庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「ふたつの名前を持つ少年」
ここがポイント
 飢えた孤児に温かく接する人、冷たく拒絶し官憲に通報する人が、職業や国籍を超えてさまざまに描かれている
 にもかかわらず、民族のアイデンティティを優先して求めるラストには違和感を覚える(ネタバレですみません)

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 ナチス支配下のポーランドで身上を偽ってナチスの追跡をかわして生き延びたユダヤ人少年を描いた映画「ふたつの名前を持つ少年」を見てきました。
 封切り6週目日曜日、全国10館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前9時45分の上映は2割くらいの入り。

 1942年夏、ナチス支配下のポーランドで警官の捜索を受け荷馬車に隠れてゲットーから抜け出した8歳の少年スルリック(アンジェイ・トカチ、カミル・トカチの双子の新人の2人1役)は、隠れ家を探すと言って抜け出した父と橋の下で再会し名前をユレク・スタニャクと偽ってポーランド人として生き延びるように言われ、同様の境遇の少年たちと森をさまよい、冬になり寒さと飢えで行き倒れたところをパルチザンの妻マグダ(エリザベス・デューダ)に救われ、ポーランド人の孤児としての出自やそれにふさわしい物語を教えられて、農家を訪ねてまわり、受け入れられた農家でしばらく働くが、反発する青年にユダヤ人と見破られ、SS(親衛隊)に通報してやると言われて逃亡するなどして農家を渡り歩いていくが…というお話。

 飢えて寒さに震える孤児を前にして、受け入れて食事を与える人、拒絶する人、官憲に通報して報酬を得ようとする人、さまざまな人がいること、農夫にもスルリックを受け入れて匿う者も通報して報酬を得ようとする者もおり、医者にもユダヤ人と知っても当然に手術をしそのまま入院させる者(院長)もいればユダヤ人には手術はしないと拒否をして外に追い出させスルリックが助かったと知ると官憲に通報する者もいること、さらにはドイツの軍人の中にさえスルリックがユダヤ人であることを知りながら黙認する者もいることが描かれています。その中を縫って身上と名前を偽り生き延びるユダヤ人少年の意思と幸運と、寛容で温かい人々の存在を噛みしめる作品です。

 原題が、ドイツ語で " Lauf junge lauf "、英語では "Run boy run "となっていて、逃走、森・草原・農家を渡り歩く点にポイントが置かれているのに対して、邦題では名前を偽って生きることの方にポイントが置かれています。労働事件でも使用者側の弁護士が労働者の経歴詐称を見つけると鬼の首でも取ったかのように解雇理由として声高に主張し、「マイナンバー」などと実態に合わない明るい名前を付けて目的を隠した国民総背番号制が実施されようとしている現在の日本は、訳ありで素性を隠して生きざるを得ない弱者には生きづらく、その存在を認める寛容さがほぼ失われようとしています。そういう弱者に冷たい現在の日本社会では、名前を偽ること/偽らざるを得ないことへの衝撃の方が大きいということでしょうか。

 ドイツが降伏した後、スルリックに、匿ってくれた農場の人々の元で生きるか、ワルシャワのユダヤ人孤児収容所でユダヤ人として生きるかの選択が求められます。父に言われた、父と母のことは忘れてもいいが、ユダヤ人であることを隠して生きていてもユダヤ人であることを忘れるなという言葉が効いてくるのですが、これだけ温かさと寛容さ、冷酷さと狭量は職業や国籍などの属性ではなくその人によるという事例を重ねながら、最後には民族のアイデンティティを優先させようという描きぶりには違和感を覚えました。ユダヤ人として生きることの先にはイスラエル建国があり、そこではパレスチナの民への加害が待っているのですが、そのことにはまったく言及されません。ドイツ人監督には、そのことはタブーなのでしょうけれども、抽象的なアイデンティティよりは辛い時に助けてくれた人々への愛をより描いて欲しかったと思います。
(2015.9.20記)

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