庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

    ◆ハリー・ポッターの謎
  ハリー・ポッターはいつの話?

 おお、なんと、最初の質問なのにわしは答えてやることができん・・・
 ん?この質問に対するハリー・ポッターマニアの標準的な答は、ほとんど首無しニックことニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿の絶命日が1492年10月31日(秘密の部屋198頁)でハリーが2年生のハロウィーンの日に500年目であったからハリー・ポッターの2年生の時は1992年9月から1993年6月になる(従ってハリー・ポッターの生まれ年は1980年)というもの。明確じゃないかって?
 「秘密の部屋」だけ見ればそうだけど、他の話はそれと合わない。はずだった・・・
 まず、「賢者の石」。ハリーの両親が殺された日はハリーが1歳になったばかりのハロウィーン(賢者の石86頁)つまり10月31日。その翌日(賢者の石21頁参照)が火曜日と明記されている(賢者の石7頁)からハリーの両親が殺された10月31日は月曜日だったことになる。その10年後のハリーが11歳になる誕生日は火曜日と、これも明記されている(賢者の石67頁)。そしてハリー・ポッターの誕生日は7月31日(賢者の石209頁〜210頁)。ある年の10月31日から10年後の7月31日までの日数は閏年が2回入るか3回入るかによって3560日か3561日(厳密に言えば00年が入ると閏年1回ということもあり得るが)。これを7で割ると余りは4日か5日。だから10月31日が月曜日なら10年後の7月31日は金曜日か土曜日(もしも閏年が1回だけなら木曜日)以外にはあり得ない。従って、この条件を満たす年はあり得ない。
 さらに「アズカバンの囚人」。「秘密の部屋」が1992年から1993年とするとハリーが3年生の時は1993年9月から1994年6月になるはず。せっかく捕まえたピーター・ペティグリューをルーピンが狼男に変身してしまったために取り逃がす事件が起こったのは、6月6日深夜(危険生物処理委員会の執行文書に明記されている:アズカバンの囚人524頁)。ところが、1994年、スコットランド地方では6月7日午前0時の月齢は27.3。つまりほとんど新月。しかも、1994年6月6日の月没が午後6時台で6月7日の月の出が午前2時過ぎ。だから事件が起こる6月6日午後11時台には月は出ていない。これではルーピン先生は狼男に変身できない。
 「炎のゴブレット」でも、もし「秘密の部屋」が1992年から1993年とするとハリーの4年生は1994年から1995年のはず。その年の10月30日は金曜日と明記されている(炎のゴブレット上365頁)が、1994年10月30日は日曜日。
 「謎のプリンス」では、「秘密の部屋」が1992年から1993年なら1997年3月1日になるロンの誕生日が、それに合致する土曜日になっている(謎のプリンス下103頁、112頁)。しかし、4月21日の姿現わし試験(謎のプリンス下192〜193頁)の翌朝の呪文学(謎のプリンス下298頁)の後の自由時間に談話室に戻るとケイティが戻ってきていて、ケイティは「月曜日に『聖マンゴ』から退院したんだけど、2、3日パパやママと家で一緒に過ごして、今朝、戻ってきたの」と言っている(謎のプリンス下300頁)。1997年4月22日は火曜日なので、月曜に退院して2、3日過ごして戻ってきたら曜日があわない。
 「賢者の石」では魔法の話だから、舞台を「いつでもない時」に設定したと理解できた。しかし、「秘密の部屋」ではその方針が転換された。「アズカバンの囚人」では再度方針転換か・・・「アズカバンの囚人」ではハリーの誕生日(7月31日)にマージ叔母さんがやってきて1週間滞在してその最終日にハリーがマージ叔母さんをふくらませて逃亡し漏れ鍋についた段階でハリーの夏休み(8月31日まで)があと2週間とされている(アズカバンの囚人60頁、64頁)など魔法界独特の時間感覚も示されていることも考え合わせると、ローリングは時間の問題にはかなりおおらかだと考えた方がいいのかも。と考えていたのだけど・・・
 ところが、「死の秘宝」で、ローリングは再度、「秘密の部屋」の線に戻り、この上なく明確にジェームズとリリーの絶命日を1981年10月31日と明記した(死の秘宝上478頁、485頁、UK版268頁、272頁)(ついでにジェームズの誕生日は1960年3月27日、リリーの誕生日は1960年1月30日とされている:死の秘宝上478頁、UK版268頁。2人とも私と同い年だったのね)。最後になってハリ−・ポッターの話の時期は明らかにされ、答としてはハリー・ポッターの生まれた日は1980年7月31日、ホグワーツ入学は1991年9月に決まったけど、それなら「賢者の石」をはじめとしてあわない曜日は何?「アズカバンの囚人」のルーピン先生の変身は(その日は月が出ていない!)?という疑問が残る。誰か答えてくれる人はいるだろうか・・・
追伸(2007.9.2。2008.7.26更新)
 the Deathly Hallowsでハリー・ポッターシリーズが完結した後、ローリングの公式サイト(当時)の「今月の魔法使い」で2007年9月ついにアルバス・ダンブルドアが登場(5月からホグワーツの創始者が順次登場し、もう終わりかとも思えたが)。そこでは、ダンブルドアの生まれが1881年、死亡が1996年とされている。「謎のプリンス」でダンブルドアが死んだのは年が明けてからなので上の公式見解からすれば1997年のはず。またしても新たな謎が・・・
(「死の秘宝」ではハリーに「ダンブルドアは、スネイプが止めを刺す前に、もう死んでいたのだ。」と言わせている(死の秘宝下532頁)。それがゴーントの指輪=蘇りの石=分霊箱の呪いを受けたとき(死の秘宝下440〜441頁)にすでに死んでいたという意味だとすれば、1996年死亡説が成り立つことにもなる。しかし、もしそうだとすれば、「ダンブルドアは、自分の死に方を選んだのだ。死ぬ何ヶ月も前に選んだのだ。」(死の秘宝下531頁)「ダンブルドアの死は二人の間で計画されていたことなんだ!」(死の秘宝下535頁)という発言と矛盾するし、またその場合「ダンブルドアの意思に反して杖を奪った」(死の秘宝下535頁)のはマルフォイではなく分霊箱の呪いをかけた人物=ヴォルデモートになっていまい、「ニワトコの杖」の真の所有者というストーリーの中枢まで影響することになるから、やはり死亡時期は1996年にはできないはず)
追伸(2008.1.7。2008.1.8、2008.7.26更新)
 ローリングの公式サイト(当時)の「開かずの間」で最近公開された(扉の「逆転時計」の表示によれば2007年12月29日に公開されたようになっている)家系図ではフレッドが1997年死亡(d.1997)とされている。「死の秘宝」でフレッドが死んだのはホグワーツの戦い(the battle of Hogwarts)の最中(死の秘宝下374頁、UK版512頁)。そのホグワーツの戦いは、グリンゴッツへの侵入が5月(死の秘宝下202頁)でそれより後なので、少なくとも年が明けてからであることが明らか。そうするとフレッドが死んだのは、上の公式見解からすれば当然1998年のはず。やはり、ローリングは時間の問題にはかなりアバウトというしか・・・
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注:ローリングの公式サイトの引用について
 シリーズが完結した後、ローリングの公式サイトをチェックしていませんでしたが、いつのまにかローリングの公式サイトが全面リニューアルされて、ハリー・ポッターに関する詳細情報が抹消されていました。その当時の公式サイトの説明(これもさらにリニューアルされた現在の公式サイトでは、もう見当たりません)によれば、ハリー・ポッターに関する詳細な資料は「potter more」に移されたということですから、引用した内容は、たぶん「potter more」のどこかにあると思います。しかし、「potter more」はメンバー登録してユーザーネームとパスワードを入れてサイン・インしないとみることができないサイトですので、たぶん該当箇所を見つけてリンクを張っても無意味ではないかと思われること、私自身一応登録してみてみましたが、日本語ページはなく、しかも第1巻第1章から順を追ってみていかないと先を見ることができないシステムで、該当箇所を見つけるのにものすごい労力を要することから、かつてリンクしていた記載を特定することができていません(potter more もまた2015年9月にリニューアルされたそうですし、さらに映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」の公開に合わせてそれに関する部分だけは日本語ページもできた模様ですが、その内容まではフォローできていません)。そのため、引用か所についてリンクをしていませんが、以上のような理由ですのでご了承願います。

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