たぶん週1エッセイ◆
映画「ノルウェイの森」

 村上春樹の大ヒット小説を映画化した「ノルウェイの森」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、渋東シネタワーでの午前10時20分からの上映は1〜2割の入り。観客層は若者が多数派でした。

 親友だったキズキ(高良健吾)が自殺した後、誰も知人のいない東京で一から始めたいと東京の私立大学に入学したワタナベ(松山ケンイチ)は、偶然東京でキズキの恋人だった直子(菊地凛子)と再会し、一緒に都内を歩くことを繰り返していたが、直子の20歳の誕生日に直子の部屋で突然泣き出した直子をなだめるうちに肉体関係を持ってしまう。その直後、直子はワタナベの前から姿を消してしまう。ワタナベは、学生寮のエリート学生永沢(玉山鉄二)とともにガールハントに出たり、気まぐれで開放的なミドリ(水原希子)と知り合いミドリの部屋に行ってミドリと唇を重ねたりしていたが、直子からの手紙で直子が心を病み京都の山奥の療養所にいることを知り、療養所を訪ねる。療養所で同室者のレイコ(霧島レイカ)と親密な雰囲気を漂わせながら、直子はワタナベに自分は全然濡れないのでセックスができない、20歳の誕生日だけが例外だった、キズキとも何度もしようとしたができなかったことを告白し、手でしてあげるという。東京に帰るとワタナベはミドリに連絡を取ってデートし、永沢と連れだって出かける。しかし冬にはまた京都に行き、直子に東京で一緒に暮らそうと語り、また東京に帰るとワタナベはミドリとデートし・・・というお話。

 原作の雰囲気はよくイメージさせていると思うのですが、説明・エピソードをかなり省略しているために、人物像や人間関係が薄っぺらく感じられ、また行動やエピソードの連続感が損なわれている感じがします。
 原作でもワタナベの女性関係の成り行き任せでなし崩しのイメージはありますが、経緯が省かれて、しかしHシーンはほぼ全部押さえている(10月の京都の場面では原作にないHシーンまで追加されている)ので、ワタナベの行動が原作以上に無節操で手当たり次第感が強まっています。特にレイコ関係は途中経過をほぼ全部そぎ落としているのでかなり唐突な感じがします(療養所でのレイコとのエピソードを全部切っているので、ラスト付近のレイコとの関係も落とすのかと思っていましたが、それだけはきっちりあってビックリしました)。
 直子についても、姉の自殺を目の当たりにしたトラウマが落とされているので、心を病んだ経緯の印象が違いますし、レイコと同様に療養所でのエピソードがかなりカットされている(逆に言えば原作の方が療養所でのエピソードが不釣り合いに長いともいえますが)ために行動が不連続で不自然に感じ、そのために観客が心の病のために不自然な違和感のある行動を取っていると読む結果に導くことになる印象を持ちました(時間不足をそこに逃げているような感じもしました)。
 ミドリに至っては、端役扱いになって、ただ小悪魔的なファム・ファタルの役割にとどまり、ミドリ自身のキャラが十分に描かれていないように感じてしまいました。

 菊地凛子が直子役ということで、当然にあると思えた京都の療養所での最初の夜に直子がワタナベの前で全裸になるシーンが、カットされて、キスシーンに差し替えられています。前作「ナイト・トーキョー・デイ」で過剰なほどに脱ぎ続けた菊地凛子がためらったとは思えないのですが。「直子の肉体はあまりにも美しく完成されていた」(原作文庫版上巻271ページ)にびびったのでしょうか?
 ワタナベがミドリの部屋に初めて行くときに持っていった花が水仙じゃないのもどうしてかなと思います。火事のエピソードを落としているとかは時間の制約と理解できますが、花が水仙か別の花かで時間が延びるでなし。別にどっちだっていいのですが、そういうところに手抜きを感じてしまいます。
 登場人物が、男性は全員ズボンにベルトをしてシャツをインしているとかいうあたりは、ちゃんと時代を反映していますけどね。

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