子どもにもわかる裁判の話
有罪と無罪の境界線
 刑事裁判(けいじさいばん)で有罪(ゆうざい。罪を犯したということ)の判決(はんけつ)を受けると、罰(ばつ)を受けることになる。それも、刑務所(けいむしょ)に入れられたり、悪くすると死刑(しけい)ということになって殺されてしまう。だから、刑事裁判では、間違いがあると大変だ。
 どういう場合に有罪の判決になり、どういう場合に無罪(むざい。罪を犯していないということ)の判決になればいいかな。実際(じっさい)に罪を犯した人には有罪判決、罪を犯していない人には無罪判決が出ればいい。それは当たり前だけど、人間の判断することだから、完全ということはない。有罪判決を出すときのラインを低く(出しやすく)すれば、どうしても、本当は罪を犯していない人が有罪判決を受けることが出てくるし、高く(出しにくく)すれば、どうしても、実際に罪を犯した人が無罪判決を受けることが出てくるんだ。ちょうどいい高さにしろって? それがわかれば苦労はないよ。結局、実際に罪を犯していない人が有罪判決を受けることがないようにするということを大事に考えるか、実際に罪を犯した人を無罪にしないことを大事に考えるかの難しい選択(せんたく)になってしまう。それがつらいところ。
 人間の歴史(れきし)の中では、理屈(りくつ)としては、実際に罪を犯していない人を有罪にしないことが大事だといわれてきたんだ。そのために第1に、国側の検察官(けんさつかん)が有罪の立証(りっしょう)をすること、つまり検察官が出す証拠で訴えられた被告人(ひこくにん)が有罪だ(罪を犯した)と十分に思えない限りは、無罪になるということが大抵(たいてい)の国で決められている。そして第2に、有罪かどうかを考えるとき、よくわからないことは被告人に有利になるように考えるということが、多くの国で決められている。法律家(ほうりつか)の業界(ぎょうかい。「ギョーカイ」でもいいよ。仲間うちの中ではってこと)の言葉(ことば)では「疑わしきは被告人の利益に(うたがわしきはひこくにんのりえきに)」っていうんだ。どこかで聞いたことあるかな。第3に、1度無罪判決を受けた場合には、被告人はその罪については無実ということになって、それをひっくり返されることはないということが、多くの国で決められている。日本でも、憲法(けんぽう)では、アメリカなどでそういう意味とされているのと同じ言葉になっている(ちょっとまどろっこしい言い方をしている理由は後で話すよ)。
 さて、有罪と無罪の境界線(きょうかいせん)をどこにおくのかという問題は、今の第2の問題なんだ。このラインは、「この被告人は無実なのではないかなという考えも一理(いちり)ある」というときは無罪、というようなところにひかれている。法律家の業界の言葉では「合理的(ごうりてき。理屈に合っているということ)な疑いを残さない」といわれているんだ。でも、こんなばくぜんとしたこといわれたって、わからないよね。こんなスローガンで解決できるなら苦労はないね。
 でも実は、アメリカではこれはものすごくわかりやすい話なんだ。アメリカでは陪審(ばいしん)っていって、くじで選ばれた人が裁判をするってこと話したよね(「だれが裁判をするの」で学級会で決めるやり方と説明したね)。アメリカは州ごとにしくみが少しずつ違うんだけど、ここではアメリカの刑事裁判の大本(おおもと)の話をするからね。アメリカではもともとのしくみでは陪審員(ばいしんいん)が12人で全員一致(ぜんいんいっち)でないと有罪判決を出せないんだ(有罪判決だけじゃなくて無罪判決もだけど)。つまり、12人のうち1人でも「私は無罪だと思う」といい続ける人がいると有罪判決が出せない。どうしてかっていうと、人1人が無罪だと考えているということは、合理的な疑いがあると考えるからなんだ。わかるかな。それがどんな人であっても(もちろん、被告人本人とか、被告人の家族や知人じゃないよ)人がまじめに考えて出した答は合理的だと考えるんだ。まあ、アメリカでも12人の全員一致はラインが高すぎると考えて陪審員の数を減らしたり、全員一致でなくてもいいというように法律を変えた州もあるけどね。
 日本では、同じ言葉を使っているんだけど、こういう考え方はしていない。裁判は最初の1審、それに不満がある場合に行われる2審(高等裁判所:「こうとうさいばんしょ」でするよ)、それでも不満があるときの最高裁(さいこうさい。一番上の裁判所だよ)での裁判と3回まであり得る。刑が重い犯罪の裁判の1審と高等裁判所の裁判は、裁判官が3人(最高裁では裁判官5人)でするんだけど、なんと裁判官3人のうち1人が無罪だと考えても有罪判決を出すことができるんだ。結局「合理的な疑いを残さない」という言葉は、被告人の側でいうことが理屈に合っているとみることもできるかという、理由の書き方の問題にされているんだ。そうすると、合理的か合理的でないかは、考えの違い(大人がよく使う言葉では「主観の相違:しゅかんのそうい」っていうね)ってことでかたづけられてしまう。
 アメリカと比べて日本の刑事裁判は、しくみとして、有罪の判決を出しやすい(無罪の判決は出しにくい)といえるね。
 それから、さっき話した第3の点も、日本とアメリカでは同じ言葉を違うように扱っているんだ。
 アメリカでは、無罪の判決が出たら、国の側つまり検察官は不満(ふまん)でも、上の裁判所にその裁判をやり直すように求めること(控訴:「こうそ」というんだ)はできない。法律家の業界では、被告人を2重の危険にさらさない、というようにいっている。
 日本では、同じことを、無罪判決が「確定(かくてい)」したら、つまり1審、2審、最高裁までいって無罪だったら、と考えて、検察官は控訴できるというようにしているんだ。だから、アメリカと違って、日本では、1審で無罪の判決が出ても被告人は安心できない。
 アメリカと比べて、日本の裁判は、建前(たてまえ)はともかく実際には、罪を犯した人を逃がさないことの方をかなり大事と考えているしくみだね。 
 しくみだけじゃなくて、日本では、起訴(きそ)されたら99.8%以上有罪判決が出ているし、たまに無罪の判決が出ると一部のマスコミは裁判官を名指しで無罪判決を書くことが何か悪いことのようにいったりする。
 2005年4月5日に、「名張(なばり)毒ブドウ酒事件」という1961年に起こった殺人事件で起訴されて無実だといいつづけてきた奥西(おくにし)さんに、最高裁まで行って確定した判決を見直す「再審」(さいしん)を始めるという決定が出た。でも、もともとこの事件では1964年に出た最初の判決は無罪だった。だからアメリカのやり方だったら、この時に裁判は終わって奥西さんは無罪になっていた。ところが日本では検察官が控訴できるので、検察官が控訴して、1969年に逆転有罪の死刑判決が出た。それで無罪判決の後41年間も(死刑判決の後36年間も)奥西さんは裁判を続け、その間死刑にされるのではないかとおびえ続けなければならなかった。
 しかも、日本では、この再審を認めるという決定にも検察官が不服申立(ふふくもうしたて)ができることになっていて、検察官は不服申立をした。2006年12月26日に名古屋高裁は検察官の言い分を認めて、再審を開始する決定を取り消した。奥西さんに対しては、最初の無罪判決の上に2005年4月5日の再審開始決定と、2回も裁判官が無罪方向の判断をしたのに、それでもなお死刑囚の扱いが続くことになった。(その後、2010年4月5日、最高裁が、2006年の名古屋高裁決定は検討が足りないと言って決定を取り消し、再審を開始するかどうかをさらに名古屋高裁で改めて検討することになった。2012年5月25日、名古屋高裁はそれでもやっぱり再審を開始しないと判断し、事件はまた最高裁に行き、2013年10月16日、最高裁が今度はやはり再審を開始しないと判断し、開きかけた再審への扉はまたしても奥西さんの前で閉じられてしまった。)奥西さんは、結局、最初の逮捕の後、1審の無罪判決から2審の逆転有罪判決までの4年9か月ほどの間を除いて、合計49年と9か月あまりを監獄(かんごく。刑を受ける人や刑事裁判中の人を閉じ込めておくところ)に閉じ込められて過ごし、2015年10月4日、監獄の中で亡くなり、その生涯(しょうがい)を終えてしまった。

 2012年6月7日、「東電(とうでん)OL(オーエル:はたらく女の人って意味だよ)殺人事件」という1997年に起こった殺人事件で、無実だと主張し続けてきたネパール人のマイナリさんに、再審を開始するという決定が出された。この事件でも、2000年に出た最初の判決は無罪だった。マイナリさんはこのとき日本にいるための許可が期限切れになっていたのでネパールに帰されるはずだったのを、検察官が控訴した上に、東京高裁に無罪判決を受けた人を改めて拘束することを求め、東京高裁がそれを認めるというものすごく珍しいことがあって、マイナリさんは無罪判決後も拘束され続けた。そういうことをやる裁判所だから、最初から結論は予測できたともいえるけど、東京高裁では逆転有罪の判決が出され、マイナリさんは無期懲役(ずっと刑務所に入れておくということ)の刑になった。今回東京高裁(同じく「東京高裁」だけど、逆転有罪判決を出したのとは別の裁判官だよ。1つの裁判所にも裁判官は何人もいるし、時期もずいぶん違うからね)は再審を始めるという決定と一緒にマイナリさんの無期懲役の刑を停止する決定も出した。そのためにマイナリさんは、2012年6月15日、日本を出国してネパールに帰ることができた。
 今回の再審を始めるという決定に対しても検察官は不服申立をしたが、2012年7月31日、東京高裁の別の部が検察の不服申立を退けた(最高裁の負担を軽くするために、高等裁判所が出した再審開始決定への不服申立は同じ高等裁判所の別の部がまず判断することになっている。名張毒ブドウ酒事件での名古屋高裁の再審開始決定に対する検察官の不服申立を名古屋高裁の別の部が認めたのも、そういう制度だったから。2度目の高裁の決定に対しても結局最高裁に不服申立されることが多いから、あまり最高裁の負担を軽くする意味はないんだけどね)。今度は、検察官が最高裁への不服申立はあきらめたので、ようやくマイナリさんの再審が始められ、2012年11月7日、マイナリさんは再審で無罪となった。
 今回、マイナリさんの再審が始められるかも最終的に決まらないうちに刑務所から釈放されてマイナリさんが帰国したことには、おかしいという意見もある。でも、日本の制度でも、ふつうに進んでいれば、2000年の無罪判決の時にマイナリさんは帰国していたはず(日本では検察官が控訴できるから高裁で逆転有罪の判決が出ることがあり得るとしても、それまでは自由の身でいられたはず。奥西さんも、1審の無罪判決で釈放(しゃくほう。閉じ込めていたところから外に出すこと)され、2審で逆転有罪判決が出るまでは自由の身だった。アメリカの制度なら、そもそも無罪判決が一度出ればその後で有罪にされることなんてあり得ないけど)。そのときにマイナリさんを拘束したことの方が異常だったのだと思う。
 有罪か無罪かの判断だけじゃなくて、無実かもしれない人を長い間拘束していいかということも、刑事裁判を考える上でとても大事なことなんだ。
 マイナリさんの無罪を確定した今回の判決では、検察官が再審を始める直前に出してきた被害者(ひがいしゃ)の爪についていたものが被害者でもマイナリさんでもない人のものだという鑑定(かんてい。専門家(せんもんか)の判断ってことだね)が決定的な証拠の1つとされている。この鑑定結果を見て、検察官もあきらめて、マイナリさんは無罪だと認めた。この事件で被害者は首をしめて殺されていて、人は首をしめられると苦しいから首をしめている手をはずそうとしたりするときに犯人に爪を立てたりひっかいたりすることが多い。だから、首をしめて殺された殺人事件のミステリー小説では、警察が一番最初に気にするのは被害者の爪についているものの鑑定結果だ。そんなことはしろうとでも知っていることなんだ。そんな誰でも注目するだいじなものを、検察官は事件から15年もたって再審が始まることが決まってから初めて鑑定したというんだ。それが本当なのか、もし本当ならどうしてそんなことになったのか、よく調べてみる必要があると思う。被告人に有利な証拠、それも決定的な証拠を検察官が長い間隠し持ったままでいられる、こういうしくみでいいのだろうか。アメリカでは、こういう証拠をボランティアの団体が検察官から受け取って専門家に鑑定してもらっているらしい。その鑑定の結果でこれまでに100人以上の死刑囚が無実だとわかって釈放されているそうだ。検察官が持ったまま裁判所に出さない証拠の中に本当は被告人に有利な証拠があるとき、また被告人に有利な証拠があるという疑いがあるときにどうするか、検察官の良心だけを信じて待つのがいいかということも、刑事裁判のあり方を考える上でとても大事なことだと思う。
 刑事裁判のしくみの違いで、同じことが全然(ぜんぜん)違う扱いを受けるんだ。どちらのしくみがいいのか、どう考えるにしても、違うしくみもあり得るんだってこと、よく考えてみてね。

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