押し迫った時期に、プリンタが古くなって交換しました」
 玉澤先生の質問に夏井さんが答える。
「海山さん、それはよろしいですか。もし違うのなら、プリンタの交換時期は書類が残っているでしょうから、業者さんの納品書とかを出して主張してくださいね」
 海山さんは苦しそうな顔で黙り込んだ。

「それでね、裏側の甲第25号証の電子メールの印刷面にも同じ線状の汚れが残っているんですよ。これは、表側と同じ時期、夏井さんの解雇の6か月ほど前のプリンタの調子が悪くなって交換されるまでの短い期間に熱三電機の社内のプリンタで甲第25号証の電子メールも印刷されたということを示しているんじゃないかと思いますよ。つまり、甲第25号証の電子メールは、夏井さんが解雇される6か月前から実在した。偽造ではあり得ませんね。それとも、解雇の6か月も前に、夏井さんが会社側から裁判になったら提出される電子メールの内容と解雇とそれが裁判になることをすべて予期して予めそれにドンピシャの電子メールを偽造して社内のプリンタで印刷して備えていたとでも、主張されますか」
 蟻蔵先生が、肩を落とした。
「どうですか。甲第25号証の電子メールは本物、それが送受信されていないという上司の送信済みフォルダと夏井さんの受信フォルダのスクリーンショットは、上司と夏井さんのパソコンからそのメールを削除して撮ったもの、甲第25号証の電子メールと矛盾する熱三電機提出の4通の電子メールは訴訟提起後に偽造されたもの、ということになるんじゃないですか」
「被告代理人、今の原告代理人からの指摘に対して、反論はありますか」
 裁判官が目を見開いて、問いただした。
「いや、私は、その…」
 蟻蔵先生は、しどろもどろになり、意味のある言葉を継ぐことができなかった。

2.アリバイ

「事件の話としてはここまでですが、裁判官には、少し、雑談に付き合ってもらってよろしいでしょうか」
「何ですか」
「蟻蔵先生に、私の頭がよく回るようにしていただいたお礼を申し上げようと思って」
「何を言う。私が玉澤先生の襲撃の犯人だというんですか。濡れ衣も甚だしい」
「いや、もちろん、先生が犯人だなんて言いませんよ。第一、先生にはアリバイがある。そうですね」
「あぁ、その日の夜、私は成田空港に娘を迎えに行っていた」
「狩野さん、ちょっと見せてくれる?」
 私はスマホで蟻蔵先生のfacebookのアカウントを表示し、3月22日午後11時24分を表示する成田空港の電光掲示板の前で蟻蔵先生が腰に手をやって尊大な態度で写っている写真を、裁判官に示した。
「成田にいた私が、都内の玉澤先生の事務所前で玉澤先生を襲撃するなんてことはおよそあり得ないでしょう」
「そうですね。日付と時刻がともに表示される電光掲示板は意外に少なくてね。それを探して成田まで行かれたわけではないでしょうが…それはさておき、蟻蔵先生がfacebookのアカウントを開設して以来それまでに、今自分はここにいるという写真を掲載したことは一度もなかったんですね」
 蟻蔵先生の表情が曇る。
「一度もなかったというわけでは…」
「私たちは蟻蔵先生と友達じゃないから、友達限定公開ではそういう写真があるのかなと思って、蟻蔵先生のfacebook友達にも協力してもらって、蟻蔵先生のこれまでの全投稿をチェックさせてもらいましたが、一度もなかったですね。この日は、突然気が変わられたんですか」
 蟻蔵先生が汗をかき始めた。
「いや、玉澤先生が襲われたというので、敵対している私にあらぬ疑いをかけられては、と思って、念のために…」
「そうですか。でもね、私が襲われたのは3月22日の午後11時22分48秒だそうです。で、それをメディアが報じたのは、一番早い社で翌23日の午前5時なんですよ。ところが、蟻蔵先生の投稿は3月22日のうちになされている。facebookに照会すれば、3月22日の何時かもわかるでしょうけど。どちらにしても、3月22日のうちに私の襲撃を知っていたメディアはない。それなのに、蟻蔵先生は3月22日のうちに私が襲撃されたことを知っていた。あるいはこの日、蟻蔵先生は私が襲撃されることを予め知っていたということの方が適切かも知れませんが…」
「私は、いや、そんなことは、私は…」
 蟻蔵先生は脂汗をかき、ますますしどろもどろになるばかりであった。
 海山さんは、その間、ひと言もしゃべらずにうつむいていた。

3.和解

「裁判所としては、ここでこの裁判の進行について、双方から個別に意見を伺いたいと考えます」
 裁判官は、蟻蔵先生をにらみつけるように言って、私たちを残して、被告側、熱三電機側を部屋から追い出した。
「玉澤先生、ご主張はよく理解しました。その上で夏井さんにお聞きしたいのですが、あなたは、現在も、被告に復職したいとお考えですか。それとも合意退職で金銭解決もお考えでしょうか」
「この裁判を通じて、証拠の偽造までして、また玉澤先生を襲ったり私にもさまざまな形で不法な圧力をかける会社の姿勢を見て、一面ではこういう会社を放置できない、性根をたたき直したいという気持ちもないではないですが、正直、嫌気がさした方が強いです。会社にお灸を据えるような金額になるのでしたら、金銭解決も有りかも知れません」
「どれくらいの金額なら、納得できますか。夏井さんがあと数年で定年という歳なら、定年までの賃金という考え方もあるかと思いますが、まだ30代ですから、さすがにそういうわけにもいきませんね。ここは一つ提案ですが、年俸の10年分といったところならいかがでしょう」
 裁判官の提示に、玉澤先生は、やや目を見開いたが、黙っていた。
「そうですね。それくらいいただけるのなら、折り合ってもいいです」
 夏井さんが了解したのを受けて裁判官が玉澤先生に微笑む。
「玉澤先生は、納得がいきませんか」
「いや、裁判官からご提案いただけるのは、これまでの経験では年俸の2年分くらいが上限という感じでしたので、大胆なご提案だなと」
「今回の件は特殊な事情がありますからね。もちろん、和解は会社側も承諾しないと成立しませんから断言はできませんが、今、私が判決を書く場合どういう判決になるかをお話ししたら、その判決が『熱三電機事件』というタイトルで判例雑誌に掲載されることに比べれば、金で済むなら10年分でも安いものだとお考えになるんじゃないかと思いますよ」

「玉澤先生、今回のことは、本当に申し訳ありませんでした。玉澤先生を危険な目に遭わせた挙げ句、自分は怖くなって逃げてしまって、本当に恥ずかしい限りです」
 裁判官が、被告側に裁判の進行についての意見を聞いている、実際には和解の説得をしている間、私たちが廊下で待っているとき、夏井さんが玉澤先生に謝り始めた。
「いったい何があったんですか」
 今回の事件の裏側を聞かされていなかった私は、尋ねた。
「あの日、3月22日の夕方、2通の郵便が届いた。1つは夏井さんからのレターパックで、今日話題になった『機密書類』の裏紙に印刷された電子メール。もう1つは知らない人からのものでUSBメモリーが入っていた」
 夏井さんではなく、玉澤先生が話し始める。
「あの…夏井さんからの電子メールのプリントアウトって、先生が襲われた日の夕方に届いたんですか」
 私は、気がかりだったことが出てきたのでつい、口を挟んだ。
「そうだよ」
「実は、私が知らないうちに証拠提出されていたんで、先生が私に知らせないで出したかったのかなって、ちょっと気になってたんです」
「ああ、そうか、いや金曜日の夕方、狩野さんが帰ってから届いて、期日が週明けだったから、とにかくすぐ出さないとと思って、相談する余裕もなかったんだ」
「それならいいんですけど、夏井さんの件では打ち合わせしたことが相手に漏れているような気配があったので、先生は私を疑っているのかと…」
「えっ、どうして狩野さんを疑うの」
 玉澤先生は、きょとんとした表情をした。本当に、私のこと、全然疑ってなかったんだ。安堵感と幸福感で、胸がホワンと暖まった。
「あっ、ならいいんです。話の腰を折って済みませんでした。3月22日の夕方に郵便が届いた話でしたね」
「ああ、USBメモリーの方は、夏井さんからのレターパックに入っていた手紙に社内の協力者が電子メールの偽造の証拠を掴みその証拠を送ってくれると書かれていたので、それだと思って、開こうとしたんだが開けなかった。夏井さんに電話でそう言ったら、熱三電機では秘密保持のために社内のパソコンで作成したファイルは社内のパソコンでしか開けないようになっているというんだ。それじゃあ使えない、週明けの25日朝の次回期日に間に合わないと言ったら、社内の協力者に社内のパソコンを持ち出させるから深夜0時に来てくれと言われた。深夜まで時間があったし、開けてみないと使えるかどうかもわからないUSBメモリーの話は置いて、その前に受け取った電子メールの分だけでも出しておかないとと思って、甲第25号証の電子メールを書証にして、証拠説明書と簡単な準備書面を書いて裁判所と被告代理人にFAXした。何といってももう期日直前だからね。それを済ませて、その他の雑用をいくつかして、USBメモリーを持って事務所を出たら、いきなり、ガツーンだ」
「私は、待ち合わせ場所で待っていたのですが、協力者も来ない、玉澤先生も来ないので、その日はしかたなく帰ったんです。それで翌日、玉澤先生が襲われたことを報道で見て驚きました。その上、事務所の事務員さんから連絡が来たのでUSBメモリーのことを聞いたら、ファイルを開けたと言うしそのUSBメモリーに入っているのが『プライベートなビデオ』だと言われて怖くなりました」
「どうして怖くなったんですか」
「実は、私はゲイで、協力者は恋人なんです。その『プライベートなビデオ』は私たちの、その、性交の場面を撮影したものなんです。それが流出したこと、玉澤先生が持っていた熱三電機の電子メール偽造の証拠が入ったUSBメモリーとそれが入れ替えられたことから、襲撃犯は熱三電機の関係者であるというだけじゃなくて、熱三電機が私の協力者を探知した上で確保したということ、さらにはこれ以上続けると次のターゲットはおまえだというメッセージを私に送ってきたのだと受け止めました。それで怖くなって逃げたんです」
「それで、訴えの取下もしたということですか」
「ええ、裁判を続けていると、私も襲われると思いましたし、それに裁判を続けても玉澤先生もおらず、協力者が提供してくれると約束した偽造の決定的証拠もなしでは、裁判で負けると思いましたから」
(それは、私では勝てないということですね)
 確かにその通りなんですけど、面と向かってそう言われるのは辛い。
「でも、玉澤先生がお元気になられたと聞いて、大丈夫だよと言われて、あぁ自分も頑張らないとと思って、今日出てくることができました」
「ところで、犯人は玉澤先生がUSBメモリーを持って出ると知っていたということなんでしょうか」
「そうだね。さっき狩野さんも言ったように、前々から、熱三電機が夏井さんとの打ち合わせの内容を知っているような対応をするので不思議に思っていたんだ。それで退院してから、この間六条さんにお願いして事務所内を徹底的に調べてもらった。そうしたら、相談室の片隅から盗聴器が発見されたよ。それで私と夏井さんが電話で話すのを聞いて、深夜0時の待ち合わせなら私が出かけるのは午後11時過ぎになりあと5時間はあるということで、いろいろ準備ができたということだろう」
「盗聴器って、いったい誰が」
「法律事務所には、初めてのお客さんが次々来るからね。熱三電機に頼まれて相談者を装って相談に来た人がいたんだろう」
「夏井さんの事件が始まってから来た一度きりの相談者を洗ってみますか。それに3月15日の午後4時に来た、私のミニ三脚を盗んでいったと疑われる相談者も」
「う~ん、相談段階では一々本人確認していないからなぁ。たぶん犯人は偽名で相談して、今頃は高飛びしてるか、悪くすると東京湾に沈んでるとかじゃないか」

「玉澤先生、話がつきました」
 裁判官が廊下まで私たちを呼びに来た。
「そうですか。飲みましたか。ありがとうございます」
 玉澤先生が涼しげに応じる。裁判官も、どこか誇らしげだ。裁判官としては、ある種、正義の鉄槌を下した気分なのだろう。こうして、夏井さんの解雇事件は、人証調べに至らず、玉澤先生史上最高額を更新する解決金で、和解が成立した。

エピローグ 春の心 に続く

 
 この作品は、フィクションであり、実在する人物・団体・事件とは関係ありません。
 写真は、イメージカットであり、本文とは関係ありません。

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