庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「僕らの世界が交わるまで」
ここがポイント
 政治意識に欠けるが背伸びする息子と意識は高いが押しつけがましい母親の反発と和解を描いた作品
    
 DV被害女性のシェルターを経営する母親と音楽ライブ配信に夢中の高校生息子の距離感を描いた映画「僕らの世界が交わるまで」を見てきました。
 公開3日目日曜日、kino cinéma新宿シアター1(294席)午前9時の上映は、1割足らずの入り。雨の日曜日朝という悪条件ですが公開初週末でこのガラガラぶりは…

 自室でギターをかき鳴らして音楽配信し、2万人のフォロワーを誇る高校生のジギー・キャッツ(フィン・ウォルフバード)は、親に配信中はドアを開けるな、静かにしていろと文句を言い、DV被害女性のシェルターを経営する母親エヴリン(ジュリアン・ムーア)からシェルターの補修を頼まれても拒否しつつ、学校にはエヴリンの車で送ってもらっていたが、政治環境問題への意識が高い同級生ライラ(アリーシャ・ボー)に思いを寄せ、ライラが述べた意見に他の同級生が否定的な態度を取ったのを見て自分はライラの意見に同感だと述べるが、どこに同感するのかと聞かれて言葉に詰まり、自分には2万人のフォロワーがいるなどの場違いな答をした。同級生と政治的な議論をしたいがどうすればいいかとエヴリンに問いかけたジギーは、子どものときにはデモにも連れて行っていたがあなたが興味を失い離れていった、議論をしようとするのではなくまず相手の意見をよく聞き学びそして自分の意見を持つべきだ、近道はないと言われ、反発するが、その足でライラの元に行き、自分は子どもの頃からデモや座り込みに参加していたと自慢話をして…というお話。

 自分は作曲時も配信時も大音量でギターをかき鳴らしているのに、同居する両親には静かにしていろと文句を言う、母親の収入に依存して生活し生活費を入れているわけでもないのに母親に対し自分の方が稼いでいると言い放つ(稼いだ金を何に使うと聞かれて配信のための機材等を買うと答え、永久運動(正確な言葉は忘れました)だねと呆れられる)など、視野が狭く経験も不十分なのに自分はイケているというプライドだけは強いジギーが、親に反発するとともに、思いを寄せるライラに対しても自分の視野の狭さ、知識経験不足、自らの思想のなさを顧みず、背伸びをし見栄を張る姿の痛々しさが印象的です。高校生なんてそんなものだよねと思いますが(自分の高校生時代を思い起こせば…自戒を込めて)。
 DV被害女性のシェルターを経営するエヴリンは、社会をよくしたい、被害に遭った虐げられた者を助けたいという意識が強く、また経験もあるのですが、自分の信念でよかれと思うことを実現することに急で、相手からは押しつけがましく思われがちです。デモや座り込みに連れて行った息子から反発され、その代償とも見られる被害女性の息子カイル(ビリー・ブリック)の大学進学サポートもカイルからは押しつけに見えてしまいます。
 もっとも、ノンポリで今や政治問題など関心も持たないジギーが政治環境問題への意識が高いライラを好きになるのも母親への思慕なり敬意によるものでしょうし、ジギーに反抗的態度を示されながらも聞かれれば真摯に答えようとするエヴリンにはジギーを受け入れたいという心情が見えているのですから、この親子には和解の素地が見えています。
 そういったありがちな親子の距離感、反発と和解をシンプルにわかりやすく描いた作品です。

 ジギーの未熟と背伸びの方に焦点を当ててより好意的積極的に作れば「いちご白書」(1970年)のような作品になるのでしょうけれども、そちらには向かいませんでした。時代の違いでもありますが。
(2024.1.21記)

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