たぶん週1エッセイ◆
映画「ミスター・ノーバディ」
ここがポイント
 枠組は大仕掛けだが、パラレルワールドの分岐点が9歳児にほぼ限定され羊頭狗肉感
 何が真実かが問いかけられるが、見え見えに思える

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 人生の選択をめぐるたらればパラレルワールドノスタルジー映画「ミスター・ノーバディ」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、全国5館、東京23区では唯一の上映館のヒューマントラストシネマ渋谷の午前10時の上映はほぼ満席。観客の年齢層はばらけてましたが、なぜか同性の組み合わせが多く、若者カップルは少数でした。

 2092年、人間が不死を獲得し、最後の「死ぬ」人間となった118歳のニモの最期に注目が集まっていた。ニモにインタビューするため病院に忍び込んだ記者を前に、ニモは過去を語り始めるが、ニモの話は、9歳で両親の離別に際して父親の元に残ったのか、列車に乗った母親を追いかけて列車に乗り込み母親に付いていったのか、幼なじみのアンナ、エリース、ジーンのうち誰と結婚したのか、夫婦生活の転機でどのような選択をしたのか、はっきりせず、それぞれの選択に沿った複数の物語が展開する。記者は、結局どちらの選択をしたのか、あなたの話は矛盾していると迫るが・・・というお話。

 枠組みは、2092年、不死のテクノロジー、火星観光(しかし、90日で行けるなら人工冬眠までさせるか?)、バタフライ・エフェクト、ビッグ・バン宇宙と超ひも理論の9次元の宇宙、膨張する宇宙の終焉と、大仕掛けのSFで、こういう構想だとエンディングは、古い感覚でいえば、アインシュタインの舌を出した笑顔でも入れたいような気がします。
 膨張する宇宙が収縮する宇宙に転換し、そのとき時間が逆行するとか、そのターニング・ポイントが2092年2月12日午前5時50分とかいうのは、SFとしてもちょっと厳しいかなという気はしますけど。

 しかし、その大仕掛けな枠組みで語るパラレルワールドの分岐点というのが、9歳の時に両親が離別する際に父親を選んだか、母親を選んだか、幼なじみ3人のうち誰と結婚したかという点にほぼ限定されるのは、羊頭狗肉というか、ちょっと拍子抜けしてしまいます。もちろん、個人の人生では重大な選択で人生の分岐点というのは、重々、実感としてもわかりますけど・・・
 それぞれの選択、それぞれの人生には同じ価値・意味があったというのですが、全然同価値には描かれていません。何が真実だと、記者は問いかけ、ニモはそれに答えませんが、私には見え見えに思えます。その点は人により見方が違うのかも知れませんけど。あえていえば、現実には父親の元に残り、介護に追われて鬱屈した青春時代を送り、わがままなエリースと結婚したものの家庭生活はうまくいかず、それ故にそうでない選択を空想するけれども、父親の元に残った場合の第2選択のジーンとは自分がそれほど好きだったわけではないから不本意な選択をしたという思いが残るだろう、やはり幼い頃憧れていたアンナが恋しいけれども現実には9歳の頃以降会っていないからどうなっているのかわからないために様々なパターンを空想してしまうと、私にはそう読めてしまいます。
 誰もが感じている、もしあのときこうしていたら、という思いを扱うことでノスタルジーに浸る観客の共感を集めつつ、それを非現実的な過剰に大仕掛けの枠組みで扱うことであくまでも劇場限りの幻想なのだよと示すことで安心なエンターテインメントを目指したというところでしょうか。

(2011.5.7記)

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