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たぶん週1エッセイ◆
映画「午後8時の訪問者」
ここがポイント
 小さな診療所で庶民の雑多なニーズに応える多忙な暮らしを選ぶジェニーの姿に共感する
 「かつてない力強いラスト」という評だが、ラストシーンは「えっ」(「あっ」と驚くではない)と思う
 診療時間終了後の訪問を無視した医師がその訪問者が殺害されたことに自責の念を持ち真相を探るサスペンス映画「午後8時の訪問者」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国5館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前11時50分の上映は、入場者プレゼント(ベルギーワッフル)付で7〜8割くらいの入り。
 直近に迫った上告理由書がありこの日も事務所で仕事して、その後そのしわ寄せに追われ、今頃(6日後)になってこの記事を書く身では、ジェニーに同情している場合でないかも (-_-;)

 入院中の老齢の医師の診療所で代診を務めているジェニー(アデル・エネル)は、採用されることが決まった病院の歓迎会の夜、診療時間を1時間余り過ぎた午後8時05分に鳴ったブザーにドアを開けようとした研修医(オリヴィエ・ボノー)を制止する。翌朝、ジェニーが出勤したところに刑事が訪ねてきて、近くで身元不明の若い女性の死体が発見されたが、診療所の防犯カメラに写っていないかを尋ねられ、ビデオを確認した刑事から、死んだのは昨夜午後8時5分に訪ねて来た者だと知らされる。自責の念に駆られたジェニーは、老医師の診療所を継ぐ決意をして病院への就職を断り、訪れる患者に次々とビデオに写っていた女性の写真を見せて被害者の名前を知ろうとし、無縁仏として共同墓地に埋葬された被害者のために墓地を確保するが…というお話。

 小さな診療所で町医者/家庭医として、次々と訪れるさまざまな病気・ケガを負った人たちを診察し、多数の患者の家庭に往診で回るジェニーの多忙な日々が、こまめに丁寧に描かれています。こうした町の人々の雑多なニーズに応えることのしんどさとやりがいを、専門医としてのキャリア形成を捨てて選び取るジェニーの姿勢に、それが自責の念が絡んだ苦渋の選択ではあるとしても、共感します。
 いつ急患が目の前に立ち現れるかわからない、プライベートの時間の確保が困難な医師という仕事柄ではありましょうが、診療時間を過ぎて訪れた者に応えなかったという、本来何ら責められるいわれのないことでジェニーが自責の念を感じる姿、しかもその者が急患で病気やけがで死んだのならまだしも、何者かに殺害されたという医師には関係のない死に至った、ただ開けてやっていれば追ってきていた殺人者に見つからなかっただろうという、医師かどうかにも関係がない事情で、自責の念を感じる姿に、医師という職業の過酷さ、業を感じます。このような姿、ジェニーの思いが描かれること自体に、医師に対する世間の期待、幻想の重さが感じられ、そういったものに応えようとする良心的な医師たちの苦労がしのばれます(方向性や質は違っても、類似の期待と幻想を持たれがちな仕事をしている者として、実感しています)。

 予告編でも/公式サイトのイントロダクションでも、紹介されているテレラマ誌の「かつてない力強いラスト」って、ラストシーンのことじゃないですよね? ラストシーンが近づいたところで、ふと、フランス映画だから/カンヌ国際映画祭のコンペティション出品作品だからここで終わりってありそうだけど…と思ったら、本当にそこで終わり、「えっ」(「あっ」と驚くのではない)と思いました。
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(2017.4.15記)

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