たぶん週1エッセイ◆
映画「声をかくす人」
ここがポイント
 メアリー・サラットの物語というよりも孤立し不公正な手続に苦しみながらメアリーの弁護を続けた弁護士エイキンの物語とみるべき
 事前準備のできない反対尋問(日本の制度はそれに近い)がいかに困難かがよくわかる
弁護士の視点
 弁護士の生き様・あり方を考えさせられる作品弁護士の視点
 原題は「共謀者」で共謀罪の不合理性を示唆しているが、作品の内容にもマッチしない見当外れの邦題を付けた日本の興行サイドには共謀罪推進者への遠慮がある?

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 リンカーン暗殺の共犯として処刑された女性の裁判を描いた映画「声をかくす人」を見てきました。
 封切り6日目映画サービスデー、この時点で全国唯一の上映館銀座テアトルシネマ(150席)午前11時の上映は8割くらいの入り。

 1865年、南北戦争終結直後、南軍の残党によってリンカーン大統領が暗殺された。主犯の俳優ウィルクス・ブースは逃走中に射殺され、共犯者8人が逮捕された。そのうち1人はブースが足繁く訪れていた下宿屋を経営する女性メアリー・サラット(ロビン・ライト)で、犯人一味と共謀してアジトを提供した容疑だった。メアリーの息子ジョンは逃亡したまま行方不明だった。北軍に従軍し大佐となって帰還した若き弁護士フレデリック・エイキン(ジェームズ・マカヴォイ)は、元司法長官のジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)の要請で渋々メアリーの弁護をすることになる。当初はメアリーの有罪を確信し気が進まないまま弁護を始めたエイキンは、民間人のメアリーを軍法会議にかけて不公正な手続で裁判を進行させる陸軍長官のやり方に反発し、調査を進めるうちにメアリーは無罪ではないかと思い始める。裁判でメアリーのために弁護を尽くすほど周囲から疎まれクラブでは資格を剥奪され恋人にも去られて孤立を深めるエイキンは、不公正な裁判の進行の中で全力を尽くすが・・・というお話。

 アメリカで初めて死刑を執行された女性メアリー・サラットの物語と、公式サイトでも映画評論でもそう紹介されているのですが、メアリー・サラットが本当に無実なのかどうかは断定しないという制作側の意図からメアリー・サラットの内心の描写はなく、事件前のメアリー・サラットも描かれないため、メアリー・サラット像は基本的に裁判の場とエイキンの面会の場での言動で描かれます。他方、メアリーの真実を追究するエイキンの活動はエイキンの視点で描かれますから、この映画は、むしろ世間から孤立し圧倒的に不利な不公正な手続の中で苦しみながらメアリーの弁護を続けた弁護士エイキンの物語と見ることができます。少なくとも私にはそう見えました。

弁護士の視点
 19世紀のアメリカの刑事裁判手続のことは私には全然わかりませんから、軍法会議ではなく通常裁判だったらどうなのかもわかりませんが、事前の情報が全くない証人にその場で反対尋問をすることを強いられるエイキンの苦悩は私にもよく理解できます。実は1990年代までの日本のごく普通の民事裁判ではそういうことがままありました。日本の裁判手続ではいまだに、アメリカのような「ディスカバリー」(証人尋問の関係でいえば、法廷審理前に相手方の証人予定者に予備的に尋問できる制度)手続はありませんが、証人や原告・被告本人の尋問については事前に陳述書が提出されることで多少は反対尋問の事前準備ができます(もちろん、弁護士にとっては事前準備としては、相手方が作る陳述書より自分が予備尋問できる方がずっといいですが)。しかし、1990年代までは大事件は別としてありふれた民事裁判では陳述書の提出もなく主尋問を聞いてその場ですぐ反対尋問をさせられることもまれではありませんでした。そうすると反対尋問はかなりの部分が思いつきや機転に頼ることになり、成果を上げることはかなり困難です。手続の公正さに重きを置くアメリカでは、弁護士にとっては、ディスカバリーなく反対尋問をさせられるなんて考えられないことだと思います。
 しかも、裁判官は検察官の味方でエイキンの異議は次々却下され、検察側証人は怪しげな話をし放題、弁護側証人は証言前に圧力をかけられてエイキンが事前に聞いた話を法廷では覆すという始末。弁護士の立場から見たら、キレたくなるし泣きたくなるでしょう。
 加えて、被告人さえ、自分が無実だと主張しながら、具体的な事実関係をエイキンにも話さず、息子の関与を指摘するエイキンに法廷で食ってかかるし。もっとも、息子が共犯者だという主張が、メアリーが無実だということに論理的にはつながらないのでエイキンの作戦にも私は疑問を感じましたけど。
 このように、不公正な手続と不公正な裁判官に手足を縛られ、弁護材料も被告人の協力を十分に得られないという制約の中で、それでもベストを尽くそうとするエイキンの姿勢には、弁護士として涙します。まぁそういう事件でも受けてしまったら、そうするしかないんですが。

弁護士の視点
 エイキンの苦悩し試行錯誤する様子は、世間からの嫌われ者の弁護と弁護士の姿勢・生き様という点からも、弁護士は自ら被疑者・被告人を裁いてよいのかという刑事弁護でのありがちであるとともに果てしない議論からも、弁護士にとっては興味深い論点を提示してくれます。
 どちらも一般の方の理解を得にくい話で、そういう面からも、こういう作品が多数の人に見てもらえるといいんですが。

 この映画、日本の観客にはどういう評価を受けるんでしょうか。制作側の意図としてメアリーが本当に無実かどうかは断定しない姿勢とはいえ、娘の話等からメアリーは無実だというニュアンスが出され、裁判官もメアリーを有罪としつつも量刑では死刑を回避しようとしたのを政治で踏みつぶすという描かれ方をしているので、やはりメアリーに同情し政治的な圧力を加える権力を非難する見方が主流になるでしょうか。手続の公正さよりも実体的真実の方を重視する、つまり手続に間違いがあったからといって真犯人を野放しにするのは正義に反するという考え方が圧倒的に強い日本のマスコミや世論(さらにいえば裁判官も。たぶん)からすれば、果たしてこの映画がどれくらいの共感を呼ぶか、最後の解説で示されるジョン・サラットの運命(けっこう映画館を出るときの印象に影響を与えると思います)がどう評価されるか、なかなか興味深いところです。公開時点で全国1館、2週目で4館、3週目で7館というラインナップにも興行側の予想が見て取れるところですが。

 ところでこの映画のタイトル、邦題の「声をかくす人」っていうのは意味不明。メアリーは話をしないわけではなく、裁判でも無実だと主張します。具体的な主張をしたがらないという点では隠し事はしているわけですが、声を出さないわけではありません。
 原題の「 The Conspirator 」は「共謀者」で、アメリカでは共謀罪という犯罪の謀議をしただけで犯罪となるという規定があり(日本でもその導入が画策されていますが)、日本でも犯罪の謀議に加わりそのうち誰かが犯罪を実行したら実行していない人も全員正犯(幇助犯という犯罪を助けた人ではなく)になるという「共謀共同正犯」という法的な仕組みがありますが、下宿屋がアジトとして使われたというだけで、あるいはアジトを提供したとしてもそれだけで、主犯並みに死刑にしていいのかという問題提起になっていると思えます。
 邦題はそういう問題提起を消し去り、内容的にも見当違いなものになっていると思います。政治的な、あるいは当局に逆らうようなニュアンスは避けたいんでしょうかね。
(2012.11.3記)

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