庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「そして父になる」
ここがポイント
 「血のつながりか、共に過ごした時間か。」というけれど、実際に子育てをした父なら交換するという選択はないと、私は思う
 実質的なテーマは、順風満帆のかっこいいエリートに見えながら実は父親失格の良多が、いくつか事件を経て父親の心情を持つに至るという父性の目覚め

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 第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品「そして父になる」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)正午の上映は7割くらいの入り。先週土曜日満席で見られなかったリベンジで上映40分前に行きましたが、その必要もなく余裕でした。

 大手建設会社のエリートサラリーマン野々宮良多(福山雅治)は、土日もなく働き続け、6歳の一人息子慶多(二宮慶多)に対しては負けても悔しがらないおっとりしたところに不満を感じながらピアノとお受験を勧める教育パパだった。ある日、みどり(尾野真千子)が慶多を里帰り出産で産んだ前橋の病院から連絡があり、慶多は同じ日に生まれた別の子どもと取り違えられ、良多・みどり夫婦と親子でないことが判明した。実の息子(黄升R)は群馬で電気店を営む斎木雄大(リリー・フランキー)・ゆかり(真木よう子)夫婦の下で琉晴と名付けられ妹・弟に囲まれのびのびと育っていた。良多はあまり働かず病院からの慰謝料の金額を気にする雄大に反感を持つが、子どもたち同士はすぐに仲良しになる。慶多も琉晴も引き取りたいという良多に雄大・ゆかりは反発し、週末に交換でお泊まりをするうちに、慶多か琉晴かの選択に苦しんだ良多は…というお話。

 「血のつながりか、共に過ごした時間か。」と公式サイトのキャッチにもあるように、子どもの取り違えという事件を素材に、親子関係で血縁(産みの親)と実績ないし想い出(育ての親)のどちらが重要かということが、少なくとも形の上では最大のテーマになっています。
 育てている子が自分の子でないことが後でわかったらというクエスチョンは、母親にはこのケースのような取り違えということでもなかったら起こらないでしょうけれども(人間以外では、カッコウの子を育てるモズとかホトトギスの子を育てるウグイスとかよくあるわけですけど)、父親にとってはままありうることでもあります。
 そういうとき、自分だったらどうするかを考えると、子どもを持つ父親としての経験で考えると、私には、(取り違えてすぐわかった場合は別ですが、何年も育てた後で)今育てているその子を手放すという選択はまったく考えられません。(取り違えではない父親違いの場合、裏切り者の)妻とは別れるとしても、育ててきた子どもの方を手放して血縁のある方の子どもを育てる(子どもを交換する)という選択はあり得ないと思うのですが。映画の中で良多がその選択に悩み続け、病院側は「こういう場合100%交換が選択されている」と説明することには、私は、違和感があったというかまるで信じられない思いでした。もちろん、取り違えられたもう一組の夫婦が交換を強く主張する場合、自分の希望だけで決められるわけではないですが、でも私の感覚では、現実に子を育ててきた親なら同じ選択をする人が多いと思うのですが。双方で話し合って、そのまま育て続けて、子どもが大きくなったときに事情を話し、実は君が6歳の時にそのことがわかったんだけど私は君のことがかわいくてかわいくてとても好きだったからこのまま育てさせてくださいってお願いして君を育ててきたんだ、でももう君も大きくなったから自分の意思で実の親のところに行ってもいい、もちろん私は君と一緒にいたいと思ってる、君には贅沢にも2人の父親と2人の母親がいるんだ、得した気持ちにならないか、みたいな説明をするのが、私の場合、ベストチョイスだと思います。

 ということで、表のテーマの血縁か想い出かの選択は、私にとっては悩むテーマに感じられなかったので、この映画の実質的なテーマは、順風満帆のかっこいいエリートに見えながら実は父親失格の良多が、いくつか事件を経て父親の心情を持つに至るという父性の目覚めにあると見ました。タイトルも「そして父になる」ですし。
 ワーカホリックで子どもと過ごす時間をほとんど作らないでいて、ピアノの発表会でうまくできなかった慶多が上手な子に拍手しているのに対しておまえは悔しくないのかと会場で叱咤するシーンなどに象徴されるように叱ることに重きを置く教育パパの良多は、傲慢なジコチュウにも見え、すごく性格悪く思えます。交換でのお泊まりに来たよその家庭でのびのび育ってきた琉晴にも箸の持ち方が間違っているとか、テレビゲームは1日30分とか一方的にルールを押しつけ、ピアノなど習っていないから鍵盤を掌で叩いてふざけ始める琉晴にいきなり怒鳴り叱りつけるといった具合。お〜い、こいつ6年間も子どもとどういうつきあい方してたんだよって思う。琉晴に突然今日から「パパ」と呼べといい、どうしてと聞く琉晴に「どうしても」って、それこそ子どもかよって思う。せめてそれなら「おじさんはね、琉晴くんのことがとっても好きで、君のパパの気分を味わってみたいんだ」とか、少しでも子どもが何か納得できそうなことを考えればいいのに(この程度じゃまだ無理だとも思いますが)。それに良多、自分は継母になる父の後妻(風吹ジュン)に対して、大人になった今でさえ頑なに「お母さん」と呼ばないで義母を苦しめ続けています。それでどういう神経して、6歳の子どもにはいきなり自分をパパと呼べって言えるんだろう。
 そして極めつけは、父母の元に帰りたくて家出して雄大・ゆかり夫婦の元に戻った琉晴を連れ戻しに行った際、「ご飯も食べさせずに帰せっていうの?」と気色ばむゆかりを無視して子ども部屋に向かい、ただひと言「琉晴、帰るぞ」と怒鳴ります。これを聞いた琉晴はそのまま積み木で遊んでいますが、慶多はしょんぼりと押し入れに隠れてしまいます。せめて「慶多、久しぶりだな。元気にしてるか」くらい言って抱きしめるなり頭なでるでしょ、親なら。ま、良多の頭では、慶多に対しては「親じゃない」んでしょうけど。人間としてどうよ、それって思う。究極の選択に悩む親の立場で涙が出たという観客が多いようですけど、私は良多にはほとんど共感できず、このシーンで慶多の心情を思って涙が出ました。

 終盤、慶多と離れて感情的になっているみどりから良多が「あなた、慶多が私たちの子どもじゃないと知ったとき、なんて言ったか覚えてる?」と問い詰められるシーン。いかにも男女の修羅場の匂いが立ちこめています。こういうとき、まぁ問い詰める方は覚えているから問い詰めるというだけなんでしょうけど、女性側が覚えていて、問い詰められた男は覚えていなくてしどろもどろという場面が多いような気がします。覚えていないと言ったらそれはそれで怒りを買うのでしょうけど、当てずっぽうで答えるとさらなる修羅場が待っています。「母親ならわかったんじゃないかって?」とぼっそりいう良多に、あなたもそういうふうに思ってたのねと嘆くみどり。いやそんなことないよと言いつくろっても時既に遅し。その上で、「あなたは、『やっぱりそういうことだったのか』って言ったのよ」、闘争心に欠ける慶多は自分の子にふさわしくないって思ってたんでしょ、私その言葉を一生忘れない、と案の定とどめを刺されます。こういう展開は、予測できても避けられないのかも。

 弁護士としてみたとき、裁判シーンにも引っかかりがないでもなかったですが、一番印象に残ったのは、良多が大学時代の知人の弁護士のところへ相談に行き、慶多と琉晴の両方を引き取りたいと言った上で、ファイルを引っ張り出してイギリスでは子育てに不適切な親の親権を剥奪できる制度があるようだとか言うシーン。その場で弁護士がそれはかなり極端なケースでこのケースではとても無理と一蹴しますが、こういう相談者時々いるんですよね。ネット情報とかで聞きかじった情報を、具体的な事例とかちゃんと検討しないで自分に都合よく解釈して、弁護士から見たらこのケースにそんなの当てはまる訳ないじゃないと思うものを自分にぴったり当てはまると言い張る。弁護士のところに相談に来ればそれが誤解だとわかるわけですが、弁護士に相談しないでそう思い込んでいる人はその何倍もいるんでしょうね。なお、児童の虐待等があれば親権を喪失させる制度は、別にイギリスだけにある訳じゃなくて、日本にもあります。そういうあたりも含めて、ネット情報でわかった気になっている人がたくさんいるであろう現状(近年弁護士会の法律相談センターへの相談件数はがた減りで、ネット情報などでわかったと思って弁護士に相談しない人が増えているのだと思います)には、一弁護士としても、元第二東京弁護士会法律相談センター運営委員長としても、憂慮しています。
(2013.10.12記)

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