庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「いのちの停車場」
ここがポイント
 医師の仕事の単に技術的な問題だけではない困難さを感じさせる
 現在の法制上解決(対応)が困難な安楽死問題の提起は悩ましい
    
 救急医療の戦場のような現場から在宅医療に転身した医師の目から医療の目的は何かを問う映画「いのちの停車場」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席:販売60席)午前10時25分の上映は、7割くらいの入り。

 多重交通事故で多数の重症患者が運び込まれた救急救命センターで後回しにされていた女児の痛みを抑えるために医師資格がない事務職員野呂(松坂桃李)が点滴の針を刺したことがその母親から指摘され病院側が野呂を問責しようとするのを見て、責任を取る者が必要なら自分が当日の責任者だとして救急救命センター部長の職を辞して故郷の在宅医療(往診)を行う小さな診療所「まほろば診療所」に勤めることになった白石咲和子(吉永小百合)は、交通事故で車椅子生活となって自分が往診に出られない仙川院長(西田敏行)、看護師星野(広瀬すず)、そして白石を追ってまほろば診療所に勤めることになった野呂とともに、最先端の設備の下での緊急の生死がかかった救急救命センターの医療とは異なる素手で患者と向きあうような在宅医療に戸惑いながら、進行した癌患者たちの医療に取り組むこととなった。そして、老いた父(田中泯)から、苦痛を除去するために安楽死を求められて…というお話。

 医師の仕事が、単に目の前の患者の命を救い(死なせない)、傷病から回復させるという比較的明確な方向で進めればよいということではなく、さまざまな患者のニーズ(意思)、患者の家族の意向により左右され、さまざまな困難を抱えていることを考えさせられます。
 寝たきりで生きながらえるのでは意味がない、自分がやりたいことができないと生きている意味がないという患者、コミュニケーションが難しくなり患者の気持ちに寄り添えているのか自信を失う家族、症状を悪化させないための医師の指示と患者本人の気持ちに挟まれて悩む家族、死を目前にしてけんか別れした息子との再開を願う患者の要請を満たせずに苦しむ家族など、医療そのものではない部分で、しかし確実にある患者側のニーズにどう向きあうべきかというようなことが描かれています。たぶん、そういうことに丁寧に対応していたら、医師の方が過労で倒れ、また病院・診療所は経営していけなくなることが予想されますが…
 そして、死を目前にして苦痛のコントロールができなくなった患者からの安楽死要請という現在の日本の法制上は医師が対応できない(やってはいけない)問題についても提起されています。川崎協同病院事件を題材にした「終の信託」(朔立木、光文社)、最近やはりこの事件を題材として書かれた「善医の罪」(久坂部羊、文藝春秋)でも描かれていますが、患者からの安楽死要請が、良心的な、有能な医師を犠牲にする(医師としての職を賭し、さらには犯罪者とされることまでも覚悟する)ことになることを考えれば、薬剤による苦痛のコントロールができなくなった末期の患者が主治医に早く楽になりたいと要請することは、してはいけないことと考えるべきでしょうか。
 冒頭の、自分の行為ではなく部下の事務職員の行為でその事務職員を守るために救急救命センター部長の職を自ら辞した設定に現れる白石医師の責任感というか、何でも自分で抱え込んでしまう性格設定が、患者のさまざまなニーズへの対応と父親の安楽死問題への悩みも抱え込んでしんどくなるというか自分を追いつめてしまうこととなるあたりは、見ていてつらいものがありました。
(2021.6.6記)

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