たぶん週1エッセイ◆
映画「さまよう刃」

 東野圭吾のベストセラー小説の映画化「さまよう刃」を見てきました。
 封切り2週目土曜日午前中、6割くらいの入りでした。
 2009年10月17日に見たのですが、この土日は午前中映画を見た後は事務所に直行、夜遅くまで仕事に追われ、月曜日ももともと入っている法廷・来客の合間を縫って集中する電話・メールへの対応に明け暮れて、記事を書く余裕などまるでなく、今頃になってようやく土日に読み終わっていた本と映画の記事を書いています。映画ブログのタイトルを「伊東良徳の映画な週末〜栄華だったらいいのに〜」にしようかと思った時期もあったのですが、優雅な日々は遠い・・・

 作品に関係ない愚痴はさておき、最初に1つ。私はこの映画の原作は読んでいません。かつて某「初めて下野した」新聞に東野圭吾作品の書評まで書いていながらなんだと言われるかもしれませんが(わざわざ自分で墓穴を掘らなくても・・・(^^ゞ)、とにかく読んでいません。
 最初にもう1つ。私も、自分が、中学生の一人娘を薬物で気絶させてレイプされて殺された長峰(寺尾聰)の立場に立ったら、連続強姦犯の未成年伴崎アツヤ(黒田耕平)や菅野カイジ(岡田亮輔)に復讐したいと思うでしょうし、こういう連中はできるだけ重い刑にしてやりたいと思います。
 この映画は、その遺族のやりきれない思い、悔しさ、そして復讐心と、その中での思いを描き、現実にはどうかなとも思いますが、それにほだされた警察官の行動と心情を描いています。そこには共感するものがありますし、感情レベルではよくできていると思います。

 しかし、それだけに、思うのですが、犯罪の被害者や遺族が、非道な犯罪に怒り復讐したいと思い、また加害者にできる限り重い処罰を受けさせたいと思うことは、ごく素直な感情だと思います。と同時に、ごく素直な感情だからそれが実現できる、または実現してよいとは限らない、むしろそうでないことが多いのも人間社会の常です。遺族・被害者も、普通は禁止されたり実現しないことであれば現実にしようとは思わないのが、普通だと思います。ところが、おそらくは本心では被害者のことよりも治安維持の観点から犯罪者に厳罰を科したいタカ派マスコミが、遺族の復讐心を煽り、またメディアで厳罰をと言わせたがり、その結果被害者遺族はそうするのがスタンダードであり、法律の限界まであるいは限界を超えたことでも望んでいいのだという風潮を作ってきたために、そういう願いを抱くのが普通になってきているような気がします。それが、さらに、本当の復讐にまで及ぶとしたら、そういうところにはこの作品のメインテーマにもグロテスクさを感じます。
 そして、最後に長峰が叫ぶ、現在の司法では未成年に極刑は望めない、だから自分が処罰してやるという台詞。これ、やめて欲しかったなと思います。この言葉が現実味を持つケースはあると思います。それ自体は私は否定しません。でも、この映画のケースを前提に言えば、それははっきり誤解です。第一に、法律の規定の問題として言えば、菅野は18歳です(ビデオに映っているのは菅野カイジ18歳と警察がそう言ってましたね)から、死刑を科すことができます。現実の量刑として言えば、このケースで菅野が死刑になることは、現実的には考えにくい(昨今の厳罰化の風潮からすれば、ひょっとしたらわかりませんけど)ですが、それは菅野が未成年だからではなく、殺意が認めがたい(少なくとも殺そうとしていたわけではない)からです。確かに非道な犯罪で、犯情もかなり悪い、最初に言ったように私も遺族だったらこんなヤツ殺してやりたいと思うでしょう。しかし、死者が1人で殺すつもりはなく、認められてもいわゆる未必の故意(死ぬかも知れないと思い、死んだとしても仕方ないと思っていた)レベルならば、成人でも死刑にはまずなりません。だから、このケースは未成年かどうかは関係ないケースです。そういうケースで、まるで少年法に問題があるからこうなるんだ、みたいな問題提起をされると、困ります。この映画でまた、少年法が問題なんだと誤解する人々が増えるのかと思うと、ちょっとうんざりします。

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