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たぶん週1エッセイ◆
映画「未来を花束にして」
ここがポイント
 強欲な経営者に劣悪な労働条件の下で労働を強いられる労働者の境遇に涙し、その労働者が立ち上がる姿に共感する
 今、こういった破壊活動を/爆弾闘争を伴う運動の正当性を主張する映画がつくられることに驚く
 1910年代のイギリスでの女性参政権運動を担った女性たちを描いた映画「未来を花束にして」を見てきました。
 封切3週目日曜日、メイン上映館のTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は2割足らずの入り。

 1912年のロンドン、洗濯工場で生まれ父は不明(たぶん工場長かと)母は4歳の時に死に、自らは7歳からパートで働き12歳で正社員となり今は24歳の洗濯工場労働者モード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、洗濯物の配達の途中、ショー・ウィンドウに投石し女性参政権を叫ぶ活動家に遭遇し、女性参政権運動を知る。同じ職場に入ってきた活動家のバイオレット・ミラー(アンヌ=マリー・ダフ)に誘われて国会の公聴会での証言を傍聴に行ったモードは突然代わりに自らが証言することになり、聞かれるままに自らの生い立ちと境遇、労働の実情を語る。モードの証言は聴衆の心を打ったが、議会は結局女性参政権を認めなかった。それに抗議する集会に警察が介入し、参加者たちは警官に殴り倒され、モードも逮捕される。釈放されたモードは、難詰する夫サニー(ベン・ウィショー)にもう二度としないと誓うが、女性参政権運動のリーダーエメリン・パンクハースト(メリル・ストリープ)が演説すると聞いて集会に参加し…というお話。

 参政権以前に、強欲な経営者に劣悪な労働条件の下で労働を強いられ、悪辣な職制(工場長)に虐げられ続ける労働者の境遇に涙し、その労働者が立ち上がるというストーリーに共感します。
 薄幸の女性労働者が、能弁に論じるのではなく、言葉少なに憂い/悲しみをたたえた眼で耐え、決意し前進する様子を、キャリー・マリガンが好演しています。私は、「わたしを離さないで」で初めてキャリー・マリガンを見て、諦念と悟りと哀しみに満ちた瞳と表情のすばらしさに感銘を受けたのですが、キャリー・マリガンは、こういう役がはまり役だと思います。
 女性参政権のために立ち上がれと演説するメリル・ストリープも、2017年1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのトランプ批判スピーチを彷彿とさせ(現実の順番はこの作品の収録が先ですが)、はまり役と見えますが…

 エメリン・パンクハーストが投石等の実力行使を指示し、モードたちはポストや大臣の別荘を爆破し、女性参政権を求める者たちの存在をアピールするために破壊活動を行います。今、こういった破壊活動を/爆弾闘争を伴う運動の正当性を主張する映画がつくられることに、驚きました。
 モードたちの活動は、かつて、のちに連合赤軍の一翼となる「革命左派」が行っていた米軍基地に爆弾を仕掛け、それを通じて米軍基地の問題性をアピールしようという「反米愛国」(これが左翼/極左グループのスローガンだったことにも驚きますが)のプロパガンダ闘争とも共通性を持ちます。日本においても、そのような(被害者が出ない)爆弾闘争に相応の共感を示すメディアと民衆がおり、そのメンバーが(交番を襲って、ですが)射殺された葬儀にはかなりの参列者があり警察に批判的な報道がなされた、そういう時代があったのです。思えば、私たちはそこから随分と離れた時代と雰囲気の中にいます。他国では、「テロとの戦争」を絶叫し米軍と「同盟国」軍以外の実力行使を「テロリスト」と名付けて絶対悪視する権力とメディアの風潮の中でも、虐げられた者たちの抵抗の正当性を見ようとする流れもあるということを認識し、時代に流され変容した日本の世論の過去に思いをはせる、そういった契機を与えてくれる作品ともいえるかもしれません。

 エンドロールで、各国での女性参政権の実現の年が紹介されていますが、そこに日本は登場しません。日本の女性参政権(立法は1945年、行使は1946年)は運動で勝ち取ったものではないと評価されたからでしょうか。
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(2017.2.12記)

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