庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「風立ちぬ」
ここがポイント
 戦闘機を設計する技術者を、美しい飛行機を作りたかっただけなどと美化することには、疑問を感じる
 核兵器の開発や原発の推進をめぐり、科学者・技術者の良心が問われるこの時代に、技術者としてより美しい合理的な技術を開発したかったと言えばそれで免責され賞賛されるというのは、私ははっきり間違いだと思う
 結核患者の妻を放置して朝から晩まで働き、同じ部屋で煙草を吸い続ける姿を、美しい愛と描くセンスも疑問

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 宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ渋谷スクリーン3(297席)午前11時50分の上映は満席。宮崎駿監督作品のブランドイメージは衰えず。ジブリのと言うよりは、日本アニメ映画興行界の絶対の切り札というところ。宮崎駿監督作品と聞けば、「見ねば。」ですね。

 少年期から飛行機に憧れ、イタリアの飛行機設計技師カプローニに憧れていた堀越二郎は、東京帝大で航空機の設計を学び同級生の本庄とともに三菱(後の三菱重工)に就職し、陸軍・海軍からの注文を受けて戦闘機の設計に従事する。二郎は、休暇で訪れていた軽井沢のホテルで、関東大震災の際に危急を助けた令嬢里見菜穂子と再会し、婚約するが、菜穂子は結核にかかっていた。軽井沢のホテルで親しくなったナチスに愛想を尽かして出国したドイツ人カストルプとの関係を疑われて特高に目をつけられた二郎は、上司の黒川の家の離れに隠れ住まい日夜仕事に明け暮れるが、高原の病院で結核を治すとして入院していた菜穂子が病院を抜け出して二郎の下を訪れる。二郎はそのまま菜穂子を帰さず、黒川夫妻を媒酌人に密かに祝言をあげるが…というお話。

 公式サイトに掲げられた宮崎駿監督の企画書には、「飛行機は美しい夢」と題して「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたい」とあります。
 戦時中に軍の注文で戦闘機を設計していた技術者を描いて、本人の気持ちの中では美しい飛行機を作りたかっただけとして、技術者・職人の心意気のような部分だけを取り出して美化することには、私は疑問を持ちます。
 本庄が二郎に語る言葉に、俺たちは武器商人じゃない、ただ美しい飛行機を作りたいだけだというのがありましたが、爆撃機を作りながら(本庄は爆撃機担当)そういう言い方が許されるのであれば、核兵器の設計・製造をする技術者は自分は美しい爆弾のフォルム(形態、形状)を追求しているだけだとか言えば、サリンを製造する技術者は自分はより純粋な化学物質の精製を追求しているだけだと言えば、良心の呵責を免れあるいは技術者としての賞賛を得られることになるでしょう。
 本庄が、三菱が戦闘機を受注する金で日本中の飢えた人々を救えるがそれでもその金が戦闘機に使われるから俺たちの仕事があると言ってみたり、二郎の夢の中でカプローニが飛行機は殺人のためにも使われるが自分は飛行機がある方がいい(飛行機の話をしながらなぜか「ピラミッドがある世の中とピラミッドがない世の中」という問いかけ方をしていますけど)と言うように、貧しい人々の救済・福祉をせずにその金で先端技術(実際には多くの場合軍事技術)の開発を行うことの是非が問いかけられ、技術開発の優先が選択されます。そしてその後の展開では、その選択で切り捨てられた側への目配りや悩みは見られません。問題提起をしているのならば、その後の挫折の中で悩みなり後悔が表現される場面があってしかるべきだと、私は思うのですが。
 現代では、さまざまな分野で、特に核兵器開発や原発の推進などをめぐって、科学者・技術者の良心が問われています。兵器に使われることを知りながら開発すること、危険性を知りながらそれを隠して推進することに、批判の目が向けられることが増えています。そこにあえて目をつぶり、技術者としてより美しい合理的な技術を開発したかったと言えば(本人はそう思っていれば)それで免責され技術者として賞賛されるというのは、ヒロシマ、チェルノブイリ、フクシマを経た今、私ははっきり間違いだと思います。
 宮崎駿監督は、夢は狂気を孕む、その毒は隠してはならないとも述べています。より正確に引用すると、企画書には次のように書かれています。「私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。」 しかし、この映画では、二郎の「挫折」は言葉だけで、二郎の人生自体が美しく讃えられるべきことを印象づけています。公式サイトやポスター、宣伝類のあらゆる場面で「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて。」と記載されています。この映画は、私には堀越二郎の戦闘機開発にかけた熱意と人生をほぼ無条件に讃えているとしか思えません。

 堀越二郎と菜穂子の関係ですが、ただ結核患者を隔離して死ぬのを待っているとしか思えない高原の病院に送り込んだのはまぁ実情を知らなかったのだと解釈するとしても、同居してから病床の妻を置いて早朝から夜更けまで会社で仕事を続け深夜に帰宅した後も仕事を続けながら結核患者の妻と同室で煙草を吸う(その後、黙って高原の病院に戻った妻のその後は描かれませんが、呼び戻しはしなかったということでしょう)家庭を顧みないワーカホリックの姿はどう考えるべきでしょう。戦時中の条件を前提にすればそういうものだったかもしれません。しかし、あえてそれを今映画化するときに、それはどういうメッセージになるのでしょう。そういった関係を美しい愛と描くのはいかがなものかと思います。

 二郎の夢に登場するカプローニの言葉で、創造的な生活はせいぜい10年だというのがあり、カプローニはだからもう引退すると言っています。監督生活35年に及ぶ宮崎駿監督がこの言葉を言わせた心情はいかに。

 絵としては、森などの緑系の美しさはさすがです。二郎が設計した戦闘機が墜落して(その時点では墜落は描かれていませんが)軽井沢に向かう電車が、私にはとても美しく見えました。カストルプが食べる山盛りのクレソンが、ポパイのほうれん草みたいでユーモラスです。
 予告編がひと渡り終わり、最後にいつものうっとうしい「No more 映画泥棒」が終わった後、東宝のロゴマーク、ジブリのロゴマークが続き、当然に本編が始まると思ったところで、ジブリの次回作・高畑勲監督の「かぐや姫の物語」の予告編が始まり、しらけました。その後、もう一度同じく東宝のロゴマークとジブリのロゴマークが続いて、さすがに今度は本編ですが、なんかあ〜あという気持ちで入りました。
(2013.7.21記)

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