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 本人訴訟はなぜ勝てないか(民事裁判編)

ここがポイント
 裁判制度の枠組み、裁判官をどう説得するかを理解していない人が多い
 当事者は事実の見方、証拠の見方、事案の評価等あらゆる点で冷静/公平になれないことが多い

 解雇事件の場合についてはこちら→本人訴訟はなぜ勝てないか(解雇事件編)
    本人訴訟はなぜ勝てないか
 このサイトの「控訴の話(民事裁判)」等の人気もあって、私は、本人訴訟で敗訴した人の相談を受ける機会が多くあります。
 そういうケースを見ていると、法解釈の論争で負けるというケースもないわけではないですが、たいていはそれ以前の段階、どのように/どのような事実を主張し、どのような証拠を出すべきかがわかっておらず、その前提としての事件の見方、さらに言えばそもそも裁判というものがわかっていないという印象を持ちます。法的な知識というよりも、ものごと(事実関係も証拠も)を自分に都合よく見てしまい、根拠もなく裁判官が自分を理解してくれる(勝たせてくれる)と思い込み、まともな訴訟活動ができていないのが大半です。
 本人訴訟をして敗訴したケース以外でも、法律相談の場面や、事件の依頼者との打ち合わせの場でも、素人の当事者の方と弁護士で、事件の見方、証拠の評価等で、ものの見方、捉え方が大きく違うということを日常的に経験します。
 ここでは、そういう経験を踏まえて、私が考えている、本人訴訟はなぜ勝てないか、これは弁護士の仕事/弁護士に依頼する意味と裏腹ですが、それを最近書いた小説「その解雇、無効です!3 ラブコメでわかる解雇事件」の事例を使って説明します。

「その解雇、無効です!3 ラブコメでわかる解雇事件」はこちらから→その解雇、無効です!3 ラブコメでわかる解雇事件

そもそも裁判のしくみを理解していない
 こういう言い方をすると、いやそんなことはない、馬鹿にするなと思う方が多いと思います。
 しかし、事件の当事者の最大の特徴は、自分は事件の真実を知っているということです。そして、人間は基本的に自分を中心にものごとを考えますから、他の人もそのことを理解してくれると考えがちなのです。
 ところが、裁判制度というのは、事件と無関係な、したがって事件の内容をまったく知らない第三者である裁判官が、証拠に基づいて合理的に判断して事実認定をするしくみです。そこに大きなギャップがあるのです。

 「その解雇、無効です!3」では、第5章の2で、部下へのセクハラを理由の1つとして解雇された梅野さんが、玉澤弁護士から、「部下の葭子さんの陳述書では蒲田駅から帰宅中に梅野さんから声をかけられて食事に誘われて断り、気持ち悪くなって帰宅経路を変えたがしばらくしてまた声をかけられて食事に誘われて断り、さらに帰宅経路を変えたのにその後しばらくしてまた声をかけられたとされており、会社が品川で自宅が赤羽の梅野さんが自分はタピオカドリンクが好きで蒲田に通っていて偶然ばったり出会ったという説明には無理があると思わないか」というように迫られます。
 梅野さんはそれに対し「でも、本当に偶然なんです。待ち伏せなんかしていません。信じてください」と答えますが、玉澤弁護士は「私が信じるかどうかは関係ありません。裁判官を説得できるか、ですよ」と述べて次のように述べています。
 「梅野さん、当事者は、自分が経験したことだから、そりゃあ、真実を知っているだろう。しかし、裁判は、事実を経験していない、本来事実を知らない裁判官が証拠を見てどう判断するか、そういう制度だ。」「梅野さん、あなたが、自分のことじゃなくて、友人知人でもなくて、見ず知らずの人が、今梅野さんが言っているような話をしたら、あなたはそのとおりだろうと思いますか?」
 これに対して梅野さんは「それは…そういうふうに言われたら、私だって言い訳してるかなと思いますけど、でも、実際に…」と唇を噛みます。
 梅野さんのように、言われれば、自分でも言い訳がましいと思うと見ることができる人はまだましで、そこまで言われても、自分は他人が言っていたとしてもそれが正しいと思うと言い張る人もいます。

 事件について真実を知っているということは強みだと、当事者は考えています。しかし、裁判制度の枠組みの中では、それはかえって弱みにさえなりかねません。本人にとって、事件の真実(だと本人が主張している事実関係)は、証拠も証明もいらない、当然のことであるわけです。そのため、当事者本人は、裁判を進めるため/勝訴するために最も必要な、真実をまったく知らない第三者が、何を考えていて、何を求めているのか、何を使ってどう説明すれば納得してくれるのかが見えにくくなっているのです。

主張はたくさんすればいいと思っている
 裁判で何を主張すればいいかという点に関しても、自分の主張することはすべて自分に有利で、たくさん主張すればするほど自分が有利だと思っている人が少なくありません。
 しかし、裁判官にとっては、判決の結論につながること以外はあれこれ言われても邪魔な/迷惑なだけですし、不合理な主張があると主張全体についての信用性が低くなりかねません。依頼者の中には、弁護士がそれは言っても無駄と諭しても、言っても無害なら言ってくれという人が少なからずいます。無害か有害かは、その裁判官の内心になりますから厳密には判断が困難ですが、弁護士の目には無益な主張をだらだらとすることは有害に思えます。

 「その解雇、無効です!3」では、第2章の2で、訴状作成に際して、会社側の解雇予告通知書に書かれていた梅野さんの葭子さんへのストーカー行為に関して、梅野さんが蒲田にいた理由について梅野さんの言うタピオカドリンク目的の蒲田通いの主張を書くかどうかを玉澤弁護士と狩野弁護士が議論して検討しています。狩野弁護士は、梅野さんの説明を信用して、解雇理由に対する反論としてより具体的に主張すべきだと考えますが、玉澤弁護士は、梅野さんの説明に裏付け証拠がなく、いつ頃からどれくらいの頻度で蒲田に通っていたかの説明がぐらついていたことを挙げ、「裁判官がどう受け止めるか、だな。中年男がタピオカドリンクのために蒲田まで通うというのを、裁判官が納得するか…待ち伏せなどしていない、では蒲田にいたのはなぜか。そこの説明がないのも苦しいけど、不自然なとってつけたような、タピオカドリンクを買うためという言い訳がついても、プラスにならないというか、下手するとかえってウソをついているという印象を強めかねないように思う。」として、訴状での記載をあえて見送ります。
 この事件では、後に会社側から提出された証拠で3度目の声かけ場所には付近にタピオカドリンク店がないことが明らかになり、梅野さんの説明に沿った主張をそのまま出していれば、不合理な言い訳をしたと評価されて裁判官の心証に影響していた可能性があります。
 そういったことを冷静に判断できず、あれもこれもとむしろ言わない方がいいことを主張してしまう当事者が少なくありません。

何について証拠を出すべきかわかっていない
 敗訴判決を読んで、敗訴した当事者からよく言われる不満は、自分の主張に証拠がない(判決文でよくある判示としては「認めるに足りる証拠はない」)と言うけれども、相手方の主張にも証拠がないじゃないかというものです。
 その場合でも、相手方の主張に本当に証拠がない場合もあれば、証拠があるけど直接の証拠じゃないという場合もあります。後者の場合、ものごとを自分中心に考えて、相手方には完全な証拠を要求する(他方、自分の主張にはほんの少しでも関連する証拠があれば十分)という第三者の目からは明らかに不公平な考えを、自分は公平だと思い込んで言っていることもままあります。
 それはおいて、裁判で具体的な場面で何について証拠が必要かに関して、一般の方はほとんど理解していません。これは、実はそんなに難しい話ではないのですが。

 「その解雇、無効です!3」では、第5章の2で、玉澤弁護士がそのことについて説明しています。
 「裁判官の事実認定は、基本的にシンプルなものですよ。当事者が争わない事実と、動かぬ証拠がある事実を大前提として、そういう前提でふつうはどうか、ふつうの人ならどう行動するかと考えるんです。ふつうのことなら証拠がなくてもそれで認定する。ふつうじゃないことを主張するなら、それを裏付ける証拠を出してください、そういう証拠があるならふつうでは起こらないこともあったと認定しますが、それがなければふつうはこうだと判断します。そういうことなんです」
 端的に言えば、ふつうのことを主張している側は、特別に証拠がなくてもその主張が認められる、ふつうじゃないこと、ふつうでは起こりにくいことを主張する側はそれを裏付ける具体的な証拠がないと主張を認められないということです。とっても、シンプルで常識的でしょう?
 私が、判決の具体的な判示とその認定の論理(証拠)構造を示してそういう説明をすると、ほとんどの相談者(敗訴した当事者)は、目からうろこが落ちたという様子で納得してくれます。でも、そのことを具体的に解説されるまで、たいていの当事者には、自分の主張がふつうは起こりにくい無理な主張で、相手の主張はふつうの無理のない主張だということが見えてないんですね。
 その、裁判官の事実認定の論理構造が理解できていないことと、自分の主張は正しいというバイアスで、多くの当事者はどの点についてどの程度の証拠が必要かを見誤って、有効な訴訟活動ができないのです。

証拠の有利不利の評価ができない
 この点も、素人だからわからないという面と、自分に有利に見えるバイアスの面がありますが、証拠の有利不利の判断ができずに、何でもたくさん出したほうが有利だと誤解して、わざわざ不利な証拠を出して敗訴している人が少なくありません。
 現在の裁判では、電子メールや録音、動画が重要な証拠となることが多いです。それらの証拠は、それがなければ水掛け論になりかねなかった「言った言わない」を直接に証明してしまいます。それで勝訴できればいいですが、それが致命傷となって敗訴するということも、当然にあります。それなのに、第三者の目からは致命傷になりかねない不利なものを、自分に有利なものと信じて提出するケースが少なくないのです。私の経験でも、当事者が、自分に決定的に有利なものだといって持ってくる録音は、「決定的に有利」であることはとても稀で、多くは出す価値もなく、それどころかこんなもの出したら裁判官の心証を相当に悪化させると感じる場合が少なくありません。

 「その解雇、無効です!3」では、第2章の1で、玉澤弁護士が、上司への暴言について言っていないと主張してその場面の録音を持ってきた梅野さんに、確かにその言葉は言っていないが、大して変わらないことを言っているし、言い方がすごくいやらしくて裁判官に聴かせたくないこと、特別の面談でもない場面での録音があることは日常的に録音していることを示唆するから他の場面についても録音があるのではないかと推測されて、それを出せないのは不利な事実があるからと思われかねないことを指摘して、録音を出さない方がいいと諭しています。
 当事者の方には、交渉上有利になるとか、相手方への牽制とかの思惑でか、自分が録音を持っていることを相手方に伝えている/言いたがるケースも少なくありません。しかし、弁護士が内容を検討してみると、有利とは言えない、裁判所に出したくないものであることが多く、当事者が録音があるなどと吹聴しているとそれが足かせになることもあります。

証拠の使い方、証明のやり方(論証方法)がわかっていない
 証拠には、その意味が明確なものもありますが、いろいろな要素がありいろいろに評価可能なものも少なくありません。そういった証拠は、どのような主張とともに出すか、どのように使うかでまったく裁判上の意味が変わってきます。

 「その解雇、無効です!3」では、梅野さんの葭子さんに対するストーカー意思の有無(待ち伏せの有無)の論証に関して、梅野さんが葭子さんに声をかけているところを撮影した動画が問題となります。第5章の3では、撮影者が不明の状態で動画の内容が検討され、狩野弁護士は、「確かに、梅野さんが葭子さんにここで何をしていると聞いていることは、自宅を調べて待ち伏せしているということとはそぐわない気もするが、それは梅野さんがそう装っているに過ぎないとも考えられる。梅野さんの誘い方がそれほど情熱的でないことや立ち去る葭子さんを追いすがったりしていないことも、下心はないというように評価する余地はあるが、人前でありまた上司としてメンツがあるからそのような態度にとどめているとも考えられる。他方、葭子さんの驚いた表情や断る際の口調などは、陳述書の記載よりも見る者に葭子さんの困惑や不快感を鮮やかに印象づける。やはり、提出して有利になるとは思いにくい」と判断します。単純に動画を提出するだけなら、裁判官にそのような心証を与えたでしょう。その後、梅野さんに真相を話させて、この動画の撮影者が梅野さんの愛人であることを知った玉澤弁護士は、第8章の3でこの動画を提出するとともに裁判官に次のように説明します。「動画を見ていただけばわかりますように、原告は撮影者を意識してチラチラと撮影者を見ております。愛人とデート中に、愛人を待たせたまま、愛人が見ている前で葭子さんに声をかけているわけで、原告が葭子さんを誘う目的ではないことは、それだけでも明らかです。原告は、葭子さんと偶然遭遇して驚いてその後愛人とのデートの場所を変え、むしろ葭子さんを避けていたもので、葭子さんが帰宅経路を変えたためにまたしても出会ってしまったということで、原告が葭子さんを追いかけたわけではありません」
 撮影者が梅野さんの愛人で、梅野さんは愛人とデート中に愛人の目の前でそれを意識しながら葭子さんに声をかけたという事情が付け加わることで、動画だけなら有利にも不利にも働きかねないものが、ストーカーの意思などあり得ないことが明確に論証できました。このように、証拠は、さまざまな状況や他の証拠との組み合わせで、その意味も価値も大きく変わります。
 当事者は、証拠の見方について裁判官も自分と同じ見方をしてくれると(根拠もなく)思いがちです。また証拠の評価の仕方、裁判官へのアピールの仕方は、相当程度、経験にも左右されます。そのため、証拠を出すときにその証拠の意味、その証拠でどのようにして何が立証できるのかについて、十分に説明をしなかったり、うまく説明できないということになりがちです。

最後にひと言
 このように、私が経験上感じている本人訴訟をする方が敗訴している原因の多くは、法律の知識や法解釈の知識以前のところで、裁判というもの、裁判官に主張すべき事実の選択、提出すべき証拠の選択やその出し方について、基本的な知識がなかったり、自分中心にものごとを見てしまう当事者のバイアスにより誤ったやり方をしていることにあります。
 そして、それらは、特にどのような事実を主張し、その事実をどのような証拠でどのように論証するかは、私たち弁護士も、個別の事件毎に、何がベストか、ベターかを考えて、日々試行錯誤しながら、よりよい実務を追求し続けているものです。私は、そういった部分にこそ、弁護士の仕事の価値があり、弁護士報酬をいただいている基礎となっているものだと自負をしています。
 もちろん、日本の裁判制度上、民事裁判に弁護士を付けることは義務づけられていませんし、弁護士報酬は安いものではありませんから、弁護士を付けずに民事裁判をするか弁護士に依頼するかは本人が選択することです。弁護士報酬を支払って弁護士を付けるかどうかは、その人のその裁判に対する真剣度、その裁判の重要度で決めるべきことでしょう。私たち、弁護士としては、みなさんが弁護士に依頼することを選択して欲しいと思っていますが。

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