庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
イチケイのカラス最終回に思う
ここがポイント
 職権捜査で自ら真実を解明するという入間裁判官への期待は、民主主義よりも優秀な独裁者を待望する心情と似ている
 「違法労働がありました」は現実の裁判では証言でも何でもない
    
 フジテレビ2021年春クールの月9ドラマ「イチケイのカラス」、6月14日の最終回を見ました。ふだん、ドラマというか、テレビほとんど見てないので、このドラマも見てなかったのですが。
 型破りの裁判もので、まぁ裁判・裁判官にこういうことを期待している人が少なくないんだろうなと、あるいは現在の裁判の実情に失望し批判的な人が多いんだろうなと、まずは身を引き締めておきたいと思います。
 しかし、このサイトで、裁判制度と裁判実務をできるだけわかりやすく説明しようとしている弁護士の立場からは、困ったもんだなぁと思いました。ずっと見ていたわけでもなく、見たときも力入れて見てたわけでもなく、もちろん原作も読んでませんから、作品全体を論じるとかいうわけではなくて、とりあえず3点だけ指摘させていただきます。

 その1。まず、裁判に対する捉え方なんですが、「司法は絶対に真実をねじ曲げない」と言って自ら主体となって捜査を行い真実解明をする裁判官が主人公のドラマでは、裁判は黙ってみていればお上が正義を実現してくれる場と描かれてしまいます。お上にお任せのお上依存志向では、現実の裁判はよくなっていかないと思うのですが。

 その2。すぐに「職権を発動します」の入間裁判官。現在の日本の刑事裁判制度では、基本的に当事者主義の構造を取り、検察官と弁護人がそれぞれの立場から主張と証拠を提出し、独立の立場というかどちらにも与しない立場から裁判官がその主張立証を見て判断することが予定されています(そのような制度だということは、弁護人がなぜ必要かという点を「刑事弁護が必要なわけ」で説明しています)。裁判官は行司役(訴訟進行の管理)と判断者に専念するということです。それは、1つには、主張立証の提出はそれに利害関係を持つ者・証拠を多数持つ者が行う方がより幅広くまた深く適切に行えるということ、そして判断者は利害関係を持たずに冷静に判断するためにも判断者に徹した方がいいということから、そのような仕組みができてきたものです。「岡目八目」というように、判断は、他人がしていることについてした方が、冷静にできるものです。入間裁判官の行う職権による捜査は、入間裁判官が予想した「真実」に向けて行われます。ドラマでは客観的真実がはっきりしている、わかるという前提で描かれますが、現実の裁判では、それはわかりません。ドラマでいう「真実」は、現実の裁判の場面で同じことをすれば、それは「見込み」であり「予断・先入観」に過ぎません。よく聞く言葉を使えば、入間裁判官の職権による捜査は、「見込み捜査」ということになります。そして、人間、誰しも、自分が過ちを犯しているということには気づきにくいし、過ちを犯したことを認めたがらないものです。裁判の過程で、自分が独自に気がついたことは、正しい、真実だと思いたくなる、あるいは真実だと思い込みやすいものです。捜査は訴追側の警察、検察が行うから、それが見込みにより暴走したものであるとき、弁護側から批判を受け、裁判官がその誤りを判断するということで正されるということが現在の制度では期待されます(それが機能不全になっているという批判はあるでしょうけれども)。裁判官が見込みにより間違った方向に暴走したら、誰が止められるのでしょうか。
 裁判官の職権発動による真実解明への期待は、民主主義が面倒でまどろっこしいから優秀な独裁者を待望するのと似ているように思えます。私たちは、歴史の経験で、当事者主義という制度として一定の安定性、信頼性、公平性を有する仕組みにたどり着いたのに、それが「一定の」ものにとどまることへの歯がゆさ・失望感から、素晴らしい一人の人物を夢想した幻想に誘惑されがちです。制度を捨てて人物の能力と志に賭けたとき、その地位に就く人物がその期待に違うものであったらどうなるのか、そこへの想像力こそが大事だと思うのです。制度、裁判制度を考えるとき、いちばん大事なのは、そのことだと、私は思うのです。
 なお、入間裁判官が弁護士出身だから、裁かれる側の視点を持ちうる、あるいは新卒からずっと裁判官の場合よりも幅広い視点を持ちうるということへの期待は、そうであれば入間裁判官の個人的な能力として期待するのではなく、裁判官を一定年数以上の経験を有する弁護士から選任する(イギリスやアメリカなどではそういう制度が取られています)という制度を採用するということで満たした方がいいと思います。

 その3。「違法労働がありましたか」「違法労働はありませんでした」という質問と証言。まぁドラマで簡単にしたかったんでしょうけれども、これを見て、裁判でこういうやりとり、証言でいいんだと思う人が増えるの、ちょっとげんなりします。
 「違法労働」というのは、評価(法的な評価)であって、「事実」ではありません。裁判での証言、事実認定では、こんなこといわれてもまったく価値はありません。違法労働ということ自体何を指すのかはっきりしていませんが、それは月100時間以上、または2か月〜6か月平均で月80時間以上の時間外・休日労働のことだとしても、裁判での主張、証言、事実認定としては、誰がいつ何時から何時までどのような業務を行ったのか、その間の休憩時間はどうだったのか、労働環境はどうだったのか、使用者、現場監督等はどのような発言をしどのような態度を取っていたのかなどの具体的な事実を出してもらいそれを積み上げて、どのような事実があったかを認定し、それを裁判官が評価して「違法労働」だったのかどうかを判断します。証人が「違法労働があった」と証言しても、それは何も具体的事実を語っていませんしその証人が違法だと思ったというだけで裁判にはまるで使えません。
 今どきだと、パワハラも、ただパワハラを受けましたとか繰り返し人格を否定するような暴言を受けましたとかいってくる人がよくいます。同僚の証言を得ましたとかいって、ひと言○○さんがパワハラを受けているのを見ましたとだけいっている動画を証拠ですと見せる人もいます。そういうのが証言だとか証拠になると思っている人がいるんです。「違法労働はありました」というその言葉だけで違法労働があったと認定されてしまうようなドラマを作られると、そういう人がまた増えるんでしょうね。
(2021.6.16記)

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