庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「四月になれば彼女は」
ここがポイント
 原作と比べて春も弥生も積極性や意思の魅力が削られている気がする
 原作のタイトルではあるけれど、映画を見てなぜこのタイトルかはしっくりこない
    
 佐藤健・長澤まさみ主演の恋愛映画「四月になれば彼女は」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午前8時40分の上映は、4割くらいの入り。

 ボリビアのウユニ湖を歩き写真を撮る伊予田春(森七菜)から、10年ぶりの手紙が、獣医の坂本弥生(長澤まさみ)との結婚準備中の精神科医藤代俊(佐藤健)の元に届いた。折しも4月1日の誕生日を迎えた弥生は、お祝いにと取り出したシャンパンの瓶を割ってしまいそつなく片づけて行く俊に絡みあわないやや醒めた視線を送っていたが、愛を終わらせない方法を問いかけ、その後出奔してしまう。俊は、職場の精神科医奈々(ともさかりえ)に相談したり、弥生の妹純(河合優実)を訪ね、弥生の消息を追うが…というお話。

 冒頭から映し出されるウユニ湖、プラハの天文時計、アイスランドの海岸の朝日と、春が訪ね回る原作が明らかに映像化を意識して配した光景と春のその後などは原作どおりですが、原作を先に読んでから見たこともあり、設定の違いが目に付きました。
 大きな違いに見えないかも知れませんが、原作では湾岸のモノレールから花火(たぶん、ディズニーランドの、でしょうね)を見ながら春が藤代に告白し、弥生との関係も弥生がリンゴを投げてどの猿が食べるかを賭けようと言い出したことで決まり、という具合に、藤代は基本的に受動的でいましたし、春との学生時代の別れも藤代の方が自分が追いかけることができなかったと後悔しています。それが映画では藤代が積極的に朝日を見に2人で行く機会を作り(ペンタックスを騙してまで)積極的に告白し、弥生とも自らが弥生の元に駆け戻って抱きしめ、学生時代の春と藤代の別れは、春の方が自分が選べなかった、追えなかったと後悔しています。一見微妙な違いに思えるかも知れませんが、原作ではそういった受身で積極的に動けなかった/動かなかった藤代が最後に積極的に弥生を追うという転換が象徴的なメッセージになっています。原作では、ベタに「卒業」(1967年の映画)をダメ押し的に紹介しています(文庫版247〜248ページ。もっとも結婚式場で花嫁を奪いバスに乗り込んだラストがハッピーエンドとは言えないという注釈付きですが)。映画の設定だと、以前から藤代が積極的だったが、それでも足りなかったと見ることになるのかと思います(追ってきた藤代に対する弥生の態度の違いもそれを反映してでしょうか)が、そこ、テイストが変わってくる感じがします。
 春の設定ですが、原作では青森の田舎の出身で、父親は登場せず、写真を始めたのは隣のカメラ屋のオジさんがきっかけ、大学では一人暮らしで藤代の家に通い、2人で海外旅行もしていて、自分の意思がはっきりした行動的な女性となっています。映画では大学に通えるところに実家があり、父親(竹野内豊)とともに住み写真も父親の趣味に習い自宅通学の箱入り娘的な設定ですし、藤代の告白に受動的に応じ(今ひとつうれしい表情でもなかったかも)海外旅行にも行けないというあまり自分の意思が明確でない描かれ方になっています。
 弥生の設定も、原作では藤代が自分の患者の飼い犬の世話を頼みに行くというお願いする関係で始まり、関係を持つきっかけは先に述べたように弥生側が主導するという関係だったのですが、映画では弥生が患者というところから始まり、藤代側がアプローチしていて、やはり弥生は受動的になっています。
 登場人物では、原作ではタイトルにも藤代と春の関係にも絡む大学の先輩大島がわりと重要な役割と位置づけを持っています。タイトルは大島が写真部の夏合宿の夜に海辺でサイモン&ガーファンクルの「四月になれば彼女は:April Come She Will 」を歌っていたシーン(文庫版88ページ、169ページ、263ページ)にちなんでいますし、藤代と春の別れは大島に起因する事情(結局明確にはされないのですが)で、春の手紙の中でも大島への回想が繰り返されます。このキーパースンの大島を映画では消滅させています。藤代と弥生の関係に集中するために藤代と春関係はシンプルにしたかったのかも知れませんが、ちょっと味わいが減っている感じもします。

 大島が登場せず、1度として「四月になれば彼女は:April Come She Will 」が流されない(しかし公式サイトのメイン画像でポスター画像となっている写真には、April Come She Will の書き込みがある)この映画、どうして「四月になれば彼女は」なのか。作品中であえて引っかけるとすれば、4月1日が誕生日の弥生が、学年が4月2日で区切られていて4月1日生まれは前の学年に入れられる(早生まれ扱い)のがいやだった、4月はきらいだという場面くらい。原作では特定されていない弥生の誕生日をそのために4月1日にしたのでしょうけれど、4月1日生まれの娘に「弥生」と名付ける親がいるものか・・・(理屈をいえば旧暦の3月は新暦では3年に1回程度の割合で4月1日も含む年があるのですけれど、そういうことを考えて名付けるということはないでしょう)

 ストーリーでは、原作では弥生は「愛を終わらせない方法」を問いかけたりしていないし、失踪の時期はもっと後だし、失踪後の行き先も違うなどの点でも違っていますが、まぁそのあたりは映画的にはありかなと思います。
 原作がこだわりを見せているカニャークマリの朝日が削られているのは、ロケ費用の問題か、それとも映像的にそれほどでもないという判断でしょうか。

 原作を読んでの感想記事は→私の読書日記2024年3月分 29.
(2024.3.24記)

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