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  私の読書日記  2025年12月

17.一流の男 二流の男 三流の男 美学がにじみ出る大人の秘密40 潮凪洋介 あさ出版
 「年間に100人以上の成功者と膝をつき合わせる」(5ページ)という著者が、「令和的一流の男」であると考えた者たちの法則を論じた本。
 40項目に分けて、一流の男はこう、二流の男はこう、三流の男はこうと書いています。読んでいて、各項目の最初の部分、一流の男の前半は、著者がこういう男を好ましく感じているものと素直に受け取れるのですが、それをそういう男に女性は惚れるという下りに違和感というか妄想っぽさを感じます。むしろそういうのを疎ましく思う女性もいそうですし、著者が取材した「一流の男」はモテを意識してというよりもビジネスや生き様を語っているんじゃないかと思います。続いてそれに引き換えと揶揄・非難される「二流の男」と「三流の男」はいかにもステレオタイプで、確かに著者が描く三流の男はダメだねと納得はできますが、著者がそういうレッテル張りに長けているというだけのようにも思えます。
 この本のテーマがそういうことで、「一流の男 二流の男 三流の男」というタイトルに惹かれる読者層は「女」を意識する(そこに関心が集中する)と考えられているのでしょうけれども、記述の半分以上が、女性はこう思うということに当てられています。しかし、まさにその部分が、いかにも男の目からの決めつけに見え、興がそがれました。
 40項目+αの多数にわたり、一流、二流、三流を対比するキャッチコピーを作る能力は見事と言えるのでしょうけど、無理に作りすぎて疲れたように感じられるものもあります。
 書かれている、エピソードというより「教訓」でしょうけど、それを人と話すのはひんしゅくを買うだけでしょう(この本で言えば、真顔でこうなんだってと語るのは「三流の男」とされるでしょう)から、こっそり自己啓発本的に参考にしようという本かなと思いました。

16.最新テーマ別実践労働法実務8 定年・再雇用の法律実務 谷真介 旬報社
 労働者の定年後の再雇用について、さまざまな場面での法的な問題と労働者側での対応について解説した本。
 現時点では、60歳定年の場合、使用者は労働者が就労不能な場合や解雇が認められるような場合以外は、希望者全員を再雇用する法的義務があるのですが、それにもかかわらず再雇用拒否された場合にも、再雇用時の労働条件(端的には賃金)が決まっていないと裁判所は再雇用契約の成立を認めないことが多いという大きな問題があり、またその場合不法行為による損害賠償請求は可能とされることが多いですがその損害をどこまで認めさせられるか、使用者が再雇用を拒否はしないが著しく低い労働条件を示した場合にどう闘えるか、さらには期間1年の再雇用後更新に際して切り下げた労働条件を示してきたときにどう闘えるか、現在は法的には「努力義務」にとどまる65歳超70歳までの再雇用について拒否されたときなどにどう闘うかなどの、定年・再雇用問題の現状に即した解説が、大変参考になりました。再雇用拒否そのものよりも悩ましい低い労働条件、労働条件切り下げ問題については、著者にとっても、難しい、慎重に対応を要する微妙な問題ということですが、そうだろうなということを感じられることも、同業者としては納得できてよかったと思います。

15.有利に解決! 相続調停[第3版] 横山正夫監修、飯野たから著 自由国民社
 遺産分割調停、遺産に関する紛争調整調停などの相続に関する家庭裁判所での調停の申立て、開始後の手続、活用方法、さまざまなパターンでの調停例などについて解説した本。
 さまざまな事例での想定される調停内容や申立ての趣旨・申立ての理由等の記載例が、一般読者にはイメージができてよさそうです。
 しかし、業界人としては、相続分皆無証明書を書かされた後に被相続人に借金があることが判明した事例で「亡父の借金を払う義務はありません」と言い切っている(214~215ページ)(遺産を独占した兄からの遺産分割協議の申し入れに対して信義則に反するとか主張するレベルではわかりますが、債権者との関係では、家裁で相続放棄の手続をとらない限り、支払義務なしというわけにはいきません)とか、文例解説でまったく無条件で「母には配偶者居住権がある」と書いている(248ページ)とか、大丈夫かなぁと不安になる記述も散見されます。
 調停委員を味方につけるためにも嘘や無茶な主張はしない、主張すべき事実(他の相続人の生前贈与・特別受益や自分の寄与分を基礎づける事実、過去の経緯等)は曖昧にではなくはっきり言うべきだが、感情的にならず、相手を誹謗しないことが必要ということを繰り返し述べている点が、業界人としては、一番共感できるところです。

14.午後 フェルディナント・フォン・シーラッハ 東京創元社
 子どもの頃作家を志していたが15歳の時に父が死んでから物語が書けなくなり転向して弁護士となり、その後人生の半ばを終えて再度書き始めて今は売れっ子作家になり世界各地で講演会や朗読会を行い取材に追われているという設定の「私」が、自らの経験や他人に聞かされたことなどを書き並べた体裁の小説。
 相対的に長めのエピソードが数個ありますが、どれか1つのエピソードが決定的な影響を持つものではありません。エピソードや「私」以外の登場人物は、他の部分との関係は紹介・説明されず、基本的には関連しないものと見えます(一部オーバーラップさせようとしてみれば関連付けられるかもしれませんが)。語り手が明示されない短い章が挟まれていて、「私」に関連するかも定かでないのですが、おそらくは「私」が語ったと読んだ上で、作品全体としての雰囲気、イメージを読み、読者なりの感情・感傷を育てるという作品なのだと思います。
 東京でのエピソードで、東京では多くの人が日曜以外の毎日15~16時間働きうつ病や過労死が続出している、企業はそれを隠蔽するためにかわいらしいぬいぐるみやマスコットを作って宣伝していると述べられています(18~19ページ)。弁護士である作者が東京へ行って見聞きしたことへの弁護士らしい印象だと見えます。その話をしたアメリカ人女性の弁護士が自身も昼夜を問わず働き続け家庭生活ができない様子を続けて書いている(21~22ページ)のは、皮肉か、自嘲なのでしょうけれども。作者の東京のエピソードの元になった来日(訳者あとがきによれば2015年:159ページ)の後、過労死多発に対する批判を受けて長時間労働に対する規制が強化され、しかし首相が替わるとそれをまた緩和しろと言い出していることを作者が知れば、この東京のエピソードは、さらにアイロニカルなものになったでしょうね。

13.水の中のダンゴムシ あなたの知らない等脚類の多様な世界 富川光 八坂書房
 ダンゴムシの仲間(等脚類)のうち水棲のものに焦点を当て解説した本。
 水棲のダンゴムシそのものに関する話題では、海水棲と淡水棲では体の構造が大きく違わざるを得ない(淡水棲になるには体表を固くして水の流入や塩の喪失を減らし塩濃度の低い淡水から塩類を取り込むナトリウムポンプを発達させ薄い尿を大量に排出するなどのしくみが必要)が、系統樹上海棲と淡水棲はバラバラ(淡水棲種の近縁種が淡水棲に親和的というものではない、全体として淡水棲に適応していったということではない)で、それぞれの生息環境に応じて独立に淡水・汽水域への侵入を果たしたものと考えられる(37~44ページ)というのが一番興味を惹きました。
 水棲のダンゴムシが中心ということで「陸のダンゴムシとオオグソクムシだけでは満足できなくなってきた、あなたの知的好奇心を満たす一冊」(5ページ)というのですが、ダンゴムシは甲殻類に属するということから「近縁」ではありますが著者の関心からヨコエビの話(著者は実はヨコエビの研究者:148ページ)とか、小笠原諸島のフィールドワークの第5章では小笠原諸島の植物相・動物相の希少性の話が過半を占めるとか、著者がオオグソクムシを購入して味噌汁にして食べた話(71ページにオオグソクムシの味噌汁の写真:ちょっと気持ち悪い。まぁ、シャコとか煮て食べますから、その仲間だし、食べてもいいんでしょうけど)など、本来の話以外が多く、またそちらに興味が持てたりしました。

12.民事裁判実務論点大系 裁判官からみた手続運用と実践知 田中敦編、民事裁判実務研究会編著 ぎょうせい
 民事裁判で問題となる原則やさまざまな場面での実務の運用等について、法制度、法令の規定、判例、通常行われている実務などを解説した本。
 それぞれの論点と執筆者の考えから解説の重点・傾向はさまざまですが、私には、釈明義務違反に関する判例の紹介が勉強になりました。また、高裁での裁判官の思考パターンの現れが参考になりました。
 いずれも現役の裁判官または元裁判官が書いていて、制度や実務については基本的に安心して読めます。しかし、最高裁平成23年4月26日第三小法廷判決を引用して「医師の言動が原告の生命身体に危害が及ぶようなことを想起させるような内容のものであることは明らかであって、PTSDの診断基準に該当しない」としている(405ページ下から2行目)のは「ないことは明らか」の誤りです(裁判所Webの判決文5ページ13~14行目で確認できますし、ふつうに読んで変だと気づきます)。抗告状の提出先について「控訴の場合と異なり原裁判所となっている」(601ページ17行目)というのもぎょっとします(控訴状の提出先は原裁判所)し、抗告審で原裁判所に差し戻すことになった場合「原裁判に関与した裁判官は差戻し後の裁判には関与することはできない」(610ページ14~15行目)というのも、控訴審での差戻しの場合は民事訴訟法は上告審での差戻し(民事訴訟法第325条第4項)とは異なり原審(第1審)裁判官の関与を禁じておらず、再抗告・特別抗告・許可抗告だけが上告審の規定を準用しているためそれ以外の抗告(即時抗告など多くの場合)での差戻審に原審裁判官が関与することは法令上禁止はされていないと考えられています。こういう間違いがあると、信用性にちょっと不安を感じ、他方、裁判官が注意して(本に書くのですから相当注意はしているはず)書いてもこういうミスをするのだから人間その種の勘違いはしかたないものと、気が楽になったりもします。

11.現代誤情報学入門 ジョン・ルーゼンビーク、サンダー・ヴァン・ダー・リンダン 日本評論社
 フェイクニュースや誤解を招く情報などの「誤情報」に関して、その定義、歴史、問題性(有害性)の有無、人はなぜ誤情報を信用したり共有(拡散)するのか、エコーチェンバー・フィルターバブルの効果・問題の程度、誤情報対策などについて論じた本。
 多くの点について両論併記的というか実証的にはそれほど明確とは言えないというものが多く、著者らが開発した「予防接種」アプローチのゲーム「Bad News」(第8章で紹介)を売り込みたいという本かなとも思えます(それが効果がないとか弊害があるという批判も載せていますが)。
 著者の立場・指向から、気候変動問題とウクライナ支持にはこだわりが見られ、とりわけ気候変動について疑義を示す者への反感というか、それを許さないという姿勢が顕著です。「原子力発電に関して虚偽または誤解を招くニュース報道が流布されると、原子力技術に対する人々のリスク認識に影響を与え、気候変動への対応をめぐる科学的、政策的な議論の妨げになりうる」(プロローグⅳページ)などと、地球温暖化対策を前面に出して原発の危険性や利権から目をそらして原発の推進を図る勢力の言い草に、福島原発事故を経た後にさえ、同調する著者に「権威主義的な政府のように、公共的な説明責任を欠いた権力主体が、我々の研究を悪用する可能性がある」「こうした政府や機関は、情報の統制や操作を正当化するために、本来は誤情報とは言い難い内容を『誤情報』とみなし、人々に『予防接種』を施そうとするかもしれない」(199ページ)などという懸念を示されても(もちろん、権力者が乱用する危険があるのはその通りだと思いますが)説得力を感じません(あんたにそれを言う資格があるのか?)。
 91ページの13行目と15行目にいずれも「与党支持者」が対比の主体になっていますが、内容からしても後者(15行目の方)は「野党支持者」のはずです。
 巻末にすべて英文とみられる「文献一覧」が56ページにわたって掲載されています。学者として「科学的根拠」を示したい(フェイクじゃないと印象づけたい)ということでしょうけど、日本で一般書として出版するのにこれをつける意味がどれだけあるのでしょうか。

10.首都圏は米軍の「訓練場」 毎日新聞取材班、大場弘行 藤原書店
 毎日新聞取材班が、東京都港区にある米軍基地「赤坂プレスセンター」のヘリポートの運用が周辺のビルや住民の安全のためのルールに反していることをきっかけに米軍ヘリの飛行を監視し始めたところ、新宿駅上空や渋谷駅上空などの人口密集地域で日本の航空機なら航空法上許されない超低空飛行を繰り返している事実を突き止めて写真・動画撮影し、都心での訓練飛行が常態化していることを報道するに至る経過を記したノンフィクション。
 毎日新聞社の取材に対して米軍は飛行目的等を明らかにしなかったが、著者らは有識者のコメントから、横田基地などに入管を通らずに直接入国するアメリカ政府要人を都心の赤坂プレスセンターへと輸送するために輸送ルート等に慣れるなどするための訓練飛行と推測しています。赤坂プレスセンターヘリポートに離着陸するクルーの行動とスカイツリーなどを周遊する様子からクルーの娯楽・遊覧目的ではないかとの疑念も示していますが。
 首都圏上空に米軍優先の横田空域があり民間航空機の飛行の大きな制約となっている問題も含め、米軍の傍若無人ぶり、日本政府の弱腰、対米従属ぶりを改めて認識しました。

09.金環日蝕 阿部暁子 創元推理文庫
 斜向かいの家に住む70歳の老婦人を突き飛ばしてひったくりをした男を見て追跡し取り押さえようとして逃げられた札幌市内の国立大学文学部で心理学を学ぶ20歳の柔道女子森川春風が、事件現場でともにひったくり犯を追跡した見知らぬ高校生北原錬とともに、犯人が落としたストラップを手がかりに犯人捜しを始めるという展開のミステリー小説。
 犯罪の被害者、加害者の家族、加害者・共犯者として犯罪に関わりトラウマや敵意、執念に引きずられる者たちの境遇と使命感に思いをはせる作品かなと思います。それぞれの処し方の描写には小説故の極端さも感じますが。
 やるせない思いからそれでも前向きに生きようという苦さと希望を感じます。私としては、北原家の最強元帥と呼ばれる錬の母由紀乃の明るさに救われました。

08.細胞を間近で見たらすごかった 奇跡のようなからだの仕組み 小倉加奈子 ちくま新書
 人体を消化器、呼吸器、泌尿器、循環器、免疫系、生殖器をめぐるツァーと、胸腔・腹腔、骨格筋、皮膚、乳腺、脳と脊髄、内分泌系、造血器をめぐるオプショナルツァーという形で、その形状や機能を説明する本。
 柔らかくくだけた語り口と手描きのイラストの印象もあり、読みやすい本です。
 例えばものを飲み込む(ゴックンする)プロセスが、食べ物が口の中に残らないように口蓋咽頭弓(喉の奥の筋肉)が左右に閉じて喉の奥に食べ物を押し込み、軟口蓋(のどちんこ)が喉の奥にくっついて食べ物が鼻腔(上側)に行かないようにし、喉頭蓋が気管を塞いで声門も閉じて食べ物が気管に入らず食道に進むようにするといった説明がイラスト付きでなされ(85ページ)、ふだん考えない人体のしくみの巧みさに感心したりします。
 しかし、素人の理解のため必要ということでしょうけれども、説明の半分以上は、タイトルの「細胞」のレベルではなくより大きな組織・器官レベルの話だと思います。また、細胞の形態等の説明は、やはり写真がほしかったなという気がします。

07.ダニの共生戦略 白黒つけない、したたかな生き方 岡部貴美子 ミネルヴァサイエンスライブラリー
 ダニ研究者の著者が、ダニの生態について解説し、著者の研究成果、キムネクマバチと共生(便乗)しているクマバチコナダニとコガタノクマバチコナダニの関係(なぜ2種のダニが1種の蜂と共生しているのか:実は両者は同一種だとわかった)、アトボシキタドロバチの体にアトボシキタドロバチヤドリコナダニが入り込める空間(アカナリウム)がある理由(ダニはハチの生存に利益を与えているのか:ハチの幼虫・さなぎの体液を吸う点で害を与えているが幼虫の捕食者を攻撃する点で利益を与えているとわかった)、外来クワガタについているダニは日本のクワガタに寄生しうるかなどを紹介した本。
 人間につくダニの生態等は対象となっていないので、実用的、あるいは強い関心は持てませんでしたが、学問的な/ファーブル昆虫記を読むような好奇心をそそられる読み物ではありました。
 中高生からの科学探究シリーズと銘打ってこの(2025年の)秋から発刊されたミネルヴァサイエンスライブラリーの第2弾です。そのため、文体、語り口がそれっぽくなっています。私は、今、とある原稿について、編集者から高校生が読めるように書け、おまえの文章はいかにも法律家の文章だ、SF作家か童話作家になったつもりで書き直せと言われて、どうしたものかと思っています。高校生に読ませるならこういう文章を書けばいいんでしょうか。この本の語り口は読みやすくフレンドリーではありますが、最初はそう感じても読み進めるうちに、なれなれしい、くだけすぎ、ふざけてるのかなどと、言われないか(特に中高年読者から)と心配になりました。

06.人生を変えてくれたペンギン 海辺で君を見つけた日 トム・ミッチェル ハーパーBOOKS
 1970年代半ばに23歳でアルゼンチンのブエノスアイレス郊外の町キルメスにあるセント・ジョージス・カレッジの英語教師となったイギリス人の著者が、休暇を過ごしたウルグアイの保養地プンタ・デル・エステの海岸で重油まみれになって死んでいるベンギンの群れの中にまだ生きている1羽を発見し洗浄して寄宿舎に連れ帰り、著者に「かもめのジョナサン」(スペイン語版のタイトルは「フアン・サルバドール・ガビオータ」というらしい:46ページ)にちなんで「フアン・サルバドール」と名付けられた人になじんだペンギンが著者や周囲の人々を癒やし、著者が彼の地で過ごす助けになったという経験を、約40年を経て回顧して記した本。
 死にかけているところを見つけて連れ帰り洗浄するまで、寄宿舎に連れ帰るまでは、ペンギンの信頼を勝ち取り様々な人の目をかいくぐる苦労があり、サスペンスフルな読み物となっていますが、その後はペンギンが著者になじみ、周囲も好意的で問題なく進み、心温まるけれども特段盛り上がりを欠く話になってしまっています。
 映画(2025年12月5日公開)を見るのに、その原作として読んだのですが、以上のような事情もあってでしょう、原作が冒険好きの青年が積極的にペンギンを助けペンギンと仲良くなるあくまでも前向きなノスタルジーであるのを、映画では50代と見える(17年前に13歳の娘を失った)やさぐれた中年男が仕方なくペンギンを連れ帰る羽目になり、背景事情として独裁者が多数の人を拉致し(主人公の身の回りの世話をしてくれるマリアに原作にはない孫ソフィアを作って主人公と交流させた上そのソフィアも拉致され)抗議行動が展開される状況を描いてそれに対する諦念と哀感を漂わせるという作品になっていて、教師がペンギンを助けて学校でペンギンが人気者になるという点は共通でも、全体の味わいはかなり違っています。
 ドラマとしては、映画の方が起伏なり深みが出ていいと思いますが、これだけ変えると「実話に基づく」と言っていいものか…

05.アラン・デュカス、美食と情熱の人生 アラン・デュカス 早川書房
 多数のレストランを経営し、監訳者あとがきによれば「料理界の帝王、ドン、巨匠、リーダー、重鎮、ゴッドファーザー、ラスボス」(154ページ)という著者の料理哲学、経営ポリシーなどを語った本。
 冒頭が子ども時代と出自、最後が現在のチャレンジと関心ではありますが、その間の記述は時系列に応じたものではなく、思いのままに時期が行ったり来たりしているので順序立てた物語としては読みにくく、事実として何がありそれを経てどうなったということは把握しにくく思えました。
 子ども時代の母親の料理の経験から野菜中心のメニューを売り出していることに応じて、日本料理、特に京都での経験を賞賛していること(44ページ、103~108ページ)、飛行機事故で重傷を負い自分で料理できない時期にスタッフに指示していたときに、他人に任せること、他人を教育すること、知識を伝えることに目覚めたこと(76~78ページ)が、印象的でした。「セオリーから外れている」と言われたらもっと外れたことをする、「苦すぎる」と言われたらさらに味を苦くする、「高価すぎる」と言われたらより値段を上げる(81ページ)という頑固さで、それでビジネス上成功しているのも感心しました。

04.アレルギーの科学 なぜ起こるのか どうして増えているのか 森田英明、足立剛也編著 講談社ブルーバックス
 花粉症や食物アレルギー、アトピー性皮膚炎、気管支喘息、さらにはアナフィラキシーなどのアレルギーのメカニズムや治療の現状などについて解説した本。
 生化学や免疫関係の本を読んでいると非常に多種の細胞(樹状細胞とかマスト細胞とか好中球とかヘルパーT細胞とかキラーT細胞とか)やカタカナ・英字記号の化学物質(IgE抗体とかIgG抗体とかIL-4とかTSLPとかAct d 2とか)が登場し、頭が飽和してしまい、どうしてこんなに複雑怪奇なしくみなのかと思うのですが、外敵(ウィルス、細菌、寄生虫等)が多種さまざまでそれぞれに応じて免疫機能が発達してきているからと説明され、なるほどと思いました(といって、次々出てくるカタカナや記号類に頭がついて行けないことに変わりはないのですが)。
 鼻では侵入してくる微生物や塵などの異物を鼻毛や粘膜の粘液で絡め取って喉に送り粘液とともに飲み込み、異物等を胃酸で消化しているというのですが、そのために飲み込む粘液の量(したがって粘液の分泌量)は1日に2リットル近くなるそうです(122~123ページ)。ふつうの人の1日の水の摂取量にも相当する粘液が鼻で分泌されているとは驚きました。くしゃみは異物を追い出す、鼻づまりは異物の侵入を防いで肺を守るため(123ページ)というのも納得です。
 今でも年間50~80人程度がそれが原因でなくなっているというアナフィラキシーは、食物や薬剤、蜂毒などによるものが知られていますが、天然ゴム原料のラテックスに含まれるタンパク質が原因になることもあり医療用手袋やゴム製の医療器具、ゴム風船やコンドームなどが原因になることもあるそうです(173ページ)。う~ん、恐ろしい。
 専門用語や化学物質名の氾濫で頭がパンクしましたが、さまざまな気づきがあり勉強になりました。

03.さらに、法学を知りたい君へ 社会とつながる13講 東京大学法学部「現代と法」委員会編 有斐閣
 東京大学法学部の教養部で4月から7月にかけて開講されている「現代と法」の授業を文章化して出版した本。
 2021年度の授業を出版した「まだ、法学を知らない君へ 未来をひらく13講」、2022年度の授業を出版した「いま、法学を知りたい君へ 世界をひろげる13講」に続く第3弾です。過去2回が単年度の13コマの授業を出版したのに、この本は2023年度と2024年度の2年度分から13講にしています。はしがきで、初めて担当した教員を中心としてと説明されていますが、単年度の13コマで出版できない何かがあったのかと勘ぐってしまいました。
 現代的・今日的なテーマがわりと取り上げられていて関心を引きますが、1つ1つは短いので食い足りない感があり、またその解説内容・論調も多方面にというか政府にも気配りした優等生的な印象を持ちました。
 東京大学の労働法の教授が、フリーランスが労働法の規制を受けないということは「自由に働けるということにもなる」(126~127ページ)とか「規制に服することなく自由に働きたいということでフリーランスとして働いている人にとっては、望まない規制に服せしめることになりかねない」(134ページ)などといって労働者保護の範囲拡大に否定的な姿勢を示し、フリーランスには労働者よりも大幅に低い保護を定めた日本政府の立場を基本的に是認しているのには、それが東京大学らしいのかもしれませんが、失望しました。

02.映画「遠い山なみの光」シナリオブック 石川慶 早川書房
 カズオ・イシグロの小説を映画化した映画「遠い山なみの光」(2025年)の脚本。
 映画を見た上で、映画の結末等に関して、原作小説と照らし合わせてみるのに読みましたので、映画と小説のネタバレになります。ご注意ください。

 まずは、あまりネタバレにならないところでの原作小説との違いから。

 小説では長女景子の自死後に母であるシェリンガム悦子の様子を見に来た無職の次女ニキの訪問を機に悦子が過去を回想するという体裁であるのに対し、映画では(大学を中退した)ライターのニキが、不倫相手のデヴィッドを通じて企画を売り込んだ母の半生の記事を書くために悦子にインタビューを続けそれに応じて悦子が過去を語るという設定です。小説では自主的な回想なのに映画では聞かれて答えるということで、より作話の余地があるというところでしょうか。
 小説では原爆被災は背景事情にとどまりますが、映画(シナリオブック)では、佐知子は戦争前から長崎に住んでいたことになり(小説では終戦時は東京在住)(50ページ)、終戦時はがれきばかりの中にいて(96ページ)、佐知子の娘万里子は腕にケロイドの痕があり(47ページ)、うどん屋の客から「放射能のうつったらどがんす」と言われ(65ページ)、悦子も爆心地付近で教師をしていて子どもを救えなかったことがトラウマになっている(85~86ページ)、悦子が夫の二郎に「もしわたしが被爆しとったら、結婚しませんでしたか?」と問う(136ページ)など、被爆問題を意識させる設定になっています。またニキが新聞にグリーナムコモンでの抗議活動の記事を書く(31ページ、34~39ページ)など、反核運動も取り込んでいます。
 あとは、小説ではニキがロンドンに帰るときに悦子がもうこの家を売った方がいいと思うと打ち明けたのに、映画ではニキが来る前にもう売約済みになっているとか、小説では猫を入れる木箱を万里子が「くじ引き」でとったのを映画では射的でとったなどの違いが見られます。

 さて、結末に関わるネタバレ部分ですが、小説では、最後に悦子が自殺した長女景子と回想中の万里子を重ねる発言があり、これをどう解すべきかが問題となりますが、映画でははっきりと回想中の佐知子が実は悦子で万里子が景子であることが示されています。
 しかし、小説と異なり映画(シナリオブック)では回想対象は1952年(19ページ)、現在は1982年(24ページ)、ニキは25歳(24ページ)で1958年11月20日生まれ(147ページ)、1952年当時万里子は8歳(45ページ)と時期や年齢に関する情報が明示されています。もし1952年に8歳の万里子が実は景子だったとしたら、朝鮮戦争当時景子はおなかの中にいたというつぶやき(44ページ)はもちろんのこと、繰り返し語られている1952年当時悦子が妊娠中だったということ(19~20ページ、49ページ、58ページ、110ページ、126ページ)に関してその子(胎児)は誰か、どうなったのかが問題になります。ニキは1958年生まれなので、1952年におなかの中にいたのは実はニキということもあり得ません。妊娠中だったというのが誤り/虚偽だとしてしまうのか、つじつま合わせをするなら、妊娠していた子は流産したとかいうことにするくらいでしょうか。しかももし景子が1952年に8歳なら1944年、終戦前に生まれたことになってしまいます。悦子が原爆被爆の際に教えていた小学校の子どもたちを助けられずショックを受けて教師の緒方のところで住み始めたときには二郎はまだ南方(戦争)から帰ってきていなかった(84~86ページ)し、二郎との結婚は長崎原爆の投下より後(だから被爆していたら結婚したかという問いがある:136ページ)なのですから、景子が1944年生まれなら、景子も一緒に緒方家に避難してきていたはずですし、二郎との子でもないということになってしまいます。1つ無理をすると次から次へと破綻するというように、私には思えます。
 映画は、小説に比べ、テーマもメッセージの明確になりわかりやすいのですが、結末のニキに対して悦子が語った思い出の佐知子が悦子、万里子が景子という設定は無理があるように思えます。

01.遠い山なみの光 カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫
 現在はイギリスで一人住まいのシェリンガム悦子が、その年の4月にロンドンに住む次女ニキが長女景子の自死後の様子見に訪ねてきた5日間を回想し、さらに朝鮮戦争中の長崎での緒方悦子だった自分とその夏に知り合った近隣に住む女性佐知子とその娘万里子らの様子を回想する小説。
 ノーベル賞作家カズオ・イシグロの長編デビュー作ですが、映画化されて見たのを機に読みました。
 映画で気になった点を確認するために読んだものですので、この小説と映画の結末等に関わるネタバレを含みますので、ご注意ください。

 まず検討の前提として、登場人物に関する設定を確認していきます。
 悦子:戦前は長崎の「中川」地域に居住し、「中村」という人物と恋仲になるが、何もないうちに(原因は不明:戦争か?)破局し一時は立ち上がれないほどのショックを受けたが、教師の緒方の世話になり(107~108ページ)、緒方の息子の二郎と結婚し、回想対象の夏には妊娠していた。その後時期と原因は不明だが二郎と別れ、イギリス人記者シェリンガムと結婚し、時期は不明だが長女景子とともにイギリスに移住した。
 ニキ:年齢は不明だが「今年」の4月時点で19歳を超えており(66ページ)、ロンドンに住み学生ではなく仕事もしていない(69ページ)。ボーイフレンドはロンドンの大学で政治学を勉強している(133ページ)。
 佐知子:娘時代には父親に勧められて英語の勉強をしていたが、名門の出で愛国派の夫に禁じられてやめた(101~102ページ、153~154ページ)。そのため現在も英語は堪能。終戦時には娘万里子とともに東京に住んでいた。少なくとも万里子が5歳の時は東京に住んでいた(103~104ページ)。夫がどうなったのかは不明。回想対象の夏の1年前には夫の伯父の豪邸に住むようになった(22ページ、122ページ)が、義伯父の娘川田靖子といざこざになって飛び出し(226~228ページ)、悦子が住む集合住宅近くの川岸のあばら家に住み着いた。アメリカ人フランクと交際しているがその関係は揺れている。

 映画では、終盤になり、悦子が回想している佐知子と万里子が、実は長崎時代の悦子と景子であるという示唆がなされています。この原作で、そういうことがありうるかというのが(ネタバレの)検討項目です。
 人物の設定で確認したように、悦子と佐知子は異なる経歴の別人として描写されています。そして景子についてはほとんど描写されていませんが、純粋の日本人(9ページ)で、二郎が父親であり(134ページ)、そして悦子が回想対象の夏に訪ねてきた夫の父親緒方誠二に対し、生まれてくる子どもが女なら(誠二の妻の名を取って)景子にしようかしらと述べている(43~44ページ)ことからして、景子は回想対象の夏に妊娠中だった胎児であり、少なくとも回想対象の夏には生まれていないことが明らかです。
 この小説でも、最終盤に、悦子が、一度日帰りで稲佐山に遊びに行った思い出に触れ、「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」と言う場面があります(259ページ)。これは、そのときにはもう景子がいて一緒に稲佐山に上ったということを示しています。おそらくは、映画はこれにヒントを得て、悦子の回想の佐知子と万里子は、実は悦子と景子であるという結末を導いたのでしょう。
 しかし、この回想対象の夏には景子が生まれていなかったことは動かしがたい事実のはずですし、稲佐山行きも「一度」と言っている(259ページ)ので、実際に(佐知子・万里子とは別の機会に)景子と行ったとするのは無理があります(259ページの方では「稲佐」とは明記してはいませんが、長崎の港の上の山というのですから別の場所というのも無理があるでしょう)。そうすると、悦子の回想で語られている佐知子と万里子が事実として悦子と景子であったとすることはできず、小説で見る限り、このラストで、景子の自死を受け入れることができない悦子が景子も幸せだったと考えたい故に記憶を変容させた、あるいは願望に従い取り違えたと考えるべきでしょう。
 この小説は、全体として、景子の自死からまださほど経たない(期間は明示されていませんが、「こんどの事件」と表現されています:10ページ)時期に、景子の自死を受け止めきれないでいる悦子が自分の気持ちを整理し自分に言い聞かせるその心情を描いたもので、その中で悦子の記憶が揺らいでいると解しておくのがよいように思えます。
 映画でも取り上げられている悦子が縄を持って万里子に近づき怖がられるシーン(117~118ページ、245~246ページ)は、おそらくは万里子側は過去の恐怖の連想、悦子側は景子を不幸にした後悔の反映なのでしょう(悦子が、佐知子のみならず連続子ども殺しの犯人も含めて当時苦労を背負った者たちの誰にでも自分もなり得たという思いの一環なのかもしれませんが)。
 この小説では、イギリスでの時系列は、景子のマンチェスター行き、夫(シェリンガム)の死亡(71~72ページ等で景子は父の葬式にも帰ってこなかったとされているので景子のマンチェスター行きが先)、景子のマンチェスターでの自死、ニキの訪問(今年4月)、悦子の回想(作品の「現在」)となっています。他方で、景子が家を出たのは6年前(124ページ等)、シェリンガムが娘と暮らしたのは7年間(128ページ)とされていますが、そうすると、シェリンガムは、景子のみならずニキの子ども時代も同居していなかったのでしょうか。ニキが生まれてからシェリンガム自身が死亡するまで悦子・ニキと同居していたなら、計算上、少なくとも景子が自死した時点(その時点でニキは家を出てロンドン住まいだった:8ページ)でニキはまだ13歳にしかなりません。そのようなことも含めて、作品全体としても精密な記載がなされているわけではないと考えるべきなのかもしれませんが。

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