庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「50/50」
ここがポイント
 これまでの難病ものの設定・展開を外し、いかにも現実にありがちな、癌になったけどいいことがあるというわけでもなく人間関係がうまく行くわけでもない、という中でどう生き、どう過ごすかを、ややコミカルに描いたところが、この映画の売り

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 27歳の青年が5年生存率50%の癌と宣告された後の生活を描いた映画「50/50」(フィフティ・フィフティ)を見てきました。
 封切り4日目日曜日、TOHOシネマズ渋谷(旧渋東シネタワー)スクリーン1(154席)での午後2時40分の上映は9割くらいの入り。
 ほんとは今日も映画見てから仕事のつもりだったんですが、フェイク・クライムがまさかの満席で、カミさんとランチ・バイキングの後こちらに転戦で、予定の仕事は明日に先送り。

 27歳の青年アダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、腰痛のために検査に訪れた病院で癌の宣告を受ける。アダムから癌の告知を受け、別れてもいいといわれた恋人のレイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)はそばにいたいと答え、最初は寄り添っていたが、病院の中には入らず、次第に足が遠のき、別の男と人前でキスする姿をアダムの親友のカイル(セス・ローゲン)に見つけられる。アダムの母(アンジェリカ・ヒューストン)は、認知症の夫を抱えながら、アダムの病気を聞いて同居して看病するといいだし、毎日電話をしてくるが、アダムはうるさがって電話にも出なくなる。女好きの親友カイルは、アダムにレイチェルと別れるように勧め、癌をネタにナンパしようとアダムを連れ回す。アダムが病院から受診を指示されたセラピストのキャサリン(アナ・ケンドリック)は24歳の新米でアダムが3人目の患者というありさま。淡々と過ごすアダムにも、病院で知り合った患者が次々と死に、抗癌剤も効かなくなって、成功率の低い大手術を受けなければならないときが訪れ・・・というお話。

 いわゆる難病悲恋ものの展開は、もともとややぎこちないレイチェルとの関係が、レイチェルの浮気で破綻して早々に消え去り、難病美談ものとしても、癌を告知する医師の人間味のなさ、セラピストは新米で技術・経験なし、父親は認知症、母親はお節介、恋人は不実の上に離れ、親友は女好きでナンパばかり勧めという具合ではまっていきません。
 むしろそういうこれまでの難病ものの設定・展開を外し、いかにも現実にありがちな、癌になったけどいいことがあるというわけでもなく人間関係がうまく行くわけでもない、という中でどう生き、どう過ごすかを、ややコミカルに描いたところが、この映画の売りになっています。
 酒も煙草もドラッグもやらない、交通事故の危険を考えて運転免許も取らない、車が来なくても交通信号を守るといった、ふつうよりまじめで健康志向の強いアダムが若くして癌に冒されるという不条理。悲恋ものなら癌を契機に愛情が深まるところ、最初は寄り添ってくれていた恋人も次第に疎遠になり実は浮気していたという悲しい展開。こういう状況で、淡々と生きて行かざるを得ないアダムを、女好きのカイルがはやし立てけしかけることで、闘病中だからといって変わらない思いと、揺れ動く思いを浮かび上がらせています。
 難病ものでは、癌宣告ですべてが変わるように描かれがちですが、仮に数か月の余命と宣告されたとして、日々の生き方は案外あまり変わらないのではないか、最近ではそういう思いの方が強くなりました。自分がそういう立場に立たされても、結局は、当面の仕事をそのまま続け、日々やってきたことを続けていくのではないかと思います。たぶん新しい仕事は(すぐ終われるものでない限り)受けないとは思いますが。死ぬ前にもう一度燃え上がるような恋をしてみたいとか思ったとしても、都合よく突然に恋人が現れる、なんてことは現実の社会ではあり得ないでしょうしね。もっとも、そういう考え方をするようになったのは自分が年を取ったからなんでしょうけど。

(2011.12.4記)

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