庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「コットンテール」
ここがポイント
 妻を亡くした兼三カの心情のうつろう様子の描写が染み入る
 勝手や気まぐれに見える兼三カの言動は、身近な人の死に動転し自分をコントロールできていないのではないか
    
 遺灰をウィンダミア湖に撒いて欲しいという亡くなった妻の希望に添って夫と息子夫妻がイギリスを旅する映画「コットンテール」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午後0時40分の上映は7〜8割くらいの入り。

 妻明子(木村多江)を失い失意の大島兼三カ(リリー・フランキー)は告別式の日に寺の住職から亡き妻から数年前に預かったという手紙を渡された。そこには、自分の遺灰はイギリスの湖水地方のウィンダミア湖に撒いて欲しいと記されていた。息子の慧(錦戸亮)は妻さつき(高梨臨)、と幼いエミを連れて切符を手配し、兼三カとともに渡英するが、兼三カは単身列車に乗り大きく外れて道に迷ってしまい…というお話。

 冒頭から妻を失った兼三カの茫然自失というか腑抜けてしまっている様子が描かれます。昼間から酒を飲み、葬式に行く準備もできずに息子から叱られたり、不謹慎にも見えますが、やはり身近な人の死を受け止めきれずに意欲・気力を持てないでいるのだと思います。
 その後も息子と何度か衝突し、自分一人で行動して、父さんは自分のことしか考えていないと繰り返し息子に詰られます。妻の死以前からそのように言われてきたことや、公式サイトのイントロドダクションで「贖罪や和解といった普遍的なテーマを探求しながら、新たな一歩を踏み出そうとする家族の姿を映し出す」と記載されていることからすれば、自分の殻にこもり自分のことばかり考えて息子に対し心を閉ざしていた兼三カが旅の過程で「成長し」心を開く物語と読むべきなのかも知れません。しかし、私には、兼三カは、わがままはわがままなのかも知れませんが、妻を失って情緒が不安定になり、自分の気持ち・感情をコントロールできていない、さらに言えば自分がそういう状態になっていることを自分で意識できていないように見えます。
 近しい人を亡くした者の気持ち・心情は、えてしてそういうものではないかと、感じるようになりました。私には、妻を亡くした兼三カの心情のうつろう様子の描写が染み入りました。

 慧との父子関係は、今ひとつ原因がわからないままにギクシャクしています。これもまた無口さ、不器用さの所産でしょうけれども、ありがちなものかと思います。

 コットンテール( cottontail )は、ピーターラビットの妹の名前(絵本の日本語版では「カトンテール」と振っています)で、明子が子どもの頃の1966年に一度ピーターラビットの舞台の湖水地方に行ったことがあるということが、そこに遺灰を撒いて欲しいという希望につながっています。

 どこかギクシャクした父子関係とその修復、一度訪れたというだけの場所に遺灰を撒いて欲しいと希望する背景などにも読み取るべきものがあるかも知れませんが、私には、それらもありがちな人間関係、家族関係として、主として妻を失った兼三カの哀しみに圧倒された作品でした。
(2024.3.3記)

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