庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「アキレスと亀」

 世界のキタノの新作映画「アキレスと亀」を見てきました。
 封切り3週目の月曜日、「大ヒット御礼!来場者プレゼント実施」初日ですが、予想通りガラガラ。興行的には大コケでしょうね。だって、予告編見ても面白そうなところないし・・・

 富豪(田舎の銀行経営者)の息子として生まれ、好きな絵ばかり描いていてまわりからは富豪の息子だから褒めそやされ批判されずに育った主人公倉持真知寿(吉岡澪皇→柳憂怜→北野武)が、生家の没落で貧しく生きながらも仕事は2の次で絵を描き続け、妻幸子(麻生久美子→樋口可南子)の理解を得、後には愛想を尽かされながら、売れない絵を描き続ける姿を描いています。
 この作品の、現代芸術に対するスタンスは、今ひとつ見えません。傾倒しているような、バカにしているような・・・。周りの友人の考えに影響されてアクション・ペインティングをやってみたり、画商の言葉にいちいち流されて流行のマネをしてみたり、主人公の真知寿自身の絵のスタイル・絵に描ける思い・信条といったものが、作品を通じて見えてきません。絵を描き続けたいと思っていることはわかりますが、どんな絵を描きたいのかが全然見えません。真知寿の絵は、画商の言葉通り、物まねばかりでしかもへたなものばかりで、それは真知寿の才能のなさを強調しているのだと思いますが、それにもかかわらず、画商がこんなの売れるはずがないとけなした絵が店の壁に掛かっているシーンがいくつかあり、実は真知寿には才能があるという主張も織り交ぜていて、これまた中途半端。全体として画家・芸術家の試みのクレイジーぶりを強調し・どこか醒めた視点で見ているような感じがします。
 作品のテーマは、道楽ばかりしている亭主を理解し支える妻、そのわがままな亭主と文句を言わずに寄り添い理解を示し陰で支える妻の「夫婦愛」といったところでしょう。確かに、作品の後半での北野武・樋口可南子コンビのばかばかしいけどほほえましい夫婦ぶりは充実していて、そのテーマは描けていると思います。
 でも、それなら、はっきりいって、子ども時代、青年時代はなくてもよかったと思います。映像としてもストーリーとしても、子ども時代、青年時代、老年時代の3つにぶつ切りにされて、その間の連続性が描かれていないし感じられません。夫婦の物語の歴史を深める意味で青年時代を置いているならもっとエピソードを重ねてつなげるべきでしょうし、そうでないなら時間の無駄のような気がしますから、子ども時代、青年時代は大幅にカットしてよかったんじゃないかと思います。冒頭のギリシャの有名な詭弁の「アキレスは亀に追いつけない」の説明も、まるで平成教育委員会かいと思うような漫画が映画のタッチから浮いていますし。

 夫婦の物語としても、樋口可南子が尽くしているからそういう形になるわけで、怒鳴りつけたりこそしないものの、基本線は亭主関白・夫唱婦随の時代錯誤のスタイルです。画商に生死の境をさまよう冒険をと言われて、ボクサーを雇って殴り合いをしながらアクションペインティングをすることにしたけどボクサーに殴られるのは妻というシーンには呆れました。バラエティ番組で自分は高みの見物で若手コメディアンに危ないことをやらせていじめて笑っているビートたけしを思い起こしました。
 それに、もし夫婦愛がテーマとしたら、仕事もせずに道楽を続け、高校生の娘マリ(徳永えり)をホステスとして働かせ、家を出て売春婦として暮らしている娘を呼び出して絵の具代がないと金をせびり、娘の遺体に口紅で落書きして版画にするといった、娘を虐待して平気な人間性の欠如はどう捉えればいいんでしょうか。娘を犠牲にしても夫婦が仲良ければいいじゃないって「夫婦愛」に、感動できるんでしょうか。
 ベネチアでこの作品がスタンディング・オベーションを受けたというのは、ヨーロッパにもなおマッチョな父権主義者が多いのでしょうか。それとも真知寿の絵を描くときの試みのクレイジーぶりが受けたのでしょうか。 

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