庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「天空の蜂」
ここがポイント
 前半はワーカホリックの父親と父親にやや複雑な感情を持つ小学生との父子関係の絆がテーマ
 犯人の動機と真意は、私には今ひとつ理解しにくい

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 原発テロをテーマとしたサスペンス映画「天空の蜂」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時30分の上映は8割くらいの入り。

 1995年8月8日朝、「錦重工」が製造した自衛隊の大型輸送ヘリ「ビッグB」の納品式に見学に訪れたヘリの設計者湯原(江口洋介)の息子高彦がこっそり乗り込んだビッグBが、何者か(綾野剛)に遠隔操作されて飛び立ち、敦賀市にある高速増殖原型炉「新陽」上空800m上空でホバリングを開始した。午前8時、政府に対し、天空の蜂と名乗る者から、すべての原発のタービン棟を破壊して発電不能とすることを要求し、要求が実現しない時は爆発物を搭載したビッグBを新陽の原子炉に墜落させる、燃料切れは早ければ8時間後の午後4時というメッセージが届けられた。湯原は新陽に急行し、錦重工の原発設計者三島(本木雅弘)と議論と対立、協議を重ね、高彦の救出と事件の解決に向けて知恵を絞るが…というお話。

 前半は、家庭を顧みないワーカホリックの父親と、父親に愛想を尽かし心が離れた母親の元で、父親にやや複雑な感情を持つ小学生との父子関係の絆がテーマとなっています。江口洋介の悔恨と焦燥、歓喜の演技は、東野圭吾のガリレオシリーズ主役の福山雅治よりも「そして父になる」っぽいかもしれません。この前半のクライマックスとなる救出劇は、たぶん子持ちの親には、涙なしには見られません。

 技術者としてのこだわりを見せ続ける原発設計者の三島、「新陽」にビッグBが墜落しても格納容器は壊れないと自信を持っていますが、その根拠は何だったのでしょうか。「新陽」のモデルはいうまでもなく「もんじゅ」です(そもそも日本にある高速増殖原型炉って「もんじゅ」だけですし、敦賀市にあるというわけですし)が、「もんじゅ」の格納容器って、設計圧力は内圧で0.5気圧、外圧で0.05気圧。軽水炉(普通の原発)の格納容器の設計圧力が3〜4気圧なのと比べてもかなり貧弱です。設計圧力は航空機墜落の衝撃力耐性と直接には結びつきませんが、もんじゅは航空機防護設計がなされていません(設計上航空機防護が考慮されているのは青森県六ヶ所村の施設だけです)し、ビッグBが落ちてくる上方向(天井)には格納容器の外側のコンクリート壁(遮蔽壁)もなく、建屋の天井の下はすぐ格納容器(上部は厚さ19mm)です。航空機墜落に耐えられるかの評価もされておらず、技術者として、壊れないという根拠はないはずですが。

 犯人の動機と真意、サスペンスの根幹部分ですので、具体的には書きませんが、今ひとつ、この作品では理解しにくい。背景が描写されており、複雑な思いをもっていること自体は理解できるのですが、それが事件での行動と結びつくのか、結果としてどうしたかったのか、ストンと落ちません。映画の尺の関係で描ききれなかった部分があるのか、いずれは原作を読んで考えてみたいところです。

 入館者名簿の書き換え問題、筆跡の同一性がランプで照らしてみるだけですぐ判定できるのか、疑問です。率直に言えば、そんなことで時間を使うよりも入館者名簿の原本の消した跡の復元の方がよほどトライする価値があると思います。
 ラストのビッグBの処理も、あの状況になったら、ミサイルで破壊した方が楽だと思うのですが。

【原作を読んでの追記】(2015.11.3)
 原作では、全体の3割足らずのところで犯人が明かされてしまい、推理小説的な興味よりも犯人の動機と結末がどうなるかへの興味が中心になりますが、映画では犯人の正体を隠し、ミステリー的にしています。犯行動機にあまりフォーカスすると、やはりピンとこないということから、犯人が誰かの方に興味を持たせるのは正解かも知れません。
 原作では、ヘリに乗るのは恵太(湯原の同僚の技師山下の息子)で、湯原の息子高彦は地上に残ります。これを湯原の息子高彦が乗ったことにして、湯原との父子の絆を前半の見せどころにしたのは、映画化での見せ場作りとして正解でしょう。
 原作では、元自衛官の犯人が、警察が踏み込む前に逃走しているのを、映画では大捕物にして爆発や警察官の殉死・流血シーンを作っています。これも映画化用に派手にしたところですが、こちらはちょっとやり過ぎの感があり、むしろ原作通りにやった方がリアリティがあったと思います。その絡みでは、原作では犯行に使われたリモコンがそのまま押収されるのに対して、映画では爆破されて壊れているのを湯原らが修理をしようと必死になるとか、リモコンでビッグBを操作しようとするラストで、原作では湯原が自衛隊ヘリの座席から普通にトライするのに対して、映画ではヘリの乗降口をあけて安全ベルトを外して乗り出しながらというのも、演出過剰に思えました。同様に、三島の子どもの死に方も、原作では踏切で事故か自殺か曖昧なのが、映画では飛び降り自殺で、三島がそれを受け止め損ねてその際に脚に障害を負ったとされているのも、過剰演出と感じられます。
 その他、映画では、犯人が要求する原発を使用不能にする方法が原作では沸騰水型原発は再循環ポンプ、加圧水型原発では蒸気発生器の破壊なのを、どちらもタービン棟の破壊に変えたとか、原作にはない三島がヘリからの子どもの救出方法を提案するシーンを追加し、原作では名古屋空港にいる赤嶺淳子が錦重工業に出社している、赤嶺淳子を妊娠させたとかの変更があります。
 結局、原作を読んでも、犯人の動機は、やはり今ひとつピンときませんでした。
(2015.9.13記、2015.11.3追記)

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