庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「アバウト・タイム」
ここがポイント
 タイムトラベルができても、人は身の回りのささやかなしあわせの範囲で満足する/すべきという主張が見える
 タイムトラベルを巡る理屈はほとんど考えられていない

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 タイムトラベルができる青年の恋愛と選択を描いた映画「アバウト・タイム」を見てきました。
 封切り13週目日曜日、シネ・リーブル池袋シアター1(180席)午後6時40分の上映は2〜3割くらいの入り。

 イングランド南西端のコーンウォールに両親とともに住む青年ティム(ドーナル・グリーソン)は、21才になり、父親(ビル・ナイ)から、一家の男は代々過去にタイムトラベルする能力があると打ち明けられる。それを聞いて、ティムは、夏休みにホームステイに来ていた初恋の女性シャーロット(マーゴット・ロビー)に、過去に戻って告白を試みるが結局うまく行かなかった。ロンドンで弁護士として働くようになったティムは、ある夜、暗闇レストランで知り合った女性メアリー(レイチェル・マクアダムス)と恋に落ち、タイムトラベルを繰り返して無事ベッドでメアリーを満足させることに成功する。しかし、下宿させてもらっている脚本家が舞台での俳優の大失態を嘆くのを見てタイムトラベルしてリカバーしたところ、そのために過去が変わって、メアリーの連絡先が消えていた。ティムは、メアリーの言葉を思い出して、メアリーが好きだというモデルの写真展に通い詰め、メアリーが来るのを待ち…というお話。

 タイムトラベルものでは、ふつうは、未来から来た自分とその世界(時点)の自分は併存するはずですが、この作品では、タイムトラベルした未来から来た自分が、その時点の自分になってしまう(服装もその時の服装に自動的に替わっている)ようです。もちろん、その自分は、未来の記憶を持ったままです(そうでないとそもそもタイムトラベルしてもやり直しがきかない)。そうすると、その世界(時間)にいた自分はどうなるのか、タイムトラベルで未来に戻ってしまったら、その世界(時間)の自分はいなくなるのか、またどこかから現れるのか、その点について、何の説明もありませんし、映像での補足もありません。SFの位置づけでもなく、単に、世間話のレベルでもし過去に戻れたらどうする的な位置づけだから理論的なことはどうでもいいということなのでしょうか。

 この映画を見て感じるのは、もしタイムトラベルができたとしても、人はそれほど大胆な過去の改変、その結果としての現在の改変を試みないのだなということでしょう。可能性としてはあらゆることがあっても、世の中には無数に人が/異性が、さらにいえばとてもチャーミングな/自分の「好みのタイプ」の異性がいたとしても、現実に自分が好きになる/恋に落ちるのは、その可能性が現実的にあるのはごくわずかの相手で、もしやり直せるとしてもその範囲でしか考えないものだということです。それはあまり理屈に合わないことのように見えますが、現実はそういうものかなとも思います。
 メアリーとつきあい始めたティムが、シャーロットとばったり出会い、あからさまな誘いを受けながら誘いに乗らないところも、象徴的です。このシーン、初恋の人で、相手から誘ってきてという展開ですから、結ばれるだろうと予測して、あぁでもメアリーにぞっこんでもやっちゃうかなぁ、あ〜ぁと思いながら、ティムが断るとまたへ〜意外に誠実なヤツと思いながら、きれいごと過ぎないかなんて思ったりもします。自分ならどうするという危ない話題は置いといて (^^;)、映画としては、ふつうよりも保守的な展開と感じます。
 タイムトラベルができたらという、ある種突拍子もない設定を考えてみてさえ、人のしあわせ、現実的な行動はたかが知れており、人のしあわせは身の回りの小さなしあわせであり、それで満足すべきだという、ある種保守的な思考を背景に感じ、やや嫌らしさも感じますが、同時に、そういうものかなとも思えてしまいます。
(2014.12.31記)

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