庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
知命?

 弁護士としての自分が進む道は、もうあらかた決まっていると思っています。以前からそういう志向でしたし、このサイトを開くときには自分のアイデンティティを「庶民の弁護士」と位置づけて、自覚的に企業の側での仕事はせず、現在では顧問会社もゼロになっています。それは弁護士としての伝統的なビジネスモデルには反します(弁護士に継続的に仕事を供給するのは、通常は企業・事業者ですし、安定的に得られるのは事件収入ではなく顧問料収入ですから、いかに企業・事業者に食い込むかが弁護士の通常のビジネスモデルです)が、ある面では心地よいものです。
 しかし、庶民の側で仕事をする、私の場合で言えば消費者・多重債務者、労働者、さらには原子力施設周辺住民やオウム犯罪被害者の側で仕事をするということを、私は「天命」とは思っていません。「天」という他者から、あるいは「上」から命じられたものではなく、自らが選択したわけですし、またそこに価値があると私は思っています。
 一見決まり切ったように思えることにも、別の視点で検討し、疑問を投げかけていくことは、私たちの仕事で忘れてはならないこと(といっていつまでも無駄にそれを続けても消耗しますが)で、惑わなくなったら、困難の突破も進歩もなくなるわけです。完成された/悟った人間像が決まっていて、そこに向けて段階を踏んで進み、円熟の度を深めてゆくという物差し的な人生観にも違和感を感じます。

 と、ひねくれた前置きが長くなりましたが、本日(2010年2月23日)、50歳になりました。
 でも、ごく素直な気持ちとしても、「天命を知る」という言葉はしっくり来ません。そのあたりを考えていると、上のようなことを言いたくなったわけです。
 どちらかというと、「天命を知る」よりは、「人間50年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり」の方が、自分の気持ちにはフィットします。26歳の信長が、まだ折り返し地点にある人生を、天上界から見れば夢幻に過ぎないと思い切ったのです。その50年を生きてしまった者は、残りの人生はあるだけ儲けものと考えることもできます。まぁ娘が大学に行って卒業するまであと8年はかかりますし、私の場合年齢的には弁護士人生もまだ折り返し地点と見る余地もあります(75歳までやるならちょうど折り返し地点)けど。あぁ・・・ここでも惑っている。

 どちらにしても、自分なりの生き方を続けるわけですし、ある時点で突然吹っ切れることもなく惑い続けるわけですが、残りの人生は日々新たなチャレンジと位置づけてそれを楽しみたいと思います。
 こういうことを言っていると、きっと10年後も耳に従えないでしょうね。

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