庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「紙の月」
ここがポイント
 見るからに不誠実な池松壮亮に、どうして犠牲を払って執着するのか、理解できない:僻みです
 すべてニセモノなんだから壊していいと思った、30代の銀行員がこう思ってしまうことに今の日本社会の怖さを感じる、という作品かも知れない

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 銀行の契約社員の不倫と横領への疾走を描いた映画「紙の月」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時30分の上映は8割くらいの入り。

 専業主婦から銀行のパートタイマーとして働き、契約社員となったばかりの営業担当梅澤梨花(宮沢りえ)は、上司(近藤芳正)からも評価されていた。契約社員になった給料でペアウォッチを買って夫(田辺誠一)に渡したが、「仕事…というか、ゴルフの時にしていくよ。こういう軽いのちょうどいい」「もっと高いの買っていいんだよ。梨花が稼いだお金なんだから」という反応に、梨花は少しへこむ。優良顧客平林孝三(石橋蓮司)の孫光太(池松壮亮)と駅で出会った梨花は、光太とともにラブホテルで体を合わせる。平林のところに営業に行って、光太が借金まみれでたかりに来ると愚痴を言われた梨花は、光太を問い詰めて、消費者金融に150万円もの借金があることを聞き出し、平林から預かった200万円を定期預金を銀行内ではキャンセルしたことにして手続を取りながら証書を持ち出して平林には定期預金したと報告し、200万円を光太に渡す。夫の上海赴任が決まり、当然に銀行を辞めて同行すると思っていた夫に同行を拒否した梨花は、呆けが来始めた顧客から預かった300万円を着服し、光太と高級ホテルで豪遊する。次々と顧客の金に手をつけるようになった梨花は…というお話。

 銀行員の不倫と横領の話ですから、どうしてそうなったのかという興味で見るのがふつうだと思うのですが、そこは腑に落ちないままです。そもそも不倫と横領が「転落」と描かれているか自体、はっきりしません。
 契約社員となって初めての給料でペアウォッチを買って帰った妻。いじらしいじゃないですか。それをもっと高い時計を身につければいいのにというニュアンスであしらう夫。どうしてそういう姿勢を取るかなぁと思う。自分が栄転で上海に行くから妻が当然に付いてくると思い込み、決まるまで一言も相談しなかった夫。それも何だかなぁと思う。でも、それで夫を裏切り不倫にのめり込み巨額の横領をするか。
 原作者角田光代は、映画の公式サイトで「梨花は、夫に不満があって家の外に目を向けたのではないし、孤独だから横領したのではない。彼女はただ恋に落ちた。その恋は、梨花にとっては有料だった。それだけのこと。」とコメントしています。
 その「恋」も、「海を感じる時」の市川由衣と続けて、見るからに不誠実な池松壮亮に、どうして犠牲を払って執着するのか、私にはまったく理解できません。おじさんの僻みでしょうけど。

 銀行側の事なかれ主義、営業優先の姿勢のいやらしさ、事件後も反省のない様子なども描かれてはいます。
 梨花の中学生時代、学校が外国での水害孤児救済のための募金への寄付を奨励し、クラス別の募金額まで発表して競争を煽っておきながら、クラスの友人が寄付をやめ募金が少なくなったのを見た梨花が父親の財布から金を抜き取って高額の寄付をしたことを教師が非難する場面で、教師に反論する梨花の姿も印象的に描かれています。
 しかし、梨花の横領が、銀行側のノルマ達成のためになされたのであれば、梨花の反論が銀行の姿勢と対置されてピッタリはまるのですが、梨花の横領した金はすべて光太との豪遊に費消されているのですから完全にすれ違い、場違いです。そうすると、むしろ、子どもの頃に寄付のために父親の金を盗んだ娘だから、と結局は、個人の資質・生い立ちに帰せられる印象です。

 すべてニセモノなんだから壊していいと思った。中学生や高校生が、ではなく、専業主婦から再就職した30代の銀行員がこう思ってしまい、そして思うだけでなく実行してしまうことにこそ、今の日本社会の怖さ・脆さ・歪さを感じる、という作品なのかも知れません。

 隅(小林聡美)のような入行25年の仕事が着実で知識も豊富な事務員が軽く扱われ退職を迫られる、銀行を始めとする企業社会の実情にため息をつかされる、私にはむしろそっちの色彩の濃い作品でもありました。

【原作を読んでの追記】(2015.4.18)
 原作では、隅(小林聡美)も相川(大島優子)も登場せず、銀行内部の話はむしろあまり登場しません。映画では、銀行の預金証券や関連文書の取扱の実務を見せることで、リアリティを出したかったのでしょうか。
 原作では、梨花だけではなく、梨花の友人たちが自分の日常の折々に梨花との過去を振り返り思いを馳せるところが繰り返し挿入され、金の力で何でもできる万能感とそれに対する幻想・羨望とその感情に対する対処について、各人の事情と考え方が示されて重層的な描き方になっています。映画では、そこを落とすことで、わかりやすくなってはいますが、すべてが梨花の個人的な生い立ちと資質に帰せられてしまう印象があり、深みを欠く結果となっているように見えます。
 チェンマイの場面も、原作では、梨花の投げやりな開き直りと絡んで効果的に思えますが、映画では今ひとつ中途半端感があります。原作では発覚前にバンコクに逃亡し、映画では発覚してから高飛びと変えていますが、そこらあたりも原作の方が説得力があると思います。

 原作については私の読書日記2015年4月分05.で紹介しています。
(2014.11.16記、2015.4.18追記)

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