庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「チョコレートドーナツ」
ここがポイント
 置き去りにされた子を見るに見かねて引き取りたいというルディの人情味と正義感に打たれる
 ルディとポールが立ち向かった偏見と司法の壁の厚さには驚くが、現代日本では違うと言えるかはやや心もとない

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 1970年代のカリフォルニアで置き去りにされたダウン症の子どもを育てようとしたゲイカップルの善意と、偏見と法律の壁を描いた映画「チョコレートドーナツ」を見てきました。
 封切り12週目土曜日、新宿武蔵野館1(133席)正午の上映は9割くらいの入り。

 1979年、カリフォルニアのゲイバーでダンサーとして働いているルディ(アラン・カミング)は、アパートの隣人の女性(ジェイミー・アン・オールマン)が大音響のステレオを付けたまま男といなくなりダウン症の子どもマルコ(アイザック・レイヴァ)が一人うずくまっているのを見つけ、前夜知り合った検事局に勤める弁護士ポール(ギャレット・ディラハント)に相談するが、家庭局に任せろと突き放される。母親が薬物犯で逮捕されたため家庭局に連行され施設に入れられたマルコは、施設を抜け出して自宅に戻ろうと迷い歩いているところを、ルディに見つかり、ルディとともに暮らすことになるが、家主に見とがめられたルディはポールに相談し、マルコとともにポールの自宅に転がり込み3人での共同生活を始めた。ポールはルディをいとこと偽っていたが、ゲイカップルであることが発覚し、ポールは検事局を解雇され、マルコは家庭局の手で施設に送られてしまう。ルディは、マルコを取り戻すべく、ポールをけしかけて裁判に臨むが…というお話。

 何の義理もない(大音響のステレオに文句を言いに行って罵り合っただけ)隣人が置き去りにしたダウン症の子どもを、薬物中毒の母親を持ったのも普通じゃないのもこの子が選んだことじゃない、これ以上この子を不幸にしたくないと言って、引き取って一緒に暮らそうとするルディの人情味の厚さ、ゲイに対する偏見を持つ周囲に反発しポールにカミングアウトと裁判闘争を焚きつけるまっすぐさ、そしてルディに引きずられながらもマルコへの愛情を持ち裁判に取り組んでいくポールの誠意に、心を打たれます。
 人形を抱きしめ、言葉はごくわずかしか話せず、太り気味の、愛らしくは見えないマルコですが、ルディに優しくされ顔をくしゃっとさせる笑顔が憎めないというか情が移る感じがします。そのあたりのいかにも同情を惹くような外見ではなく、しかしどこか情がわくようなキャラ設定も巧みに思えました。
 邦題の「チョコレートドーナツ」は、マルコが好きな食べ物を聞かれると「ドーナツ」と言い、ポールがたまたまチョコレートドーナツならあると言って食べさせたシーンによるものですが、作品全体の印象やテーマにはあまりフィットしていないように思えます。

 監護権に関する裁判(日本だと未成年後見人選任申立ということになると思います)で、ポールが、我々がゲイかとかその品行ばかりが審理されているがこの裁判はマルコのための裁判だ、マルコにとって何が幸せかを論ずべきだと主張する場面があります。ゲイに対する強い偏見への反発とともに、エンディングに通じる強く印象的なアピールです。
 日本の法律実務でも、建前では「子の福祉」が最大限尊重されるべきだと言いながら、本当にそれが考慮されているのか、噛みしめておきたい訴えだと思います。

 ゲイだと発覚したから解雇されたというのは、さすがに現代日本なら裁判手続をとれば、解雇は無効と判断されるでしょう。
 もっとも、昨今は、日本の解雇規制が厳しすぎるなどと言って、労働規制の緩和と称して、まるで規制を緩和すれば若者の雇用が増えるかのような幻想を振りまいてその実は経営者側がさらにやりたい放題にすることをもくろむ政治家があまりにもたくさんいて、そういう連中にこれ以上政権を任せていたら、日本でもどうなるかはわかりませんが。
(2014.7.6記)

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