私の読書日記  2009年12月

18.切羽へ 井上荒野 新潮社
 九州のかつて炭鉱があった島で暮らす31歳小学校養護教諭麻生セイが、画家の夫と仲良く暮らしながらも、新任の教師石和聡に心惹かれていく様子を描いた恋愛小説。セイと夫の関係は、平穏で、愛情が冷めているわけではなくむしろ心も通っているという設定。そして石和は、子供たちには一生懸命になるものの、人付き合いも悪く、特に招かれなかったから始業式に出席する必要はないと思ったというような常識に欠ける人物で、同僚の月江が不倫相手に振られるや寝てしまうという人物。セイがなぜ石和に惹かれていくのかは、理解しがたいものがあります。夫に特に不満がないのに、むしろ夫婦仲はいいのに、しかし他の男に心を惹かれてしまう、それはロマンチックでもあり恐ろしくもあり、そういった人間の気持ちのありようを味わう作品だと思います。同僚の月江に不倫関係を任せ、主人公のセイには不倫に走らせないことで、心のありように集中させたところが作品の質を高めたと言えるでしょう。もっとも、月江もしずかばあさんもセイの秘めた心を指摘しているのは、それが公然の秘密ということか、さらには不倫関係を暗示しているのかもしれませんが。章タイトルが「三月」で始まり順次ほぼ1年がめぐりますが、章の冒頭が明らかに前月のできごとの当日だったりして内容とあっていない感じがします。しかも連載が「小説新潮」の2005年11月号(2005年10月発売)から開始して1年ということですから毎回5か月ずれてる(ほぼ反対の季節)のも人を食った話。

17.偶有からの哲学 ベルナール・スティグレール 新評論
 フランスの哲学者である著者がラジオ番組で行った哲学と技術、とりわけ記憶に関わる技術の問題についてのレクチャーを単行本化したもの。カバー見返しで「哲学の問題は技術の問題である」というキャッチをつけ、冒頭でも哲学と技術の関係を語っていますが、ここで言われる技術は、少なくとも前半では、工学的な技術ではなく、人間の経験を外部に記録して記憶として後日の自分にまた他人に伝える技術、すなわち主として文字・言語のことです。この「記憶の技術」によって人間は他の動物と異なり経験を集積し継承できるということ、そして人間が過去を把握する際には音楽や映像のような時間とともに流れ行く情報の連続的な把握、過去の記憶の想起、外部に記録された記憶による想起があるが、外部に記録された記憶は産業化され得、その想起も産業的にコントロールされ得ること、そして産業の発達により録音や録画が可能になり記憶の外部化は文字のみならず音声・映像にも及んだが、文字による記憶のレベルでは書き手と読み手は同レベルの知識を要し交代し得たが音声・映像による記憶では出し手と受け手の不平等化が進み受け手は「消費者」となることが語られています。記憶の外部化だけであれば、それによる想起は人によりまた同一人でもその時により内容や意味が異なり得て特異性(唯一性)が確保できたが、本来は真実を求めていた科学が経済的権力に奉仕して資本と市場の原理を追及した結果、消費者として資本が用意した範囲での差異しか許されないように意識がコントロールされるようになってきているというようなことが、現代哲学の概念と用語や歴史上の哲学者を引き合いに出して語られています。言っている内容は、別に現代哲学の小難しい概念や用語を用いなくても説明できると思うのですが。語り言葉で、ラジオでのレクチャーにもかかわらずこういう展開をしてしまうところが、哲学者って普通に考えられることをわざわざ難しく言う人なんだなと思わせてしまう原因だと思います。

16.リターン・チケット 武谷牧子 日本経済新聞出版社
 元売れっ子ホストだった33歳ホームレス男レオが、キャッシュカードを盗む目的で、さえない41歳獣医科大学のドイツ語准教授江都子に近づき、2泊3日の箱根旅行をするうちに恋仲になる中年恋愛小説。主人公のキャラ設定が、かつては売れっ子ホストだったものの独立して失敗し肝臓を悪くして日雇い仕事もできなくなり今はゴミあさりをしてなんとか食いつないでいる路上生活者と、学生からも「痛い」「けばい」とバカにされドイツ語の単位狙いで近づいてくる男子学生に迫られて有頂天になって箱根旅行を計画したが当日朝にキャンセルされて一人箱根に向かう独身中年教師という、普通の恋愛小説では考えられないしょぼいやるせない組み合わせ。それで切符が余った江都子が駅で声を張り上げてその切符の買い手を探すという導入部も、それを聞いて切符を買った異臭の漂う男から日系4世の新聞記者と言われて信じ込んで宿泊先のバンガローまで付いて来させるという展開も、ありえないほどせこく物欲しげ。小説として読むには、あまりにも夢のないやるせない流れですが、しかし現実の世界ではさえない同士のカップルの方が多数派で嫌な思いをしながら日々を暮らしてそれでも恋愛してるのですから、こういう小説があってもいいとも思えます。この作品の中でのホームレスの描き方、犯罪者ないし犯罪者予備軍の側面が基調となっていて、レオが江都子に次第に情を移すというそれとは反対方向の終盤とあわせて、ホームレスにさらに偏見を強める読者と理解しようと思う読者とどちらが多いでしょうか。私には前者がずっと多いように思えるのですが。

15.マノロブラニクには早すぎる 永井するみ ポプラ社
 20代女性向けファッション雑誌の新人編集者小島世里が、無頓着だったファッションやブランドの勉強をしながら、仕事に目覚める過程に、雑誌の仕事もしていたカメラマン(最近はあまりこの言葉使われなくなっていますけど)の死をめぐる謎を絡めたファッション・お仕事・ミステリー小説。「マノロブラニク」は、世里が憧れる編集長が愛用している超高級婦人靴のブランド。世里が担当する読者モデルのページの仕事に絡めて、ファッション、宝飾品、特に高級靴についての蘊蓄を語る部分が、女性読者向けの売りでしょうが、この部分は関心のない私はパス。もともとは翻訳文学の編集者を志して出版社に入社したのに、畑違いの女性誌に配属されて不満を持っていた世里が、誰もがやりたいことをやれる訳じゃないと思い直し、失敗を繰り返しながらプロ意識に目覚めていく過程は快く読めます。世里が死んだカメラマンの息子の中学生から父との関係を疑われたことをきっかけにカメラマンの死の謎にのめり込んでいく部分は、ストーリー展開では次第にそちらに軸が移されていきますが、ミステリーとして読むにはネタも展開も物足りない感じです。どちらかというと、お仕事ものなりファッションものの軽い読み物と捉えて読んだ方がいいと思います。

14.ナンヤネンの来た日 かしわ哲 講談社
 思ったことをはっきり言ってしまうために学校で孤立し、家では「ムーミン」のキャラクター「スナフキン」に憧れて部屋にテントを張って「ミイ」の抱き枕と心で会話し続ける小6少女三村愛野と、愛野のために明るくふるまい支え続ける母夢野が、愛野の最後の運動会の日に、夢野が魔力を持つ石をそれと知らずにたまたま手に入れて愛野が負け続けてきたライバルの転倒を願ったことから夢野に悪い魔法がかかり、愛野が家庭教師として呼ばれてきた日本語ペラペラのフィンランド人青年ペッカ・ナヤネンにフィンランドに伝わる魔法の話を知らされてともに夢野を救おうとするファンタジー。思ったことを言ってしまうため孤立する愛野を、みんなと違うのは素晴らしい、フィンランドではみんなと違うのは誇らしいことだと言い、「変な外人」的なしゃべりとキャラで愛野の心を解きほぐしていく「なんやねん」の設定が、ムーミン、北欧神話と絡まりうまく収まっています。悪い魔法の話とかでうさんくさくなり、夢野の変身みたいなあたりはおぞましく思います。しかし、全体としては、母子家庭で頑張りすぎた夢野の気持ちへのいたわり、母子のつながり、そして夫への気持ちが、切なくもいとおしく描かれ、「なんやねん」のおとぼけキャラとも相まってほのぼのと読み終えられる作品です。舞台が横浜で「なんやねん」というのもちょっとなぁとは思いますが。

13.ガツン! ニック・ホーンビィ 福音館書店
 16歳の美少女アリシアに一目惚れして最初のデートでセックスし、その後毎日ずっと一緒にいてセックスし続けて2週間で飽きて別れたが、その後にアリシアから妊娠を告げられたために逃亡した未熟で無責任なスケボーフリークの16歳少年サムが、生まれてきた赤ちゃんルーフへの愛情に少しずつ目覚め、アリシアの両親との同居には馴染めず、アリシアへの愛情は冷めつつも、父親になっていく様子を描いた青春小説。サム自身が16歳の母親と17歳の父親の間で生まれ、父親は別居し、母親は新たな恋人との間で妹を産み、そういう家庭環境へのアリシアの両親の偏見やルーフは32歳の祖母と5か月年下の叔母を持つという状況をクロスさせて人間関係にふくらみを持たせています。スケボーオタク少年にスケボー界のスターのポスターとの内心の会話をさせ、その一人芝居に次第に満足できなくなる過程を、サムの状況の進展と内面の成長とダブらせるのはいいのですが、サムを未来にタイムスリップさせる設定が、お話をキワモノ的にしています。同い年ながらに、もちろん動揺し感情的になりながらも着実な現実感とサムへの愛情を持ち続けるアリシアの姿と対比すると、アリシアから、現実から逃避し続けるサムの姿は情けないなぁと思ってしまいます。それがサム個人の問題なのか青年・男一般の問題なのかという、より手厳しい指摘もなされるでしょうけど。

12.ロミオとインディアナ 永瀬直矢 筑摩書房
 太宰治賞受賞の表題作は、仁徳陵の向かいに住む女子高生恵理が書いているブログ「古墳のとなりで犀と遊ぶ」に書き込んできた仁徳陵の中にいると思われる謎の人物インディアナの正体を探りながら、友人の真樹や幹代、友だち以上恋人未満?の倉内との日々を描く青春小説。事件や謎は、特に進展や解決されることなく、登場人物の人間関係やつぶやきに新鮮さや興味を感じられるか、にほぼかかっている作品かと思います。ストーリーを進行させるですます調の地の文と、内心を示す今どきの中高生っぽい語りつぶやき文体が境目なく混在し、夢や回想と現在が段落も分けられずに続いたり、行動の説明も省かれがちで、イメージの流れやリズムが合わず、私には読みにくい文章でした。セット作品の「ジェダイの福音」は、恵理のブログにコメントを入れていたインディアナ那智に誘われて仁徳陵に侵入した友人の語る仁徳陵潜入・盗掘アドベンチャー小説。こちらはストーリーは展開させているけど、ストーリーや提示した古代史の謎の部分は夢想的で、やっぱり人物像で読ませられるかの作品と思います。

11.そろそろ最後の恋がしたい 唯川恵 角川春樹事務所
 前の年に2年付き合った彼に振られた思い込みが強く気を回しすぎの結婚願望の強い28歳編集者広田桃子が、仕事に追われながら恋人探しを続けるがうまく行かず、結局元彼と元のサヤに収まり婚約するまでの2年間を飛び飛び日記形式で描いた小説。28歳の誕生日に買った金魚に「桜」と名付け、冒頭に食べたものを列挙し、最後に桜に話しかけという書式を踏んで30歳の誕生日まで続けられています。2年間金魚が生きながらえているのは偉いと、まず感じてしまいます。桃子と元彼俊哉、不倫中の友人のフリーライター由美、経済力がなくて結婚できない劇団員と交際中の同僚真琴、お見合いに失敗し続けるが一回り年下の新人をゲットする先輩編集者葉山さんなどの恋愛もようが並行して描かれますが、結婚できる私は幸せ不倫を続ける由美は不幸せという視線がありありで、基本線は結婚至上主義的な感じ。もともと50代の作者が書いた本なので、このタイトルを見て、50代女性の最後に一花ってお話と思い、50直前の私は「そろそろ・・・恋がしたい」にも「最後の」にもいろいろな意味でちょっとドキドキしながら読み始めたのですが、その点では完全に空振り。設定が20代後半なら全然意味が違うわけで、最後の恋っていうのも単に結婚につながる恋っていうことで、とても平凡。2まわり年下のライフスタイルと心理を描けるのは、立派と言えるでしょうけど。

10.バターサンドの夜 河合二湖 講談社
 学校での友達づきあいに興味が持てず歴史アニメの登場人物の少年に憧れ同一化を夢想する女子中学生ミメイこと赤羽明音が、ワンピースのネットショップを立ち上げようと模索する洋品店の娘智美にモデルや手伝いを頼まれたり、アニメ少年のコスプレの写真が目にとまってスカウトに来たアダルトサイトの撮影に巻き込まれたりしながら、成長していく青春小説。100年前のロシアの青少年と同化したい心と、急速に女っぽく育つ体のギャップに悩みながら、なれないものになりたがる自分に悩み、否定し、そして肯定する明音の心の動きが、せつなくもみずみずしい。智美の頼りなげで、しかし意外に図太いボケ味もいい線かなと思います。無理な設定とか、非現実的な部分がちらほらしますが、そういう点はおいて、思春期の心の揺れや人間関係のうつろいの方に目を向けて読みたい作品だと思います。

09.海峡の南 伊藤たかみ 文藝春秋
 祖父の危篤を機に、高校生の頃から密かに肉体関係を持っているはとこの歩美とともに父の故郷の街紋別を訪れた30代独身男の伊原洋が、山師人生を歩んで失踪している父との過去を思い起こしながら、自分のルーツと父との関係を見つめ直すノスタルジー小説。個人的には、北海道のオホーツク沿岸出身の親が関西に移り住んでそこで生まれて今は東京暮らしという主人公の経歴設定は、それだけではまってしまいました。親戚で何かあると遠軽まで電車で行きそこから車で向かうとか、子どもの頃の経験と重ね合わせてしまいます。残念ながら、私には高校生の頃から密かに肉体関係を持ち続けているはとこはいませんけど。怪しげな父の「仕事」や人間関係にわからないながらに興味を持ち懐かしむ主人公の回想が、70年代の時代のエネルギーへのノスタルジーと重なり(もっとも、この怪しげさはもっと前の時代のような気もしますけど)、作者の世代より上の私たちの世代に馴染む感じがします。歩美とのHシーンが多いとか、回想での父の愛人の娘とのヰタ・セクスアリス的なシーンが多い(きっと連載1回について1回は濡れ場を用意したみたいな)ことが、父子の関係をめぐる部分ではジュンブンガク的なテーマを残してはいるものの、娯楽作品的な要素を強めています。本の後ろ側から見ると、芥川賞作家が「文學界」に連載した小説の単行本化ということが先に入りますが、そういう外形からは予想できないようなエンタメ系統というか柔らかい読み物です。

08.おり姫の日記帳 チョン・アリ 現文メディア
 いじめっ子の不良女子高生チンニョが、手下のヨンジュ、優等生だが素行の悪いミンジョンらとともに過ごす学園生活や、兄や母らとの関係、ダンス教室で知り合った不良小学生らと巻き起こす騒動などで進行させる短編連作。主人公が高校2年生から高校卒業までの間が描かれていますが、話の間がちょっと飛んでいる感じのところもあり、通し読みするとアレッと思います。前半では、母親に対する関係というか目線がかなり冷たくて、なんか寒々とした感じがしましたが、最後の方では少しそれが和らいだ感じがします。それは、必ずしも主人公の成長として描かれているというよりも、書いている期間の経過で書き手の感覚が変わったのかなという気がします。韓国の世界青少年文学賞受賞作ということですが、私にはピンと来ませんでした。日本で言えば、橋本治の「桃尻娘」が出たときのような「衝撃」なんでしょうか。

07.ルポ雇用劣化不況 竹信三恵子 岩波新書
 2002年以降人件費削減によって不況を乗り切り過去最高の企業収益を謳歌した日本企業が、高賃金に耐えられる企業体質を作らずにきたために賃下げ依存症状態になり、そのために消費者でもある労働者の購買力は失われて内需は細り、現場は権限もなく熟練しない非正規従業員ばかりがマニュアルの範囲でのみ対応して顧客サービスが劣化し、現場の発言権はなくまた意欲も失われて物づくりの質も落ちてきている様子を、労働現場の取材によりレポートした本。「自己責任」「市場主義」という企業も政府も責任を取らない姿勢で、セーフティネットを整えようともしない日本で、派遣労働や偽装請負で企業がやりたい放題に労働者を安く使い捨てにできる状態を作ってしまえば、派遣切りによって企業は即ホームレス製造機となる。派遣会社は、お客様である派遣先の意向をくみ取って労災を隠し、物言う労働者は派遣会社が自主的に排除するから、派遣先企業が手を汚さずとも法律の規制を事実上無視した好き放題の結果を得られる。「規制緩和」の名の下に行われてきた最近の日本の「改革」が、いかに経営者にだけ都合のいいものであったかが語られています。この本でも紹介されているように、そんなことやる前からわかりきったことで、労働側や学者は法改正前から指摘していたのですが。この本のタイトルや書きぶりは、そういうやりたい放題が、企業自身の首を絞めるようになってきたというスタイルを取っています。今どきの日本ではそういう書き方が書きやすいのですが、そういうパターンになる以前の段階で(要するに企業自身が困らなくても)労働者の生活や人権のレベルでの議論がスッと入る社会であって欲しいと思います。

06.ギャングスタ 新堂冬樹 徳間書店
 不良少年が集まる明王工業高校に入学したイケメンのナンパ男白石力が、明王工業の四天王や極悪ナンバー1の第一高専の三大王らとの戦いに巻き込まれながら男の友情に目覚め、四天王の上のギャングスタに上りつめる極道青春小説。小説というより極道ものの劇画の原作みたいな感じです。全編ひたすら喧嘩・決闘シーンの連続で、血が騒ぐとも、グロテスクとも言えます。どちらがより冷酷で残虐に徹しきれるかということが勝負を分けるというパターンが多く、フェアプレイとか人間らしさなどせせら笑われる感じ。基本的には漫画的な読み物ですから、まぁいいですけど。大井区とか、田蒲駅とか森大駅とか中途半端にいじった地名が使われるのは、読んでてなんか気恥ずかしい。そういうところも含めて、安い劇画雑誌のセンスかなと思います。

05.僕らが旅にでる理由 唯野未歩子 文藝春秋
 なにがしかのストレスを抱えている男は平等に患者でありそのストレスを解消させるのは医師の努めであると考えて月曜日から金曜日までそれぞれ別の男と関係を持ち続ける歯科大学2年生高山衿子が、虫歯の木訥な40歳童貞男ラーさんと旅に出て、途中で知り合った恋人募集中のパートタイマー松本パルコと3人で放浪した末に共同生活を始めるという小説。冒頭の設定からも予測できるように、わかったようなわからないような観念的な展開で、途中衿子が数日のうちに体重が3倍になるほど太ったとか、突然老女になったとか、妄想と現実が入り乱れて進みます。旅の途中でラーさんが「あ」を見つけたとかいうのは、ジュンブンガク的と言うよりもセサミストリート的ですけど。ラストも、衿子は成長したんだか単に普通の大人になったというんだか。不思議な感覚の残る小説ではありますが、スッキリしたり、読み終えたぞという充実感は得にくい感じです。タイトルの「僕らが旅にでる理由」というのも、単行本化するときにわざわざつけたそうです(雑誌連載時は「いしのつとめ」)が、女2人と男1人の旅ですし、女が「僕」と自称しても私は別にいいと思いますが作品中で1人称を「僕」と言っているのはラーさん1人(衿子は「わたし」、パルコは「あたし」)で、なぜ「僕ら」なんでしょう。奇をてらった不思議感が命の作品でしょうか。

04.心をつなぐ左翼の言葉 辻井喬 かもがわ出版
 元共産党員でセゾングループ経営者にして詩人の著者の対談。対談のはじめで語られている、「理論的には正しくても、相手の心に響かないというのでは意味がない」、右も左も知識人の言葉は大衆の言葉になっていない、自身の感性と一体になっていない(14〜15ページ)という問題意識の下で、護憲のための運動のあり方、日本の社会と運動の今後、プロレタリア文学などを語っています。改憲はアメリカにあごで使われるような自衛隊にするということを明文で約束することだから完全に独立を失うことになる(35ページ)ことに光を当ててアメリカへの従属を主矛盾として護憲の統一戦線を形成すべきだという指摘には、ドッキリします。アメリカの占領政策転換で戦犯たちが復権された際に、アメリカの都合での偽の復権は拒否するという国粋主義者は誰一人おらずみんなアメリカに尻尾を振った(65〜66ページ)という指摘にも。派遣切りをする企業経営者の強欲さや派遣法を認めた連合の無責任さの指摘も、元大企業経営者に言われても・・・という気もしますが、新鮮でもあります。対談なので、提起された問題にきちんと回答がなかったり詰め切れてない部分も多いですが、今という時代の気分にはフィットする読み物にはなっています。

03.ネットビジネスの終わり 山本一郎 PHP研究所
 携帯電話(といっても端末の製造)、出版・新聞・雑誌、アニメ・ゲームの各業界の事情を、主として資金調達と投資の視点から検討論評した本。「ネットビジネスの終わり」のタイトルを付けながら、むしろネットの周辺というか、ネットビジネスでコンテンツを喰われて売上が減少している業界の側からネットビジネスやネットユーザーの「ネット上の情報は無料」という意識に文句を言っているものです。勝ち組企業側の目線で、日本の企業を上位1つかせいぜい2、3に統合して、日本のユーザーの細かい要求に応じずに世界市場を目指せ、格差社会などと喧伝して社会保障の充実を求めるなどもってのほか、国の資金は日本企業の海外進出に回せという議論を展開しています。よい物を作ればいいのではなく、それをいかに売るかとセットで考える必要があり、それをファイナンスとセットした形で、つまり巨額の資金調達で実行して行けということです。前半の著者がファイナンスのアドヴァイスをする業界に関してはそういいながら、ネット業界については、「Yahoo!や楽天といった規模の経済でのプレイができる強者企業を作ってしまった」(174ページ)などと否定的な書き方をしています。どちらかといえば、ネットビジネスに終わって欲しいという願望を持つ著者が書いた「ネットビジネス批判」という感じです。日本の大手企業のために底辺労働者やユーザーは我慢しろという主張に共感する人はどれくらいいるんでしょうか。

02.よろこびの歌 宮下奈都 実業之日本社
 有名なヴァイオリニストを母に持ち音大附属高校の受験に失敗してさして特徴のない新設の女子高校に通う御木元玲と、その同級生たちが、合唱コンクールで玲が指揮を担当したことを契機に、コンクールは散々だったものの次第に理解し合い成長していく青春群像劇。1話ごとに語り手を替え、音大附属高校の受験に失敗した御木元玲、ピアノをやりたかったが家庭の事情でできず稼業のうどん屋で働く原千夏、ソフトボールのエースだったが肩を壊して引退した中溝早希、霊が見える牧野史香、ボーイフレンドとすれ違いを感じる美術部の里中佳子、美しい姉にコンプレックスを持ち春は短いと勉強に励んできた佐々木ひかりと、それぞれのコンプレックスと拗ね方とその心境の変化を見せながら最後にまた御木元玲にバトンを渡して締めています。それぞれにしらけ、醒め、拗ねていた語り手が、ちょっと前向きになれていくところが快い読後感を残します。ただ全体としては、なんとか最後に全部結びつけていますが、霊が見える少女とか、一本の話としてはちょっと外れすぎ。7話を2年がかりで月刊誌に飛び飛びに連載してまとめたのだから仕方ないですが。原千夏が私好みのキャラということもありますが、4話と5話を落として、御木元→原→中溝→佐々木→御木元の方がまとまりがよかったかと思います。

01.愛がなんだ 角田光代 角川文庫
 友人主催のパーティーで知り合った出版社勤めのさえない男に便利に使われながらのめり込みまくり仕事も女友達とのつきあいもすべて放り出して尽くすリサーチ会社勤めの女が、その男の気まぐれで呼ばれると仕事を無視するために無職になり失業保険ももらいそこねてアルバイトをしながら男に呼ばれるのを待ち続け、愛されていなくても近くにいたいと男が好きになった女と仲良くなったり男の友だちを付き合ったりするというお話。主人公の社会性のなさというか、中身が子どものままで社会人になってしまった責任感のなさは、読んでいて嫌になります。主人公だけじゃなくて、このお話の登場人物を見ていると、男に便利に使われる女と超身勝手男、男を便利に使う女と女の機嫌ばかり伺っている男、世の中にはこれだけしかいないのかと思え、やりきれない思いを持ちます。ところで、この主人公、高円寺だか(11ページ)西荻だか(186ページ)に住んでるって設定なんですが、男の住まいが世田谷代田(43ページ)で、何で電車で1時間近くかかる道のり(10ページ)なんだか(東京の地理感がない人のためにあえていうと、世田谷代田は小田急線で各駅で新宿まで12〜3分、新宿から西荻窪まで中央線快速で12〜3分、新宿から高円寺は中央線快速で6分)。10ページから11ページを読んでいるときには高円寺まで電車で1時間近くってこの男の住まいは千葉か横浜かって思いましたが、世田谷代田って出てきたときには「嘘でしょ」って思わず前を読み返しました。こういう設定はきちんとやって欲しいと思います。

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