私の読書日記  2011年10月

15.色の不思議世界 小町谷朝生 原書房
 色彩についての研究者である著者の論文集。第1部の「目と脳が作る世界」「感性は色で動く」が総論的な位置づけで「江戸の浅黄と茶色」「在りし日のトキ色」「空はなぜ青いのか」「緑をめぐる色彩誌」「黒の領域」「紫とパープル」と続くタイトルからは総合的な色彩論と期待されますが、論文集ですからそれぞれの論文のつながりは意識されておらず、主として視覚と色彩の認知・認識をめぐる自然科学的・理系的な文章と、専ら社会の中でのその色の位置づけ・評価をめぐる文化的・文系的な文章が混在していて、門外漢には通読はけっこうしんどいものがあります。前者の領域では、色彩認識の脳による加工、つまり視覚器官としての目に入ってきた光情報と脳が認識する色彩のズレについて様々な点から論じています。特に透明な色彩(光)と不透明な色彩(物体の表面)について、空の色に代表される青と光がないことを示す黒では透明な色彩が優越し、物体として認識することが優先される緑は不透明な色彩が優越するなどの指摘は好奇心をそそります。人間の目に見えている色彩と、客観的な世界の状態の違いというテーマは、ある種哲学的でもありますが考えてみるとよくわからない思いがずっと残っています。水晶体白濁等で目が見えない状態で生まれてきた人が手術で目が見えるようになると、最初は透明感が先行して不透明物体を認識できず、その後時間の経過による体験で不透明色彩が認識できるようになる(234〜235ページ)という指摘は興味深く読みました。後者の文化的な考察では、色としては水色に近い浅黄色・浅葱色がなぜ「黄色」という名称を付されたのかとか、赤みのない可視光の最も短波長の「青紫」と短波長の青と長波長の赤の混色である赤みのある「紫」ないし「赤紫」という別系統の色がなぜ日本語では「紫」と一緒にされるのかとか、考えさせられました。しかし、論文集としての読みにくさに加え、著者自身も解明できていないという部分が多くすっきりしないところがあり、横道への逸脱が多くて論旨がまっすぐでないこと、誤植が目に付くことなど残念なところも多い本です。

14.原発報道とメディア 武田徹 講談社現代新書
 福島原発震災をめぐる報道について、ここにいていいという「基本財としての安全・安心」を守ることが大事と主張し、不安を喚起するメディアを批判する本。タイトルからは、過去の原発政策・事故報道や福島原発震災の報道について、具体的に論じたものかと思いましたが、著者の論じ方は基本的に大所高所からというか哲学的なもので、学者の文献の引用が多数なされ、そのある種哲学的なところから抽象的な批判がなされていて、結局どうしろということなのかよくわからない部分も多々見られます。「もしもジャーナリズムの未来に希望があるのだとしたら、それは『基本財としての安全・安心』の実現に向けて社会を導くことができた時ではないか。」(11ページ)、「そうした事情を思うと、『危険』を正しく知ることが安全に繋がるという考え方には、浅薄な主知主義を感じる。たとえばパスカルの『パンセ』に『想像力』と題された一節がある。偉大な哲学者が非常に幅の広い板の上に立っている。その板の上に乗っていれば落ちる危険はない。それは頭ではわかっている。しかし板の下には千尋の谷があるということを知ってしまうと、想像力の中で恐怖が膨らみ、頭では『安全』と知っていても、彼は『不安』に苛まれるようになる。こうしてパスカルは『知ること』によってむしろ『不安』にかられる可能性があるのが人間のリアリティだということを示した。」(61〜62ページ)こういった主張から著者はいったい福島原発震災の報道でどうすべきだといいたいのか、著者はその結論を明示していませんが、これは結局のところ、著者が批判している支配者側に寄り添い「知らしむべからず、寄らしむべし」という態度をとることとどう違うというのか、私には全然理解できませんでした。著者は、この本の中で、「怖がり過ぎ」とともに「怖がらなさ過ぎ」をも批判しています(76〜78ページなど)。しかし、具体的批判は常に原発反対派にのみ向けられています。原発推進派と反対派が妥協しなかったために反対派は絶対安全といったプロパガンダにこだわりより安全な原子炉を選べなかった(30〜33ページ)といい、原発反対派が一定の範囲で原発を容認すべきだったと結論づけています。原発反対派が存在したおかげで原発の運転や改善に緊張感が維持され事故が少なかったという評価も、むしろ原発推進派から時折聞かれますが、この著者はそういう視点は持たないようです。他のジャーナリストに対しては幅広い視野を持てと叱咤しているように読める本ですが。挙げ句の果てはJCO臨界事故で作業員が臨界の危険について知識を持っていなかったことまで反原発運動が原発労働に対して否定的評価をしていたなどとレッテルを貼り「その意味で、この事故に対しては反原発運動も決して無関係ではあり得なかった。」(227ページ)とまで言い募っています。著者はどちらの陣営にも与しない(と明言はしていませんが)姿勢を取っているように書いています(例えば41〜46ページ)が、これらの書きようを見ていると、普通の原発推進派よりも頑迷な推進派に思えます。後半で著者は、放射能の危険を強調するメディアは、放射能以外のリスクをも負いそこにとどまらざるを得ない地元住民や風評被害を受ける生産者等、原発労働者たちの気持ちを踏みにじっているという趣旨のことを指摘しています。そのこと自体は正しい指摘であるとともに、著者のような立場・物言いをしないジャーナリストにも問題意識はすでに共有されていると思いますし、この本のような書き方をしなくても十分伝わるはずです。先に述べたようにかなり極端な(著者はこれを極端と思っていないらしいところが驚きですが)原発反対派批判をしたり、「福島県に原発が作られるようになったのは、地元がそれを求めたことが大きい。」(27ページ)などというそれこそ地元の住民の気持ちを踏みにじっても政府と電力会社を正当化する物言いをする本で、そういうことを言ってもそれは「真実のチカラ」「言葉のチカラ」を持ち得ないと私は思うのですが。

13.リスの生態学 田村典子 東京大学出版会
 多摩森林科学園でリスの研究を続けている著者が学生時代からの30年に及ぶ研究の成果をまとめた本。リスの起源、系統進化、分類といった教科書的記述に続き、交尾行動、音声信号、採食・貯食行動、えさとなる植物とリスの共進化、森林環境とリスの生息といった幅広い研究成果がまとめられています。学者の執筆した専門書にありがちな過去の論文の寄せ集めではなく、書き下ろしで、章の進展が著者の研究の進展の紹介と対応して書かれている(たぶん本当はきれいに対応していないのでしょうけど)ことなどから、専門書としてはかなり読みやすい部類に属すると思われます。たまたま著者が私と同い年ということも、何となく私に親近感を感じさせたのかもしれませんが。著者が研究の初期に主として対象としていた神奈川県で野生化した外来種のクリハラリスでは、他の研究で見られた乱婚よりも乱婚の度合いが激しく雌は生息域をテリトリーとするほぼ全部の雄と交尾し優勢な雄も雌の独占にエネルギーを注がず一定時間威嚇して他の雄を遠ざけると脱落していく様子が綴られています。その理由について、クリハラリスの原産地台湾での観察から子どもたちが生き延びるために天敵のワシ・タカやヘビから協力して身を守る必要があり全ての雄に自分の子どもかもしれないと思わせることが協力を得るのに有利であるという仮説が示され、天敵が少ない日本での行動は数十年では進化の過程では無意味な時間かもとしています。交尾後の雄が外敵を発見したときと同じ音声を発することについては、しばらく雌の動きを止め他の雄も近寄れないようにしてその間に交尾栓を固めて受精確率を上げるための「だまし」であるという仮説を提唱しています。そういうあたりも含め、興味深い話と、研究者の研究、仮説の定立、論証の過程が比較的読みやすく記載されていて、私には楽しく読めました。

12.低炭素社会のデザイン 西岡秀三 岩波新書
 2050年までに二酸化炭素の排出量を現在より70%削減するという日本政府が2008年洞爺湖サミットで宣言した目標の達成と、さらには二酸化炭素排出量を森林・海洋の吸収量以内に収める「排出ゼロ」を目指して低炭素社会へのシナリオを描き、政治的・社会的な決断があればその達成は可能であると説く本。今後日本の人口構成が大幅に高齢化し人口も減少することや産業構造がサービス業にシフトすることからエネルギー需要が減少することに加えて省エネ技術が進歩することを考えれば、エネルギー需要の大幅削減は不可能ではなく、ライフスタイルの変更と技術開発の方向付けを適切に行えばサービスを低下させることなく二酸化炭素排出量を大幅に削減できるというのが、著者の主張のポイントです。今後の社会について、都市集中が進み人々がばりばり働き大いに遊ぶ「活力社会」と、田舎暮らしを尊び家族と過ごす時間を大切にして自然と共生する「ゆとり社会」の2つのシナリオを示し、そのいずれでも低炭素社会は実現できると論じていますが、著者の軸足は活力社会、技術の進歩とその最大限利用の方にあるように見えます。生活レベルを落としてがまんするということはほとんど主張せず、より豊かな生活と技術の発展を謳い、明るい希望を示しつつ、各分野でのコストを考慮した方向付けを論じているため、何となく元気が出てくる本です。大変幅広い分野を論じていて、私には、著者の指摘が適切かどうか判断しかねますが。著者の方向性としては必ずしも脱原発ではないようですが、純粋に二酸化炭素排出削減という観点で見ても、「原子力で減らせる量はそれほど多くはない。例えば、国際原子力機関(IEA)のシナリオでは、削減量のうち原子力の寄与はせいぜい6ポイントにすぎず、省エネルギーで47ポイント、再生可能エネルギーで21ポイントである。原子力がなければ温暖化が防止できないなどといっているのは日本だけである。」(186ページ)と明言されています。地球温暖化問題への対策について、積極的イメージを喚起させてくれる本です。

11.証拠改竄 特捜検事の犯罪 朝日新聞取材班 朝日新聞出版
 朝日新聞が新聞協会賞を受賞した郵便不正事件における大阪地検特捜部の前田検事によるフロッピーディスクのファイルの更新日時データの改竄の調査報道の経緯をまとめた本。冒頭に書かれている朝日新聞大阪本社社会部の検察担当記者が2010年7月のある日に検察のディープスロートから前田検事の改竄を聞き出した経緯というか、そういう人脈をどのように発掘したかが、私には一番興味がありますが、そのあたりはニュースソースの秘匿のため書かれていません。その次に興味を持ったのは、2010年7月に情報を得てから2010年9月21日朝刊での報道までの経緯というか、報道まで2か月かかった事情ですが、そのあたりが読みどころの本かなという気がします。フロッピーディスクの所在探索、業者鑑定などの裏取りという本筋の他に、他社はもちろん社内にも気付かれないよう神経を使い、検察のでっち上げ逮捕を警戒し(「読書が趣味の板橋は書店に入る際、カバンを持ち込むことをやめた。何者かに本をしのばされ、万引で逮捕されることまで考えた」(102ページ)って・・・)といったあたりも興味深いですが、私は、職業柄、改竄対象文書の作成者である上村被告人の弁護人の心理というか思惑というか揺れる思いというかが気になりました。あくまでも朝日新聞記者の目で書かれているので、隔靴掻痒の感のある部分もありますし、朝日新聞としての配慮もあるように感じられますが、歴史に残る事件の経緯を記したものとして一読に値するかと思います。

10.大学教授という仕事 杉原厚吉 水曜社
 大学教授の研究、教育、管理業務、論文執筆、学会運営、出版等の仕事の手順とおもしろさ、悩み等について説明した本。給料を保証されつつ一国一城の主としてやりたい仕事を選択できるという大学教授の基本的メリットと、教育の仕方を習ったこともないのにやらねばならない授業や研究のための科研費等の資金獲得・予算折衝、大学の管理業務や学会での運営や論文査読等の大学教授・研究者として年を経るとやらざるを得ない仕事の苦労が語られています。管理運営業務は、弁護士でいえば弁護士会の会務(委員会の委員とか委員長とか)みたいな感覚なんでしょうね。年齢が上がるにつれて次々と降り注いできて解放されないから終わる日を指折り数えていたのでは身が持たない、いつも何かやらざるを得ないと割り切らざるを得なくなる、そう割り切るとそれほどいやな仕事ではなくなってくる(84〜85ページ)という話、傾聴しておきましょう。私はそういう心境にはなれませんが。好きな研究を続けるためにも、資金獲得や成果・キャリアのためや、さらには院生の教育のためにも、本当にやりたい研究テーマの他に短期に確実に論文にできる研究テーマを常に多数(少なくとも担当する院生の数)持っていなければならないというのを聞くと、大学の先生もけっこう悩ましい商売だなと思えます。どんな仕事でもおもしろいばかりの仕事はないでしょうけども。「面談の約束をすっぽかす学生の中には、自分のスケジュールを記入して管理する手帳の類を持っていない者が少なからずいる」「手帳を持っていない学生に初めて出会ったときは、とても驚いたが、二人目からは約束をすっぽかされた理由がはっきりして、むしろすっきりした」(51ページ)っていう話はちょっと気になりました。社会人にも何の連絡もなく約束をすっぽかす人が時々いるんですよね。私はそういう人についてはその後相談等には応じないことにしていますが、そういう人も手帳を持たないのでしょうか。

09.ウィキリークス以後の日本 上杉隆 光文社新書
 世界のメディアが評価するのと対照的に政治家・官僚と一緒になってウィキリークスをいかがわしい暴露サイトと扱い発表内容の裏付けの確認不足や情報の公表により登場する人物への攻撃がなされる危険性ばかり強調したがる日本のマスコミの姿勢を批判する本。ウィキリークスの紹介部分は半分くらいで、システムとしてはログを残さないことなどによって内部告発者の匿名性を守るシステムであることや、ウィキリークス側でも大手の新聞社等との連携で裏付けを取る姿勢を見せておりこれまで誤報と確認された例はないこと、代表のアサーンジの性的暴行容疑の内容(セックス自体は合意の上でむしろ女性側がアプローチしたものであるが、女性側がコンドームの使用を求めたのにアサーンジがコンドームを使用しなかったことが問題となっている:14〜15ページ、67〜70ページ)と異例の国際指名手配をしたスウェーデン政府と逮捕したイギリス政府の対応の異常ぶりなどが紹介されています。しかし、著者の関心は、権力者にとって隠しておきたい国民や大衆に知られたくない情報を暴き白日の下に晒すことこそジャーナリズムの使命であり本業であるはずで、ウィキリークスの発表は政府や官僚からは非難されるであろうがマスメディアからは賞賛されるべきことでその情報が不確かなら自ら検証して報道するのがマスコミの仕事であるはずなのに、政府・官僚と一緒になってウィキリークスを貶めることに血道を上げる日本のマスコミの異常さと、それが著者の長年の主張である閉鎖的な記者クラブを通じた大本営発表を垂れ流してきた体質に根ざすものという点にあります。公益通報者保護法という法律は作られたものの、公益通報(内部告発)はまずは勤務先が設けた窓口に、そうでなければ監督官庁に、マスコミへの通報は最後の手段という位置づけで、実質的には内部告発潰し法という趣ですし、内部告発を受けた監督官庁はというと東京電力の原発圧力容器ひび割れ隠しの内部告発を受けた保安院はあろうことかその内部告発者の身元を東京電力に通知するという、そういうお国柄で、内部告発自体けしからんという風土ですからね、というところでしょうか。でも、諸外国ではウィキリークスの刺激を受けて、次々と内部告発サイトが誕生しているそうですし(197〜200ページ)、Facebookもtwitterもユーストリームも日本でもかなり定着してきています。日本のマスコミがいつまでも覚醒せず政治家・官僚とのなれ合いを続けていたとしても、チュニジアのジャスミン革命を支えた情報流出と人々の連帯を作るツールは否応なく日本社会にも浸透してきている、その自覚とメディアリテラシーを持ちましょうねというメッセージを受け取っておきましょう。

08.放射線からママと子どもを守る本 野口邦和 法研
 放射線防護学の専門家の立場から、福島原発震災後の「関係各所の安易な安全発言」を批判しつつ、被曝低減のための生活上の注意・対策を説明した本。「どんなに低い放射線量であろうと発がんの可能性はゼロではない」(27ページ)、「放射線を浴びる量は限りなくゼロ、が基本です」(28ページ)という立場から、安全基準は「これ以下なら絶対安全という基準ではなく、このくらいなら気にしなくて大丈夫、がまんできるという意味合いの値です」(30ページ)という基本的な姿勢を冒頭で示し、安全と言い過ぎないように気を遣って書いている部分も相当に見られます。もっともこの冒頭段階でも「がまんできる」って誰が評価してるの?「住民のみなさん、申し訳ないけどがまんしてください」じゃないの?って疑問を感じますし、飲食物についての暫定規制値については「十分に安全性を見込んだもの」(48ページ)、「仮にこれらの値の限度ギリギリの水を1日1kg飲んだとすると、200万人のうち一人くらいが将来がんで死亡するかもしれないという確率になります」(53ページ)、「暫定規制値は十分に安全側に立ち、余裕をもって決められています。仮に暫定規制値の限度ギリギリの放射性物質を含む食品を1日1kg食べたとしても、200万人のうち、1人くらいが将来がんで死亡するという確率です」(93ページ)と、度々安全を強調しています。ここでいわれているリスク係数はICRP(国際放射線防護委員会)が現在認めている数値によっているもので、この本で触れられている「チェルノブイリ事故のあと、各種がんの発生率は10倍に増えたという調査もあります」「チェルノブイリでは放射線被ばくによる免疫力の低下が呼吸器系疾患を、放射性セシウムの内部被ばくが心臓血管系疾患を増やしているという研究結果も公表されています」(114〜115ページ)というような研究成果を反映していないものだと思います。行政がチェックしているから市場で出回っている食品は安全だという趣旨の記載が続いている(90〜95ページ)ことも含め、学者として良心的に書こうという姿勢を見せつつも、結局は原子力を推進してきた側で得られた知見と行政への信頼をベースにした本になっているように、私には感じられます。またこの本の日常生活での被曝についての想定は、執筆時点(2011年6月)で福島第一原発から新たな放射性物質放出は新たな爆発がない限りはない、放射性ヨウ素の問題は(半減期が短いので)すでに解決済み(107ページ)、プルトニウムはとても重いので遠くまで飛ぶことはあまりない(129ページ)、ストロンチウム90は沸点が高いのですぐに固体化し避難区域から遠くへ飛ぶことはあまりない(152ページ)などを大前提にしています。しかし、今回の福島原発震災では、そういった基本的に原子力推進側の研究者たちが作ってきた「常識」的な知見が次々と覆されています。この本の中でもいわれている海の汚染が魚に影響するまでには時間がかかり半減期が短い放射性ヨウ素が関わってくることはまずないだろうという考えが福島第一原発から70km離れた日立市沖のこうなごから高濃度の放射性ヨウ素が検出された事実により崩れた(88ページ)ことや、2011年8月25日に奥州市の下水道脱水汚泥で突如1kgあたり2300Bqものヨウ素131が検出され(奥州市公式サイト)、東京都でも8月15〜16日にかけて江東区と清瀬市の処理プラントで下水道脱水汚泥から1kgあたり150Bqのヨウ素131が検出され(東京都下水道局のサイト:7月はいずれも1kgあたり数十Bq)、プルトニウムが福島第一原発から45km離れた飯舘村で検出され(2011年9月30日文科省発表)、さらには福島第一原発から250kmも離れた横浜市港北区のマンション屋上の埃から1kgあたり195Bqものストロンチウム90が検出される(朝日新聞2011年10月12日朝刊)などの事実を前にしたとき、従来の放射線防護学の常識を前提に議論をすること自体疑問を持たざるを得ません。こうした方がより安全という部分は、参考にしつつ(公園や校庭の表層の砂・土を剥がして入れ替えることについては、外部被曝の低減策として有効であることはその通りと思いますが、その剥がす工事や剥がした後の砂・土の処理次第では放射性物質が付着した砂等が飛散して新たな内部被曝等のリスクがあると私は思います。そのことがほとんど指摘されないことには、この本以外も含めて疑問を持っていますけど)、安全余裕がある、大丈夫という評価部分にはさらに一歩距離を置いてみた方がいいかなと思います。

07.時こそ今は 太田治子 筑摩書房
 仕事から帰っても愚痴一ついわない優しい夫に10年前近所の人妻が夫が痴漢をしたと主張するのを聞いて疲れた思いがして「別れて下さい」といったらあっさり「分かった」といわれて離婚したことを後悔してきた大学の図書館勤めの58歳の明子が、元夫が台風で増水した川からヘリコプターで救出されたのをテレビで見たことをきっかけに、独り立ちした息子は父親と会っていたことや元夫の女性関係や経歴について知り、考えを改めていく全共闘周辺ノンポリ目覚め小説。結婚生活では、夫が本当はコーヒー党なのに気付かず朝食にはいつもライ麦パンとダージリン、息子が本当はキュウリのぬか漬けが好きなのに一度も家では食べさせたことがないことに象徴されるように、家族のことをよく知ろうともせずに知っていると誤解していて、気に入らないことがあるといつも相手のせいにしてきた明子が、周囲の人たちの人生を聞かされるうちにこだわりから解放されつつ、元全共闘のアジテーターに革命は敗北した、ゲームだったなんていうのは許せない、愛人に産ませた子どもに自分が父と名乗らないのはおかしい、古い、全共闘運動はそういうところを破壊しようとしてたはず、自己批判も自己解体もなくあなたは生きてきたんだなどと言いつのります。ある意味で、成長小説なんだと思うのですが、何らかの実践があるわけでもなく、周囲の人間の過去の話を聞くだけで何か目覚めたように話す明子や他の登場人物も含めた人々の発言は、どこか地に足が付いていない感じがします。そして、元全共闘運動家に対するこういう評価は、運動家の側が自己批判としていうなり、運動に身を投じてその後もバブリーでない生き方をしてきた者が批判するのはよく分かるのですが、当時運動に参加しなかった人が、それもその後も身の処し方についてそれほど考えてこなかった人が当時の運動の幹部・煽動者に対して言いたがることには、疑問を感じます。

06.エグゼクティブ・プロテクション 渡辺容子 講談社
 スルガ警備保障の警備チームを指揮する武道・格闘技の専門家で14歳年下の料理・選択が趣味の武道インストラクターと同居中の八木が、ゲーム機器メーカーのムゲンドーの走る広告塔だが故障が続き不振の笑顔がセールスポイントのマラソン選手日比野真姫の身辺警護を命じられ、銃弾と脅迫状の郵送、日比野のコーチ殺害、恋人の美容師の生首郵送と立て続けに起こる事件に対処していくサスペンス小説。私の目には、この作品の売りはとにかく、主人公の八木のキャラと見えました。クール・ビューティーというか、強くてりりしく、何が起こっても冷静で肝が据わっています。あまりにもかっこよすぎて現実感がありませんが、私が読んだ作品の中で、主人公女性のりりしさという点では「守人シリーズ」のバルサにも匹敵するくらい。作品としてもう少しまとまっていたら読書日記と別に「女の子が楽しく読める読書ガイド」でも紹介したいくらい。八木と同じチームのメンバーは、終盤を除いて全員女性ですが、その会話も関係もキビキビとしてドライでありながら友情を感じさせ、そちらもすごくいい感じです。残念なのは、八木を中心とする警備チームをこれだけりりしく描き上げながら、ストーリーの中心をなす日比野真姫に高橋尚子のイメージをダブらせ過ぎて高橋尚子とのディテールの差異に気を取られるし有名人のイメージに依存して売ろうとする安っぽさを感じてしまうことと、犯人の設定や検挙の経緯が全体のストーリー・構想から見てちゃちいというか尻すぼみで終わっている感じが強いことです。キャラが惹きつけられるだけに、もったいないなぁという感じを強く持ってしまいました。なお、表紙のイラストは色っぽいというかエロっぽいですが、濡れ場はありません。表紙でそういう誤解を与えて売ろうというあたり、安っぽく見えます。

05.グッバイ・ヒーロー 横関大 講談社
 アマチュアバンド「チキン・ランナウェイ」を率いながら、ピザハウスの配達のバイトを続ける伊庭亮太が、ピザハウスの「今月の顔」としてホームページに掲載されていたことから立てこもり事件の犯人から指名を受けてピザの配達に行くこととなり、立てこもり事件の人質になっていたおっさんの身の上を知って放置できずに深入りし、その後も事件の関係者が次々と引き起こす新たな事件に巻き込まれていくなかで、おっさんとの絆を深めていく友情サスペンス小説。 亮太の困っている人を見ると放置できない性格、おっさんの食わせ者ながら律儀で義理堅い性格が、あり得ないでしょって展開の中でもどこかほのぼのさせるところがあり、そこで読ませている感じがします。 全体の4分の3を占める立てこもり事件からの一連の事件が続く第1部の後、数年後に時を移した第2部があり、第1部で積み残した思いの部分が回収され、ホッとするとともに、切ないエンディングにほろりとします。

04.スパイクス あさのあつこ 幻冬舎
 中長距離選手の挫折をきっかけに児童虐待と家族関係に悩む高校生の人間関係ドラマを描いた4年前の作品「ランナー」の続編。「ランナー」は、タイトルから普通の読者が持つ期待を裏切って、陸上競技の試合は最初の挫折した競技会だけでそれ以後一度として出てきませんでしたが、この続編は打って変わって、最後の6ページを除いて最初からずっと主人公加納碧李(あおい)の再出発の記録会の一日です。もっとも、最初の数十ページは登場人物の会話の形で前作のおさらいが続けられ、その後も今回降ってわいたように碧李の強力なライバルとして、全国トップレベルの選手三堂貢が周囲に知られることなく大きな大会でもない記録会に参加するに至った経緯に紙幅を費やし、試合についての描写でも試合の経緯よりも心理描写の方に重きを置いていますし、この作者にしては珍しく試合の経緯についてもフォローし続けてはいますが、クライマックス部分を例によってすっと飛ばしてゴールラインの先に流れています。前作と異なり、スポーツ(陸上競技)そのものをテーマとした作品になっていますが、前作で展開した人間関係のごちゃごちゃした部分の遺産で持たせているきらいもあり、やはり一筋縄ではいかない人間関係の悩みと心情を読ませる作品だなという感じです。はっきりとまだ続編が出るぞという書きぶりですが、いつになるでしょうか。
 前作「ランナー」は2007年10月分で紹介しています。

03.テティスの逆鱗 唯川恵 文藝春秋
 美貌を武器に3度の離婚を乗り越えて女優として女性ファンの憧れを集め続けるが更年期になり衰えを隠しきれなくなった47歳の西嶋條子、出産後夫とセックスレスになりいうことを聞かない4歳児にイライラし同僚の営業マンから告白されて舞い上がる36歳の編集者吉岡多岐江、金持ち男を捕まえることを目標にしつつかつて高校時代に振られた憧れの男への復讐を企てる21歳のキャバクラ嬢沢下莉子、女好きの不動産業経営者の父に見捨てられて母が孤独に死んだことから父親が逆らえないのをいいことに湯水のように金を使い無茶な整形手術を続ける28歳の畑中涼香、そして手術の腕がよく営業的にも成功している美容整形外科医の多田村晶世の5人の美容整形に頼った女たちの心情と行く末を描いた小説。簡単に美しさが手に入り美容整形が癖になった女たちの安易さと執念、愚かしさがテーマになっています。若さと外見の美しさへのこだわりは、それを求める男たちの問題でもあるはずですが、この作品ではそちらへの言及はほとんどありません。整形手術を求め続ける4人とは別に、卓越した技術で顧客の要求を次々と満たし、それで顧客が幸せを勝ち得ることに満足感を持っていた多田村晶世が、手術のレベルを保つために多額の経費を要することから意外に儲からず、顧客の安易で無茶な要求を受け続けるうちに自らの仕事への疑問を募らせていく姿に、考えさせられました。分野は違ってもサービス業のプロの宿命なのかも。

02.肖像権[改訂新版] 大家重夫 太田出版
 肖像権(人が意に反して容貌等を無断で撮影などをされたりその写真等を公表されたりしない権利)についての沿革や法的性質を論じ、裁判例を紹介した本。著者の意見は、狭義の肖像権は人格権に含まれるがプライバシー権とは独立した別の権利であり、パブリシティ権(氏名や肖像の持つ顧客吸引力を独占的に利用する権利:特に有名人について現実に問題となる)は人格権に由来するが人格権とは別の権利と解すべきである、出版物での肖像等の利用はパブリシティ権の対象外とすべきであるという点で、日本の現在の判例の流れと異なっています。過去に書いたものが古くなって改訂する際にありがちとはいえますが、継ぎ接ぎの結果か、読みにくくなり、論旨もわかりにくくなっているように思えます。序章は表題は「肖像保護は写真機の発明に始まる」となっていますが、それに対応する中身はほとんどなく本の構成の説明が中心となっています。他方、なぜか改訂新版あとがきに序章のタイトルにふさわしそうな沿革が説明されていたりします。第5章の「最近の判例の動き」は改訂新版で追加したそうですが、第3章の「パブリシティ権とはどんな権利か」と第4章の「物にパブリシティ権があるか」ですでに紹介済みの判例がほとんどで、ただの繰り返しにしか見えません。著者の主張の出版物での肖像等の利用はパブリシティ権の対象外とすべきとの点も第3章(214ページ)ではそう書いているのに、第5章では「私は、言論、出版、報道の自由の見地から、一律に、パブリシティ権の対象外とした方がいいと一時考えたが」(247ページ)なんて書いていたりして、結局どうなのよと思います。肖像権についての裁判例がたくさん紹介されていることやアメリカやドイツも含めた沿革の話は参考になりますが、裁判例は「並べられている」という感じが強く繰り返しが多く、現時点で裁判例の流れなり傾向を説明するものとしては、まとまっていなくて読みにくいと思います。パブリシティ権についての裁判例はたくさん紹介されているのに、著者の関心はパブリシティ権が人格権に属するのか独立の権利かのほぼ1点のみで、その観点からのみ解説されていて、どういう場合にパブリシティ権侵害となりどういう事情があれば正当化されるのかといった観点からの分析がほとんどないのは、せっかく裁判例を紹介するのに残念だと思ってしまいます。本体の狭義の肖像権の関係でも、撮影等の同意の問題を最初の方で論じているのに、TBSの「みのもんたの朝ズバッ!」で生中継中にゴミ収集車運転手に声をかけて容貌を全国中継したことが肖像権侵害で争われた東京地裁2009年4月14日判決(判例時報2047号136ページ)を紹介していないのは大変残念です。カメラを向けられたことと黙示の同意について興味深い議論ができる事案のはずですが。また裁判例の当事者名の出し方に、統一性とか配慮が感じられないのも、プライバシーを論じる学者、元文部官僚にしては疑問に思いました。個人でも多くの裁判当事者が実名で紹介されているのも今どきの感覚では疑問ですし、私が代理人の事件ですが東京高裁1995年10月17日判決と東京地裁1995年4月14日判決を「妻は×××社員」事件(この本の中では×××部分は会社名がわかる略称)なる名称で紹介しています。この事件の判決では、被疑者の妻の勤務先名を週刊新潮が書いたことがプライバシー侵害として損害賠償を命じられているわけで、その記載することが違法な情報をあえて書くセンスには法律関係者として強い疑問を持ちます(あえて略称を書かなくても本当に「×××」で十分書けるわけですし)。そして、個人の名前は平気で実名で書くのに、なぜか思想調査事件の関西電力は「電力会社」、会長の車椅子写真の掲載が違法とされた事件の武富士は「大手消費者金融」とぼかされています。このあたりのバランス感覚も疑問です。

01.ボヘミアの不思議キャビネット マリー・ルツコスキ 創元推理文庫
 ブリキで作った動物に命を与えるなど金属を自由に操る力を持つ父親ミカル・クロノスがボヘミアの統治者ロドルフォ王子の命令で天候を操る不思議な時計を制作中にほぼ完成したところで同じ物を作れないように目玉をくりぬかれて送り返されてきたことに憤激した12歳の娘ペトラ・クロノスが、プラハの王子の宮廷に召使いとして入り込み王子から父親の目玉を取り返そうとするファンタジー。ペトラの機転、意志の強さ、度胸(無鉄砲というべきでしょうけど)がすがすがしく、またペトラに協力するロマ(ジプシー)たちの思いなどもしみじみとして気持ちよく読めました。ペトラのペットのブリキの蜘蛛アストロフィル、見えない指を持つロマの少年ニールといったサブキャラの設定も、ありがちとも言えますが、まぁいい感じです。この物語の設定では魔法の力があるかどうかは成人年齢の14歳になるまでわからないということになっています(49ページ)。この本の終わりで13歳になったペトラがどうなるかは続編をお楽しみということになっています。ペトラが宮廷の厨房で最初に取り組まされるタマネギと肉で作るナポリ地方独特のジェノベーゼ(168ページ)。訳者も作ってみたいと言っています(350ページ)ので、触発されて、このあいだ、イタメシ屋で見つけていただきましたが、なかなか味わい深い料理でした。拷問かとも思えたペトラには気の毒ですが。

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