庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「捨てがたき人々」
ここがポイント
 みんながセックスに励む描写は、業というよりも微笑ましい
 勇介の暴力やレイプを、やってしまえば俺の女的に展開させるのは、制作者の良識を疑う

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 人間の欲と業を描いたという映画「捨てがたき人々」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国6館東京では唯一の上映館テアトル新宿(218席)午後1時45分の上映は4割くらいの入り。

 生きるのに飽きたと言って生まれ故郷の五島に帰ってきた無職の中年男狸穴勇介(大森南朋)は、無為に町をふらふらするうちただ一人微笑みかけてきた左頬に大きなアザのある弁当屋の店員岡辺京子(三輪ひとみ)にむりやりキスをして下着の中に手を突っ込み、通りがかった京子の叔母あかね(美保純)に邪魔されて思いを遂げなかったが、翌日弁当屋の前で無視して立ち去ろうとする京子に土下座して、宗教団体の幹部から明るい笑顔を指導されている京子が赦すとお詫びの印と言って夕食に誘い、酔いつぶれた京子を部屋に連れ込んでレイプする。京子は不動産屋と関係を持ち手当をもらっていたが、うちに帰ると京子の母は愛人の男とセックスの真っ最中、叔母の店に行くと叔母もセックスの真っ最中で、行くところがないと自慰の最中の勇介の部屋を訪ねる。俺のこれが欲しいんだろと増長する勇介に京子は簡単に応じ、勇介を宗教団体幹部の社長(田口トモロヲ)に会わせて仕事も紹介し、当座の金まで渡す。2か月がたち、話がしたいと部屋に来た京子をさっそく押し倒す勇介は、子どもができたという京子に、堕ろせと怒鳴り、お前と俺の関係はセックスだけやと宣言する。京子はおばに子どもができたことを相談し、父親が勇介であることを打ち明けると、あかねはあの男はやめとき、あれは腐ったトマトばいと答える。それを盗み聞きしていた勇介は、あかねの店を訪ね腐ったトマトで悪かったなとあかねをレイプし…というお話。

 主人公の行動は、身勝手で女と子どもに対しては居丈高に振る舞い暴力をふるいと、見てて吐き気がし、最後まで共感できません。そういう人物が、海辺を歩きながら、突然「人は、何故この世に生を受けるのでしょうか」などと大声で哲学的な問いかけをするものですから、落差に驚くというか、大きな違和感があります。
 そして、作品のストーリー展開は、京子との関係もあかねとの関係も、むりやりやってしまえば俺の女という、やった者勝ち、まるで女にはレイプ願望があると言わんばかりのもので、制作者の良識を疑います。

 作中登場する人々がみんなセックスに励み、みんなが性欲を露わにしているところが、人間の欲と業を描いているとされるところなのでしょうけれども、「業」というより、微笑ましく思えます。特に京子の母と愛人のおじさん、京子が見ていても全然平気ですし、昼日中からずう〜っとし続けてて、性欲が強いというかすごい絶倫というか。
 あかねが後日勇介にいう「結局人間っちさ、自分が食う、セックスする、金が欲しいっちことから逃げられんとさ」という言葉が、この作品のテーマなのだと思います。ろくでなしにも人生はあるさ、みたいな。
 勇介の暴力や、女はレイプでもやってしまえば勝ちというような部分がなければ、人生論的なところで共感できたかなと思います。ただ性欲が抑えられない、セックス好きというレベルではなく、弱い者に暴力をふるう、自分の性欲を満たすためにレイプまでしてしまう、そういう罪深さを人間の業として描きたかったと、制作サイドは言うのでしょうけれども。
(2014.6.15記)

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